愛だったこと。
「私はもう死んでしまいました。風に乗ってやってくる季節の匂いも忘れてしまいました。そしてあの人も死んでしまいました。私を見るあの人の目つきはまるで死んだ魚のようになってしまいました。私への愛など今はこれっぽっちもありませんでした。」
と彼女は虚ろな目で私に言った。
「静寂な夜に落ちて、忘却していくことへの安心感を憶え、溶けていく時間に飲み込まれることに心地よさを抱いてしまうようになりました。何が真実で何が嘘など知る由もなく、ただ私は何かを信じたいという想いしかありませんでした。私の真っ直ぐな想いが宙を舞って奈落の底に堕ちていくなんて。」
冬だというのにアパートの桜が咲いていた。
場違いだと気付いたのか申し訳なさそうに、色も白に近く、この木が桜の木だと知らなければ誰もこの花の正体を知らないだろう。
あの人と出会ったのは春だった。
夜はまだ冬の寒さが残っていて、春の匂いがする冷たい風が私の肌を包み込んだ。
深く重い夜だった。
そして私はコインランドリーで洗剤の香りに包まれながら泣いていた。
コンビニで買ったカフェラテは氷がほとんど溶けてしまって時間の流れを感じた。
あの人は私の頭をそっと撫でた。そして目を細めながら呟いた。
「僕はとてもきみの笑った顔が好きだよ。笑ったときにできる目の皺、右の口端にできるえくぼ。」
「春になると、とても切なくなる。悲しいことなんてないのに急に切ない思い出を思い出したような気持ちになるの。」
コインランドリーには私と彼しかいなかった。
この世界には私たちしかいないように感じるほど静かな夜で余計なものはなに一つなかった。
彼の目の奥は澄んでいて、全てを見透かしているように感じた。だから私は彼に嘘をついたことは一度もなかった。嘘などつけなかった。
彼は優しい匂いのする人だった。
彼に抱きしめられると安心した。彼の胸に鼻をあてて思い切り息を吸い込んだ。私の身体の中に彼の匂いを閉じ込めたくて。
彼から連絡がこなくなったのは夏が去っていく時と同じタイミングだった。少し肌寒く、夜になると秋の匂いを感じさせる風がふいた。
私は泣き生活を送っていた。
そして数ヶ月が経ちとうとう秋になった。
彼から連絡がきた。
ごめんね。
私はまた泣いた。
ある日、駅の改札を出ると彼は私の知らない子と一緒にいた。
時間がぴたりと止まった。
彼に会えた喜びと戸惑い。
私に向けられた視線は優しさや愛など微塵もなかった。
さよなら。