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プラグマティズムは日本の最大多数?:功利主義との違い

 前稿『ジョンステュアートミル『功利主義/Utilitarianism 』を読む。その2:功利主義はプラグマティズムではない。』には最大多数の最大幸福を志向する功利主義、utilitarianism or meritocracyはプラグマティズム、pragmatismとは異なることを述べました。
 プラグマティズムの日本語はやや説明的訳になりますが正確には既成事実主義でよくいわれる実際主義、実用主義や実利主義ではありませんし中には功利主義と混同していう向きもあります。
 プラグマティズムと功利主義が混同されるようになったのはそもそもはプラグマティズムは反功利主義ですが、功利主義的政策が成功を見ていた田中角栄政権の時代、1970年頃にプラグマティストの方々がその人気に紛れ込み利益と権力の分配を得るために政権とその支持勢力に接近したことからかと考えられます。
 その二者に加え、列島改造の政策を以ても猶利益の享受とは遠く不公平を感じざるを得ない層が圧力団体等に加わり(圧力団体そのものが政治において悪いものな訳ではありませんが様々ある中の一部として。)、有名な賄賂政治の構造が出来上がります。
 ミルの『功利主義』はそのような賄賂政治と賄賂社会についても直接の言及はありませんがその道徳についての考察がその示唆になります。
 これは功利主義がこれから再普及を図るためには避けては通れない命題の一つになります。海部俊樹総理の著『政治とカネ』なども参考になるでしょう。

 プラグマティストが功利主義を嫌う主な理由の一つがそのような「最大多数の最大幸福とはいうが結局は不公平になるものだ、」というものです。
 それに対しては功利主義には様々な考え方があり、多少の不公平はし方がないとする向きもあるし不公平を埋めて平すことはできるとする向きもあります。私はどちらかというと不公平を容認する考え方です。
 功利主義が公平な利益を疎外される少数者(minorities)の利益を重視することは’70年代頃まではあまり知られてはおらず逆に少数者を切り捨てるものかのように思われていたようですがこの五十年ほどに徐に知られるようになり、アメリカのオバマ政権の人気なども影響し日本以外には既に常識となって来ています。トランプ政権とその支持層さえ功利主義的既成勢力に勝つためには自分達も功利主義を取り入れなければならないという認識になって来ています。

 尤も功利主義を結局は不公平なものだというプラグマティズムはそもそもが不公平で、要はやって不公平ならばやらずに不公平な方が良いという訳です(それが必ずしも悪いとは限らないでしょう。)。しかしプラグマティストはしばしば既成の不公平を公平だ、それが真の平等というものだと主張することがあります(プラグマティズムにも様々あり、全てのプラグマティストがそうなのではありません。)。「やって不公平」を阻止するためには存在しない課題(自らも取り組むつもりはない。)を捏造し(事実上廃案となったものを掘り出して来るなどあの手この手。)て解決すべき課題は山積しているのでそれらを優先すべきだと主張することもよくあります。

 プラグマティストではないというならそんなことが何で分かるのか、実はお前がそうなのかと思われるかもしれませんが😅敢えて潔白の主張はしません😅。私もやろうと思えばできます😅。

 良い例にせよ悪い例にせよ、プラグマティズムのいわば最高原理は:

やらなくていいことはやらない。

 やっていいことはやるということはどんな思想も同じでプラグマティズムも然りですがプラグマティズムはやっていいことをやるということを然程には重視しません。何故かといえば、やっていいことをやるということを重視するとやってはいけないことはやらないということを必然に考えざるを得なくなりますが、プラグマティズムは物事を善悪に還元することはなるべくしない。何故かといえばそれはやらなくていいことだからです。若し或る物事の善悪の判定を強く求められれば(例えば裁判員に指名されるなど。)それはやらなければならないことということになるので善悪を示すという判断になります。

 物事の善悪の判定をなるべくしないということは通常は非常に寛容そうに見えます。いわゆる「いい人」という印象です。日本人は優しいという印象はそれも一つの影響です。プラグマティストの占める率が日本以外と比べかなり高い。多数ではないが公明党の位の数と力はあるでしょう。
 公明党はプラグマティズムをそれなりに重視しますが一方では功利主義、即ち最大多数の最大幸福をもそれなりに重視する政党です。故にここにいうプラグマティストととは何となく明確に異なるところがあります。公明党の政治家達は恐そうには見えませんが優しそうにも見えませんね。
 しかしこの四半世紀に亘り公明党がかくも著しく数と力を増長していることは公明党もそれなりに重視しているプラグマティズムがこの国に三度目の興隆を見ていることとの相関があるといえるかと思われます。
 その興隆の一度目は富国強兵の時代、二度目は石油危機の時代、そして三度目が今の日本凄いの時代です。
 それらは各々、日本の近代化という既成事実、高度成長の終焉という既成事実と衰退の兆しという既成事実に依拠しています。それらの既成事実、即ち現状、status quoの変更は力によるものだけではなく力によらないものをも許さないという確固たる意思がプラグマティストを支えています。

 公明党の他にプラグマティズムと功利主義を両立重視しようとする政治家はもう一方おり、それは鳩山由紀夫(友紀夫)、民主党の代表として総理になった者です。
 鳩山はプラグマティズムを重視するという点で功利主義者達の懐疑を招き、功利主義を重視するという点でプラグマティスト達の憎悪を招きました。日本を含む西側世界の近代思想史の弊害を彼は一身に繰り返した。
 これは日本が無宗教的国柄である故にプラグマティズムにしても功利主義にしても、他の何にしても思想哲学がほぼほぼ自己の全人格を規定する絶対価値、いわば宗教の代替とされがちな風潮が影響しています。
 プラグマティズムと功利主義とか功利主義と武士道とか論語と算盤とか…、異質の思想哲学の並存両立を嫌い、一つの思想哲学を唯一の絶対価値とするか色々な数多の思想哲学は皆根が同じだからそれらを全て一体化するかのどちらかでなくてはならないと考える人々が結構多く、日本はほぼ世界に唯一の一神教の国ともいえる訳です。
 鳩山を支援した小沢一郎についても大体同じで、俗に言う、言うこととやっていることが違うという非難です。しかしそのような非難からは何の幸福も生まれません。
 言うこととやっていることが違うことを非とすることは『武士道』の新渡戸稲造も批判した武士道の大衆化によるものです。例えば時代劇の見過ぎとか2ちゃんねるの見過ぎとかが武士道の大衆化に該ります。

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