自分で自分を癒せるようになった


日々のモヤモヤを感じたときに、自分でそれをどう消化させるかがわからずわからなかった時のこと。


辛い時に人に頼ることは悪いことじゃない、むしろそれができない人が多いと思うので、自分の力じゃどうしようもできないときは、堂々と人に助けを求めて欲しい。

私は、人に堂々と頼むことができないくせに、むしろ、人が何かを察してくれることを期待してしまっていたのだと思う。

でも、自分がそうじゃないように、人は私をご機嫌にするために生きているのではない。私が期待する行動をいつも取ってくれるわけはない。

以前、とある人に自分で自分を癒せるようになるといいね、と言われたことがあった。

じゃあ、自分を癒すってどういうことだろう。

その時はいまいち意味がわからなかったけど、今私なりの方法を見つけ出した。

そのうちのひとつは、

自分ができなかったことを責めず、小さなことでも何かしらできたことを認めてあげること。

日本人はもともと人を褒めないし好きだとかポジティブな感情を言葉に出すことが苦手だけれども、逆にネガティブなことはなぜか口にできる気がする。何ができなかったとか、もっとこうしたらいいのに、とか。自分に対しても、人に対しても。毎日やりたいことは思いつくけど、100%できていないときに、ああ、またできなかった。。。と、自虐に走る。それをいい加減やめようと、ここ1年頑張ってみた。

今でもそういう風に思わないわけではないけど、じゃあ、全く何もできていないのか?と振り返ると、全くそんなことはなく、何かしら成し遂げていることは絶対あるはずで。

例えば、今日はキッチン周りをいつもよりきれいにできた、とか、本をいつもより多く短時間で読み進めることができた、とか。一見小さな、でも成し遂げられたことを日々敢えて自分に気づかせてあげて、それを毎日繰り返していると、あら不思議、1年を通してみたら、とっても大きな変化をいしていることに気づいて、さらにまた自分を褒めてあげたくなって、気づけば、自分で自分をいい気分にさせてあげることが前よりできるようになった。

もう一つは、

日々の小さなことに対する幸せをかみしめるクセがついたこと。


幸せは長く続く状態ではなく、小さな幸せな瞬間の積み重ね。コロナになってから、より深くそれを感じる。対象は本当になんでも。秋の移り変わりとともにご近所の家から香る金木犀がいい匂いだったり、近所の野良猫が体を撫でさせてくれて嬉しかったときだったり、どなたかがきれいに整備し掃除してくれた歩道を朝の空気がきれいな中駅に向かって歩いているときだったり。

日々慌ただしく生活していた時は気づくことができなかった日々のことに対して、こんなにも私はありがたい生活をできているのだ、とじっくり味わうことができるようになった。それは少なからず、コロナのために在宅ワークになり、人に会うため外を出あることが激減し家にいる時間が増え、時間に余裕ができたからに他ならない。

もちろんそれで腹の足しにはならないかもしれない。突然失業したときに、そんな悠長なことなんて考えていられないというのも事実。ただ、少なくともこの日本の、その中でも特に平和な場所に身を置けている以上、一度一文無しになったとしてもどうにかして何とかして、生きていく術は探し出せる、作り出せると信じよう、そして、自分にはその力があるはずだ、と、自分を信じることが前よりはできるようになった。

一歩間違えば、変わらなければいけない現実から目をそらして、今のままでいいのだと現実逃避することになりかねないので、それはいつも意識が必要だなとも思う。だからと言って、今命あって生きて居られている以上、先の見えない不安におし潰されるくらいなら、今ある環境の中から楽しみを見つけて、自分をご機嫌にし、それを力に変えてまた一歩進みたい。

と、そんなポジティブな癒し系のことを書きつつ、ネガティブな日はあるわけで、そんなときに私はこれを聴いて心のデトックス。なかなか自分の口でいう事ははばかられることを素敵な音楽に仕上げて歌ってもらえるなんて、本当に人癒す音楽の形って無限大だわ~。

音楽って、素晴らしい★


この一年、本当に悲しいニュースが多かった。

この記事を読んでくださった皆さん、時に人に頼り、少しくらいなら人のせいにして、自分なりの喜びだけを日々噛みしめて、来年の春まで、頑張って生き延びましょうね。

日々の備忘録が、少しでも誰かの何かのヒントになれば…そんな裏テーマを持ってこのブログを始めました。読んでくださってありがとうございます。