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可視化された“共感”だらけの時代のなかで。『アーモンド』を読んで思うこと。

この夏ARMYが夢中になっている番組「IN THE SOOP」の中で、ナムジュンとユンギが読んでいる一冊の本がある。無表情な少年の顔のイラストが大きく描かれたその本は「アーモンド」という小説だった。

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IN THE SOOPの予告の時からアーモンドを開いていることに気づき、購入して序盤は読んでいたのだが、苦しくなってしまい、一度閉じていた。

ネタバレにならない程度に概要を説明すると、主人公の少年は、脳の一部が未発達で、感情がない。痛いとか辛い、とか感覚的なことはわかるが、喜怒哀楽、恐怖といったものすべてがない。そんな少年がどういった人生を送るかを見ていく内容だ。想像するだけでも、容易な人生ではないことはわかるだろう。

小さい頃の私は、どんな映画を観ても涙を流すことがない子供だった。
両親は、この子は感受性が薄すぎるのか、共感性が低すぎるのか、と心配していた。アーモンドを読みはじめたばかりの時、そんな昔の自分と重なるところがあり、少し恐ろしくなって(いや少し気分が悪くなって)閉じてしまったのだ。しかし、今週、一人森の中でこの本と向き合うことにした。

そんな人間がこれからこの本を読んで感じたことを書き記すわけなので、一般的な感覚からずれていることもあるかもしれないのであしからず。
(ネタバレしないように心掛けているつもりです!)

主人公は、開いて2ページ目でこれから始まる物語についてこう話す。

「その結末が悲劇なのか喜劇なのかをここで語るつもりはない。(中略)実際の話、どんな物語でも、本当のところそれが悲劇なのか喜劇なのかは、あなたにも僕にも、誰にも永遠にわからないことだから。」 

感情を持たない少年を通して描かれることは、どれも見たままの風景だ。
だからこそ、読者である自分が、そんな光景に出くわせば「普通なら」どう感じるかを常に考えることになる。

感情をもたない主人公は、人生をうまく切り抜けるために、母親から教えてもらった、「人がこうした時はこう思うのが『普通』、こう言われたらこう返すのが『普通』」ということを暗記して、対応して過ごしている。しかしそんなケースバイケースで対応できることだけではないのが人生だ。色んな出来事に巻き込まれ、人と違う彼だからこそ生み出した結末がある。

私はこの本を読んで、「感情の見直し」ができたような気がしている。
私自身も大人になるにつれて、そつなく生きていくために、こう感じるのが普通だという世間での感じ方のルール・枠のようなものに囚われてしまっている気がしたからだ。

小さい頃、映画を観て泣かなかった私は、どの映画も悲しいと感じなかったから、それだけの理由だった。感情がなかったわけではなく、よく言えば、大人が涙する箇所ではない、別のポイントに嬉しさや幸せを見出していたのではないかと思う。人からどう思われようと気にせず、完全に自由だった。

タイトルに書いた「可視化された共感だらけの時代」とは、もちろん、SNSのことを指している。いいね、シェア、という形で、あなたの考えや思いに共感・支持・評価しています、という意思を伝えている。何気なく1日中、何かに共感して生きている。沢山いいね、と言われているものはいいものなのだと思えてくる/いいと思うことが世の普通なのかと知る。沢山シェアされているものが、支持すべき意見なんだと感じる。誰もが考えを発信できる場で多様化しているようにみえて、自分が属するコミュニティではこう感じなきゃいけないという価値観の押しつけのようなものが一層強まっているようにも思う。「共感」という感覚は時に残酷だ。「共感の声が広がる」という言葉があるように、多くの人がその考えや意見に寄り添いはじめると、そうすべきなんだと思えてくるものだ。

私たちは、自分の心で感じ、本当にいいと思うのか、自分でジャッジすべきものをいつの間にかコントロールされて、本当の自分が感じている感情を押し殺すことに慣れはじめてはいないだろうか。それはまるで感情をもてない主人公が公式通りにコミュニケーションをしていた時のように、画一的で不自然だ。

Black Lives Matterが再燃したこの春、一冊の本を紹介した。

共感(シンパシー)ではなく、エンパシーという言葉がある。
シンパシーは、同情や共感などといった感情の動きを示す言葉。エンパシーは、自分と違う価値観や理念を持っている人が何を考えるのか「想像する力」のこと。大変な話をきいて、大変だね、と言うのがシンパシー。
エンパシーは、「自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力」だとブレイディみかこ氏は説明する。ブレイディさんの息子さんは「自分で誰かの靴を履いてみること」だという。エンパシーは感情的に共鳴することではなく、知的な作業であり、積極的にそうする機会を増やして鍛えねばならない能力でもある。

おそらくSNSという自分でフォローする人を選ぶ場所では、自分と違う理念や信念の人に出会うことは少ない。だから、同じ価値観の人が「悲しい」と言っているのだから、共感してそれは「悲しいね」と返すので正解だと思いがちだが、エンパシーで、もし自分ならどう感じるかを考えてみると、「悲しいね」ではない言葉が浮かぶかもしれない。ただ共感する、だけでなく、一度自分ならどうかを考えてみる、を意識的にやってみると、共感の呪縛から少し開放されるのかもしれないと思う。


物語は、悲劇なのか、喜劇なのか、どう感じるかは人によるし正解はない。ナムジュンとユンギはどちらと感じたのだろうか。
二人とも、自分の感情や心の動きに敏感で、それを言葉で紡げる人として、
感情をもたない主人公の人生に何を感じたのだろうか。

ポップスソングは、誰にとっても共感できる歌詞が多い。
BTSの曲は、必ずしも大きな共感を生むものばかりではない。自分たちのこれまでのヒストリーや主義主張を伝える歌詞は、これまで考えたこともなかった問題を提起してくることもあるし、感じたことのなかった感情を目覚めさせてくることもある。
そんな曲を書くナムジュンとユンギだから、もしかすると、こう感じるべきだということに縛られて生きていないのかもしれないが、
いつかアーモンドを読んで感じた「感情」の見直しがもしあれば、
それが歌詞となって現れることを楽しみにしている。

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