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君は頭で考えがちだね

美大に入ってからというもの、口裏を合わせているのではないかと勘ぐるくらい何度も言われた言葉だった。(その8割は僕が頭の中で反芻したものにすぎないが)

はじめは先生の意図がわからなくて、「それ以上質問するなよ」と釘を刺されたのかと狼狽した。


文字は不完全だ。スクリーンに映る、光の羅列は表情も、感情も、体温も教えてくれない。

そしてまた、「言語化しないと伝わらないよ」と、ここ3年間言われ続けてきてもいた。
ピーターパンが嫌いでフック船長に憧れていた理由も、人を傷つけて反省しない悪人みたいな幼なじみと喋る死ぬほど楽しいあの時間も、よくわからない。
言語化した途端に本当の好きが滑り落ちていく気がしていた。でも、それはきっと考えが足りていないから。自分と今まで向き合ってこなかったから。

言語化こそが「正解」だと、そう教えられた。自分を受け入れてくれたコミュニティではそれが当然だった。だからよくわからないピカソの絵も、何がすごいか勉強した。

確かにピカソはすごかった。

今は絵画の歴史からピカソのすごさは言語化できる。
それでも、青の時代の作品を見たときのピカソに対する想いは、評論家には言語化されたくないし、わざわざ言葉に起こすのはなんかいやだな。言葉にすると、もうそれ以上の想いが見えなくなりそうで。

フランシスベーコンの描く作品を見たときのあの感情を、「怖い」「気持ち悪い」のような単純な形容詞で済ませるほど、つまらない作業はない。

ビデオダンスの授業では、理解できない映像作品を山ほど見た。いつも話す先生の作る映像作品でさえ、意図は掴めなかった。

映像ひとつひとつの表現を質問すると、「計画して作ったのではなくて、撮った素材からなんとなく構成した」そんな曖昧なことを言っていた。

目的は?
「目的かぁ、うーん。見た時によくわからない言葉にできない感情を持って欲しかった」

なんだよそれ。ずる

その後の授業は考えることをやめてひたすら椅子と戯れてと言われた。よくわからなかったけど、何度も床に傷をつけて、自分も怪我をしながら体をうねらせた。

恥ずかしかった。誰にも見られてないのに自分に笑われているみたいだった。そんな素面に戻ることも悔しくて恥ずかしかった。だんだんそんな感情に触れることがつらくて、無心でやり続けた

撮影した動画は訳がわからなかったけど、先生は「すごくいいね」と褒めてくれた。嬉しかった
考えて考えて、理論武装して「本当」の自分を見せなきゃいけないと必死だった。
でも、考えてない自分が、少なくとも授業では必要だった。それを見て、少なくとも自分は「こんな自分でいたいな」と思った。

「君は頭で考えがちだね」なんて言われたときは、悔しくてたまらなかった。
自分は感覚派だと思っていたし、言語化のためにとことん質問する姿勢に間違いはないと信じていた。

でも世の中のほとんどのことは、言語化できない蜃気楼に溢れていて、しなくてもわかる人もいる。

こんな話を会議でしたら「言語化しないと理解してもらえないよ」と返された。理解されなくてもいいじゃん。理解してもらえないと思うけど。

だって小学校の時の一目惚れしたあの瞬間も、突然車に乗せられて遊園地に行く途中で話したくだらない会話の面白さも、言葉にした途端に、違うモチーフになっちゃうよ。

はっきりと情景が浮かぶあの歌の歌詞を読んでみたら、さっぱりよくわからない。辻褄が合わない言葉同士なのに、歌にした途端に理解できる。

言葉を介すという行為はまだまだ不完全な機能なんじゃないかな。
言葉の始まりは歌らしい。みんな昔は歌って会話してたんだって。今もそうだったらいいのになあ。

言葉は両手で水を掬うように、思いをつかむ。指の間からするすると思いは滑り落ちて、微かに残る水を口元に注ぐ。

「そんなことしなくても、水は飲めるのに」
と誰かが呟いて、口元を拭った。
湿った袖の水分は夏の日照りが消し去っていく。

カゲロウが蜃気楼のように空気を漂っている


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