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神奈中バスの話をしようと思ったら葬儀場の話をしていた/[相05]相模大野駅北口行き(神奈川中央交通)

重度の神奈中依存症なので2か月に一回くらいはがっつり摂取しないと死に至る。

ので、わたしは相模原駅にいる。

相模原駅で適当にバスを見定めて乗る。大野台経由の相模大野駅行き。
相模原という都市は市役所をはじめとする行政施設が駅から離れたところに固めて配置されている。その固まり具合はそれこそ官庁街と呼ぶにふさわしい規模だが、微妙にクルマ社会に染まりきってない地域でそれをやられるとそれなりの不便を強いることになりがちである。
相模原駅南口を発着するバスは大きく分けて西の橋本、南西の上溝・田名方面、南方面の上溝・相模大野方面へ分かれていくが、このうち一番本数が多い南方面へのルートが官庁街を通過してゆく。わたしが乗り込んだ相模大野駅行きもそのようなルートをたどっていくが、時間は8時30分過ぎとあって車内は出勤する職員や役所に開店凸しにいく血気盛んな市民らで満員御礼の様相を呈していた。

相模原市役所のあたり

官庁街へはバスで10分かからないくらいで到着する。「市役所前」「市民会館前」「税務署前」といった名称のバス停に止まりながら職員や市民を吐き出していく。局所的ではあるがダイナミックな光景だなと思う。

官庁街を過ぎるとなんともピンとこない相模原の住宅街をトコトコと南下していく。「和泉短大前」あたりから住宅が途切れ始めるようになり、代わりに資材置き場やトラックターミナルのようなサツバツとした光景が少しずつ増えてゆく。そんな景色も松が丘の辺りから今度は針葉樹が目立つゴルフ場の景色へと変わり、いよいよ相模原っぽいなという気持ちが強くなる。

相模原市内の国道16号線沿線はロードサイド文化の代表格として取り扱われることが多い。現代のロードサイド文化における「代表格」なのかどうかというのは正直若干の疑問があるけれど、その先駆けのひとつであることは間違いないと思う。わたしが物心ついたときから巨大なトイザらスがあり、やおら大きくてロンドンバスとプレイエリアがあるマックがあり、当時は先進的だったサラダバイキングのシズラーというレストラン(相模原の店舗は閉店しましたがいまでもありますね)が入った日本でもかなり草創期のアウトレットモールである「ビーズウォーク」とかがあったりして、90年代の「アメリカン」が日本ナイズされずにそのままボンボンと並んでいるような、25年くらい前の相模原の国道16号線沿線はそんな感じだった。

いまとなってはどこにでもあるようなチェーン店がならぶ、本当の意味で「ロードサイド文化」になった気はするけれど、あの時、相模原は確かに「アメリカ」を感じられる場所だったと思う。わたしにとってはゴルフ場の青々とした芝生と針葉樹が広がる景色も、その「アメリカっぽさ」と脳内で結びつく。ふと冷静になってみるといまの相模原にアメリカっぽさってあるか?と思ってしまうし、知識ばかり身についた頭でっかちな子供になったいまでは福生とか横須賀の方がよっぽどアメリカじゃんと思ってしまうけれど、でもあの時からずっと、相模原は「アメリカ」なんじゃないかという思いがあって、それは大人になったいまでも心のどこかに残っている。

パチ屋の液晶はデカければデカいほどよい

そんなことを考えていたら相模大野の駅についてしまった。ペデストリアンデッキにのぼって、商店街の奥の方を眺めてみたら、あったはずの伊勢丹が無くなってぽっかりと空白になっていた。
わたしが立ち止まっていてもまちは変わる。思い出は美化されるというか、難しいことを考える必要がなかった子供のころの記憶は、勝手に楽しいものへと変換されていく。それはわたしが恵まれていたことも証左でもあるけれど、瞼をあけると、あったはずの伊勢丹はなくなり、トイザらスもわたしが成長し行かなくなってしばらくしたら潰れてしまった。画期的なアウトレットモールはゲーセンになった。あの頃のワクワクはないけれど、パチンコ屋の大きな液晶画面に「ストップ!子供の車内放置!!」って出てきたり、沿線にできた葬儀場のロードサイド看板にぶら下がった大きな電光表示板に「○○様葬儀14時30分~」とスクロールするのを見ていると、まだまだロードサイドもサイバーで粗削りで冗談が通じる場所である。捨てたもんじゃないなと思う。

画像はイメージです(小泉構文)

心底、人生の大半はロードサイド人間であった。


(続く…かな?)

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