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#論文を読む しぶいオジサマ方とイスラム法廷

中央アジアについての日本人学者による研究は多いのだが、その殆どが文化人類学的な観点からのものである。私もこの分野の調査はまだ日が浅いのですべてを知っているわけではないが、中央アジアについて特に法学の観点からの研究は、多くない印象である。ソ連であったので、ソ連法という大きなくくりでみられているせいもあるかもしれない。独立後まだ30年弱と若い国であり、そして独立後の法の多くが現在のロシアの法を参照しているせいもあって、独立して研究する意義に乏しいと見られているのかもしれない。

そしてさらに問題は、ウズベキスタンの学術界それ自体の蓄積が脆弱であると言わざるを得ない点にあると思う。こちらもすべてを知っているとはとても言えないが、現地で学生指導をする中で、自分の研究テーマに関連する既存の研究、つまり「先行研究」が殆ど見当たらず、見つけることのハードルがあまりにも高かったという実体験に基づいている。ウズベクきってのエリート大学でも、図書館とは名ばかりで、本格的な研究をしようと思うと参照すべき文献が見つかった試しがない。また、国立の図書館でも、見つかればラッキー。検索は学生自身で行っていたので、調べ方が甘いということはあると思うが、それにしても日本でそこまで苦労することはないと思う。学生たちは、結局インターネットや私が引き継いだ日本語文献を参考にするしかなかった。

ウズベキスタンの大学は所管省庁があって、例えば外務省は外交大学、法務省は法科大学といったように省庁の人材養成機関という意味合いが強い。そのうえで文部省が教育内容を監督している。知り合いの先生は二重の監督があるといって本当にゲンナリしていた。つまり大学といっても政府機関なのである。そこで政府批判をすることが困難なことは言うまでもない。日本のように旧帝国大学教授が堂々と官邸前で政府批判演説をするようなことはまず起こり得ない。日本は自由で民主的で良い国ですねえ。アカデミアがその状況では、学問の自由など当然なく、ウズベキスタンでは、政府の政策を賛美するだけの御用学者だけが生き残ることができるんだろうなと思う。

この背景を踏まえて、ロシア人旅行者(といっても政府の人メイン)による手記を使い、ウズベク「三ハン国」時代のウズベキスタンの法廷の実態を明らかにしたР.Ю. Почекаев氏の論文「18世紀のロシア人旅行者の手記における中央アジアのハン国の国家及び法(仮訳)」を読んでみると、とても興味深い。著者は、中央アジアの三ハン国、すなわち16世紀頃から今のウズベキスタンの地域に存在したムスリムの王国、ヒヴァ・ハン国、ブハラ・ハン国、コーカンド・ハン国については、歴史や政治についての研究は十分になされているが法の発展については不十分であるとし、その理由は残存する法的な文献が乏しいことにあると指摘する。また、ハン(王)が正当なイスラムの継承者であることを強調するために、裁判所について書かれる文献はあたかもムスリムの法である「シャリーア」に厳格に基づいているように描かれている。ところが、ロシア人旅行者の手記を紐解くと、実際には、必ずしもシャリーアに基づいているとは言えず、モンゴルの遊牧民の慣習法を適用するなど、割合柔軟な判断がなされていたという。これには、様々な部族間の権力闘争が背景にあると分析しており、カザフ系の権力者がタシケントの裁判所の判断にトゥルク系モンゴル人遊牧民の慣習法を持ち込んだという。18世紀には、すでにハン(王)の権力は形骸化していた。

ちなみに、私はコーカンドの王宮に行ったことがある。正直、展示にはやる気がなくあまり興味を惹かれなかったが、シャリーア法廷に関する展示は一応写真を撮っておいた。上記論文を読んでから改めて写真を見ると、たしかに、なんだか「シャリーアに厳格に基づいて仕事してたぜ!」感満載なのである。

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コーカンドの旧王宮の入り口。外見はとても素敵なんだが、中に入ると拍子抜けするくらい展示にやる気がなかった。夏なのに観光客も少なく人はまばら。

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カーディ(裁判官)によってハン域内において行われた裁判の様子、とある。ここでは最高裁判所裁判官。ハン(王)個人によって指名されたらしい。公的なこと、私的(家族)な生活のことすべてはシャリーアに基づいて判断されたとある。しかし、上記論文から分かるように、これは大人の事情による表向きな説明であり、実際には、モンゴル遊牧民の慣習法も結構取り入れていたよ、ということになる。

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裁判所において当事者の訴えを筆記する人たち。今で言う、裁判所書記官ですね。手持ちのコンパクトなノートにペンのようなものを使ってるんですね。

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当時の文献。細かい内容は読めませんが、当事者双方の主張、シャリーアの原則、そこから導き出される結論などが書いてあるのだろう。

こうした公式な文献はそれはそれで重要であるが、実態はそれだけでは分からないというのはいつの時代も同じなんだなと思う。その意味で今回取り上げたロシア語の論文は当時の裁判所の実態を明らかにした貴重な資料である。2000年も同じ国であった日本人からすると、大陸の真ん中にあって熾烈な権力闘争を繰り返し国家の形も宗教も価値観も複雑な変容を遂げてきたこの地域を調べることは、毎度本当に新鮮である。視野をぐいっと引き上げられて落とされるような感覚である。これからも少しづつ論文を見つけて、忘備録的に紹介していきたいと思う。

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