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「私」、三人居る説。大学生の仮説

自分の意識の成り立ちについて、本を読み

言葉の成り立ちに関する文章を読み

そうするなかで、私の考えは、目まぐるしく変わっていった。

きっと一年前の私は思いもしなかっただろう。

自分という人間が、「三人」存在するかもしれないと思うことなど。

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この記事を読むと、より一層理解していただけると思います。

三人目が現れた!?

まさか三人目が現れるとは思わなかった。

今までの一人や二人目と同じく、言葉での説明がムズカシイ。

さて

この三人目を認識する要因になった文章を引用する!

現実の皮膚と同じように、「ことば」という透明なもうひとつの皮膚も、敏感に働き、その柔らかさにおいて機能する。そこに触れる「ことば」の温度や動きを、意味を担う刺激として受け止める。現実の皮膚よりも、もっと複雑かつさらに微妙に、意味の強弱や動きや肌ざわりを明確に感じ分けることができる。それゆえに、深く傷ついたり、その温かさに安らいだり、意図を思いわずらったり、心を動かされたりする。「ことば」が質量もエネルギーもない現象でありながら、まさに相手や自分の身体を動かすことができるのは、それがセンサーであり、皮膚として機能するからである。感動という表現は、文字通り感じて動かされると書く。あるスピーチを聞いて、ある詩を読んで、感動したという時、ひとは、言葉に触れて震え、身体が感じて、ことばを皮膚とする自分が動かされたことを表しているのである。佐藤健二、2012、「見えない『手』ともうひとつの『皮膚』」、『ケータイ化する日本語』、北村尚子編、大修館書店、22-23

今まで私は自分の中には二人なのか・・・と思っていました。

まず一人目が、この皮膚の内部に存在する自分。

二人目が、自分が自分であると客観した時に表れる自分。

そして三人目が、

この皮膚に囚われてはいない、外部の自分。

これが私が考えられる「自分たち」である。

つまり、一人目と二人目は皮膚に囚われており、

三人目は、皮膚に囚われていない、ということになる。

ことばを使う時

そしてこの三人目は私たちが言葉を使う時、「言葉」を介して事象を理解するときに表れる。

引用にもある通り、文字を読み、聞き、話す、そのような行動によって自分自身が心的に動かされたように感じるのは

単一な存在としての自分がそう感じているのではなく、

目には見えないが、外に居る三人目の自分が「言葉」による刺激を感受し、それを一人目である私が感じている、ということだろうか・・・。

一人では不可能

おそらく、私は残りの二人がいることで、私は人間として存在できているのだと思う。

今一度、言葉を介さず、自分という存在を意識せずに、ただ眼前に広がる景色を見つめると、

そこにいるのはやはり

一人目の私がポツンといるだけ

なのではなく、

誰もいないのである。

あるのは自分と酷似している肉塊だけである。

故に

自分で考えたり、もしくは「言葉」を使おうと、「言葉」を通して情報を得ようとしている時は、その二人の助けを借りなければならない。

何と言う事だ。

終に、私は三人になってしまった。

ぼっちだなんだと言うが、そこには見えないものの、私でありながら、しかし私ではない「誰かが」寄り添ってくれている。

世の中に似た顔を持つ人物が自分を含め三人いると言われているが、

最初からそれ以上に似ている奴らがいるではないか…

今日も大学生は思いみる。

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