成功哲学とか人生哲学、自分哲学ってなんぞや・・・?
noteで記事を投稿する時に、ハッシュタグをつけるときがあるだろう?
その時にいつも気になってしまうことがあるんだよね。
「哲学」というハッシュタグをつけようとすると・・・
人生哲学
成功哲学
自分哲学
っていう言葉が表示されている。
この言葉を見て、奇妙に思う事が多い。例えるならば、「甘い塩」と書いてあるような感じ。
ここで山口裕之さんの言葉を借りよう。
この学生のように、哲学とは「人それぞれ」で、「経験によって決まるもの」で、「個人が正しいと思っていること」だというふうに考えている人が多いように思う。〔中略〕哲学も「学」を標榜している以上、「人それぞれ」でありえない。(山口裕之、2019、23)
人生哲学、成功哲学、人生哲学という言葉は、「哲学が人それぞれ」という意味で誤用されていると考えることができる。
そういえば、「これが私の方程式」というセリフをどこかで聞いたことがあるが、方程式は数学という普遍に近い事象を表現する手段であって、個々人の経験を「それっぽく」表すために使うのは違う気がする。
ではなぜこのように「哲学」が「学問」としての印象が薄くなるような使い方をされるのか・・・?
これがおそらく、現代の科学、哲学において「神」の存在が稀薄化していることや、「思考」や「理性」が「感情」よりも軽んじられるようになっているからだろう。
神が物事の存在を決定するというよりかは、我々の心の中の観念が、どのように体外の世界に知識を作り上げるのか?という人間中心主義が蔓延ることで、
「哲学」も普遍の知識を求めるものではなく、個人個人の経験が重要な意味を持つと勘違いされてしまったのだろうか?
まぁいずれにせよ、「哲学」は、人生や成功や自分といった、普遍的な基準が存在しないものとは相容れないもの、ということになる。
ありていに言えば、
そう簡単に、「哲学」が理解できてたまるか・・・!だ。
もし哲学がそのような存在なら、自然科学や民主主義、経済学は生まれなかっただろうし、人類はまぁ、これほどまでに自然を脅かすこともなかったろう。
哲学
それは一般意味を言うとしたら、ノース(知性)によって、ドクサ(想像)ではなく、エピステーメー(普遍知・学問知)を得ること。
少なくとも、
個人の経験によって到達し得るものではないよな・・・
と
今日も大学生は惟っている。
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