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個別化(皆ぼっち)の時代が指数関数的に加速してるんじゃないかって思わざるを得ないという話。

こいつは今年に入ってからよくあることだ。色んな本を読み漁り、少しづつ本の内容へのストレージというか、記憶する場所の保管場所の容量が増えているなと感じる。そうすると、不思議な事に(?)、一見関係の無いように見えるテーマを扱っていても、共通する部分を見付けることが多くなった。

今回も、その一例である。

情報化や個別化(ここでは「ぼっち化」と呼ぶ)が進展する或いはしていると、先に結論を書いているけれども、なぜそう判断するに至ったかを書き記す~



空間から

現在の日本の都市では、「居場所」と言えるような場所が概して非常に少ないということが示されているのである。〔中略〕戦後の高度成長期を中心に、農村から都市に移った日本人にとっては、他でもなく「カイシャ」と「核家族」が居場所の中心であり、男性にとってはとりわけカイシャの存在が大きかったわけである。それが高齢社会となり、退職してカイシャを離れる層がふえていき、また、雇用自体が非常に流動化している中で、若い世代や子どもを含めて、新たな「居場所」を模索しているのが現在の日本社会あるいは日本人ではないか。(広井良典、2019、101-102)

日本の場合は少し特殊で、テンニースの云う「ゲゼルシャフト」的空間が完全には生まれなかった国であると言える。地縁的な繋がりはほぼ無に等しいと言えるが、つまり「ゲマインシャフト」的空間は、地方においてはもはや存在はしていないけれども、完全に消えたわけでは無かった。その地縁(ゲマインシャフト)的なつながりは、2000年代以前の企業が担っていたと言える。終身雇用がまだ安定していた時代は、その企業に務めれば一生安泰とも言え、雇用の流動化も不安定化も進んでいなかった。

地理的な意味では異なるが、昔の企業が、地縁的な特徴を備えていたのは、間違いではないだろう。しかしそういった形の企業にも欠点があるのだろう。いってしまえば、主な居場所は、「家」と「カイシャ」だけだと言っていい。一度退職してしまえば、「家」に安心できる居場所が恒常的に存在するというわけではなく、かといって、他にこれといった繋がりはない。この傾向は、男性において顕著ではないろうか。

そして現代、その「カイシャ」すらも不安定化し、さらに今コロナ禍でさらなる追い打ちにあり、ますます「安定」の二文字からは遠のいてゆく。とっくのとうに、地縁的な安定性もない、つながりも特にない。まさに「孤独」である。引用文にある、

「若い世代や子どもを含めて、新たな「居場所」を模索しているのが現在の日本社会」

という文章は、地縁的なつながりも、ゲゼルシャフト的な空間での居場所やつながりも持っていない中途半端な立場にある若者や子どもの、居場所がないという精神的な不安に駆られる原因を指している気がする。故に、インターネットで承認欲求を求めるのも、なんら不自然なことではないし、それを自分から可能性や属する見込みのある集団を排除しているというのは、少し話が違う気がする。いざ、その立場に立ってみると、頼る場所がない・見つけられないという不安が、二の足を踏ませるということにつながりやすいということがわかるかもしれない。


分散型社会システムと「生命と時間」の希求

そして、先ほどの「居場所」がないということと、インターネットでの承認欲求を求めるということに関連して、情報化社会にふれていきたいと思う。

広井良典によれば、

「情報化が進展する社会は、集中化や集権化が進行するように見えるが、ITの発達が意味するのは、遠隔地間でのコミュニケーション、つまり食糧や需要調整や地域内循環が容易になる『分散型』社会のことを指す」(広井良典、2019)

と指摘している。(少し長いので要約しました)

また同じく広井良典の、情報化の前期に見受けられる「手段的合理性 instrumental」と、情報化後期の「現在充足性 consummatory」に関して、

「『情報』という概して私たちは効率化とか手段化といった方向と一緒に考えがちであるが、たとえば私たちが音楽や絵画、デザイン、ファッションといったものを消費の対象とする時、それはまさに(モノの消費ではなく)音声や視覚に関わる「情報」を享受し〔中略〕このように「情報」は、その後期になっていくととりわけ「生命/時間」に移行する」(広井良典、2019、144)

引用文の具体例としては、「オンライン飲み会」「オンライン授業」「オンラインレッスン」などがあげられるだろう。情報化社会は、実はローカライゼーションという動きを促進するものだということを、理解することが重要だと思われる。

実際に、世界は、今回のコロナ禍ですぐに滅亡を迎えるというわけではなかった。中には「オンライン」というものを最大限に活用し、遠隔地に居ながらも、依然とはあまり変わらないような生活を送っているものもいる。

しかしこの点ばかりに注目してしまうと、「情報」というものが、合理的な手段という印象だけが残ってしまう。引用文にもそう書いている。しかし「情報」は手段であると同時に、消費されるものでもある。そしてそれは「モノ消費」ではなく、いわゆる「コト消費」といわれるものだ。正確には、「体験」「物語」「イメージ」「テーマ」というものを消費する。

分かりやすい例を挙げれば、MCUという映画のシリーズものだろう。これはスタン・リーという人物画造り上げた一種の架空であり、イメージである。元はコミックであったものが、映画され、MCUサーガという大規模なプロジェクトに発展し、十年以上もかけて、そのフェーズが完了する。「スパイダーマン」「アイアンマン」「ソー」「キャプテンアメリカ」「ハルク」「ブラックウィドー」「ホークアイ」、現実には存在しない「イメージ」を、まるでそれが現実であるかのように捉え、感動し、消費する。

そして単なる情報の消費から、自らの人生・生活・生命にかかわるものとして「情報」を扱っていく、つまりより高度な精神文化・精神的充足が求められ、発達し、人間が自分の人生を「物語」のように構築することに従事することを意味しているのか・・・。


動物化する観光

次に、「n次創作観光」から、人間の欲求充足の行動に関連して、観光行動について岡山健はこのようにまとめている。

観光の実践の中では次のような特徴が見られる。山口誠は、海外旅行では、歴史や文化の記述が少なく、主に商品情報が掲載されたカタログ型ガイドブックを持って、スケルトンツアー〔中略〕で短期の海外旅行に出た場合、「買い・食い」を充足させることが中心になっており、極端な場合、そうした消費の場面以外に現地の人と接触がない場合があると指摘し、それを「孤人旅行」と名付けた。〔中略〕カタログ型ガイドブックというデータベースから、欲求充足のための店舗情報を取得し、不確実で他者性を持った他者との交流をできるだけ避け、効率よく欲求ー充足の回路を閉じて旅行をしていると言える。(岡本健、2013、33)

「観光」は、自分の日常圏を離れて、非日常圏である他のコミュニティへと移動し、非日常的な体験を追い求めることと云うことができる。そして引用文にある観光行動についての説明は、ある意味で非常に観光的で、非観光的な行動について述べている。

観光的と言ったのは、それが消費行動を含んでいるからである。購買と食慾における満足感を求めて、ある意味で合理的に行動するということは、「観光」においては重要なことだと言えるからだ。その消費行動がなければ、観光は持続することが出来ない。

しかしまた、引用文にあるような行動の種類は、ある意味で非観光的ともいえる。非日常的な経験を求めているはずなのに、もともとガイドブックに記載している(この意味で、既に知っている情報)商品や店舗に赴き、食慾を満たし、商品を買う。限りなくイレギュラーを排除するということは、非日常的経験をするという要素そのものを観光から排斥していることになる。

「動物的な」と表現したのは、自らの欲求充足の為だけの行動しているように見えるからであり、非常に自己中心的且つ排斥的な観光行動だと判断したからかもしれない。

発達してきた(?)社会に住まう人間、近代に生まれた「観光」という人間の技術がうまく噛み合って成立している発明の中で、動物的な行動をする人間が現れるとは、なんと興味深いことだろう。(まるでガンダムという超高性能のロボットを使って原始の人間のように殴り合っているみたいだ)そしてさらに皮肉な事に、その行動が、経済を支えることにもつながっているのだ。


the great dead of the great story


そして、「動物的な観光」に関わりあるものとして挙げたいのが、ディズニーランドを象徴する「テーマ性(大きな物語)」の終焉についての、新井克弥の指摘である。

ファンのゲストたちは、インターネット上にあふれる膨大な数のディズニーに関連する情報のなかから、それぞれ任意にディズニー情報をチョイスし、これをカスタマイズして「自分だけのディズニー世界=マイ・ディズニー」を作り上げる。ただし、これはウォルトとTDR側が提供する世界観やテーマ性とはもはや同じものではない。〔中略〕ゲストはその情報を自分なりにカスタマイズしてインターネット上に発信する。そして彼らがこのループを繰り返し続けることでディズニー情報はさらに肥大化し、多様化していく。(新井克弥、2016、128-129)

これは先ほど書いた「動物化する観光」「動物的な観光」にも似ている。私は少なくともそう思った。ウォルトディズニーが願った、「誰もが楽しむことが出来る永遠の夢の国」という統一的なテーマは、ゲストたちには忘れ去られ、ゲスト自身が求めるマイ・ディズニーというイメージや情報に基づいて、ディズニーランドという空間が消費される。

引用文には、「ディズニー情報はさらに肥大化し、多様化していく。」とある。これはおそらく、ディズニーランドに関する情報が、ゲストという個人によって再解釈され、もしくは彼らにとって都合の良い情報だけが、生き残り、それ以外は打ち捨てられ、もしくは忘れられ、ウォルトの産み出したイメージではなく、個人個人のマイ・ディズニーがディズニーランド全体を、それに関るものを支配し、蔓延していくということだろう。

先ほど書いた「動物化する観光」でも、その地域の文化や歴史ではなく、個人の欲求を満足させることが第一優先になっているとあったが、この「マイ・ディズニー」は、そのタイプの観光行動にやはり類似していると言わざるを得ないのではないか。

つまり、こういったタイプの(消費)行動は、もはやある分野や空間に限られるものではなく、現代社会全体に共通している行動の型だと言えるのかもしれない。


the end of the beginning


さらに興味深い事に、「ディズニーランド」と「観光」というものに関して奇妙な一致が見られる。

同じく岡山健の「n次創作観光」の「動物化する観光」という章には、観光に関する時代区分がある。その中に、

「皆が出かける(参加する)ようになった時代」という時代区分があり、時期が、1960年代後半~1970年代後半。そして飛んで1990年代後半~の期間は、「新たな観光と観光の動物化」という区分になっている。(岡本健、2019、32)

そして、「ディズニーランドの社会学 脱ディズニ化するTDR」から、新井克弥はディズニーリテラシーとその涵養についてこう述べている。

一九九〇年代前半、ウォルトディズニーは日本人に完全に受け入れられて、パークとゲストは蜜月関係を迎えていた。〔中略〕TDRはテーマ性の徹底によって大成功を収めた。だが、一九九〇年代以降、盤石と思われたこのテーマ性は徐々に崩壊し始める。(新井克弥、2016、64-109)

特に注目してほしいのは、「新たな観光と観光の動物化」と具体的な時期と、ディズニーランドにて統一的なテーマ性が崩れ始めた期間だ。

ディズニーランドのテーマ性が崩れ出した1990年代前半、そしてそのすぐ後、1990年代後半の「新たな観光と観光の動物化」。

(なんかやりすぎ都市伝説のような感じになっているかもしれないが、あれよりはしっかりしていると思うので、もう少し付き合っていただきたい。)

人びとが個々人の充足だけを求めていなかった期間、つまりディズニーランドにてウォルトディズニーが造り上げたテーマ性が生きていた時期(皆一緒に行動する)が終わった時に、人々の「動物的な観光」が始まったのだ。これにはもちろん情報化社会も関連しているだろうが、あまりにも丁度良すぎるような・・・。


この記事のタイトルは、「個別化(皆ぼっち)の時代が指数関数的に加速してるんじゃないかって思わざるを得ないという話。」というものだ。

ここでの「ぼっち化」は、物理的に個人が孤立するだけではない。個人個人の嗜好が無限大に拡がり、自分が好まない領域に関しては、全くの無知や興味を持たないどころか、敵意をむき出しにするようにさえなるかもしれないという私個人の不安の現れだ。

サブスクリプション。インターネット。あとは世界規模での資本主義経済(新自由主義)。他にも原因があるだろうが、いずれにせよ、人間がぼっち化していることには変わらないのかもしれない。以前に、「『サル化」する人間社会」(名前少し違うかも)という山極寿一さんが書いた本にも、このようなことが書いてあったが気がするので、是非そちらの本も読んでみて欲しい。

さて

あんたは、「ぼっち化」してるかな。それとも、さらに「動物化」してるかな。よ~く、自分の周りの状況や行動や習慣を見直してみるといいかもね。




今日も大学生は課題を側目にしている。




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引用文献・参考文献

新井克弥.ディズニーランドの社会学 脱ディズニー化するTDR.(2016)青弓社

岡本健.n次創作観光 アニメ聖地巡礼/コンテンツツーリズム/観光社会学の可能性.(2013).NPO法人北海道冒険芸術出版

浜日出夫.2007.「社会学」.有斐閣

広井良典.人口減少社会のデザイン.(2019).東洋経済新報社









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