何故外国語を理解するのは難しいのか?

毎日毎日外国語を勉強しているものだから、不思議に惟うことがある。

どうして、一体なぜ外国語を理解することは難しいのか?

覚えることがたくさんある、とか。

とにかく大変だから、という話ではない。

そんなこと、もはや議論の余地がないほど明白なことにほかならないのさ。

それは「理解する難しさ」ではなくて、「勉強する難しさ」の間違いであると私は惟う。

ここではより根本的な、帰納的な事柄について述べていこうと思う。

一般意味と企投的意味

われわれが言語の「意味」と言うとき、しばしば「語」のもつ「一般意味」と、それを媒介とする言語行為における「企投的意味」とを混合しているということです。語の「一般意味」は、人間が長くある語を一定の仕方で使ってきたことの集合的な痕跡です。しかし、「企投的意味」は、われわれが生活のなかで絶えずそのつど行なっている実存的な関係行為です。(竹田青嗣、2004、165)

単語の意味

学校の先生に私はよくこういわれた。

この「significance」の”意味”って何でしょうか?

じゃあ、hikkiさん、分かるかな?

当時の私は「重要性」です、とな~んにも考えずに答えた。

しかし今、意味の区別を知った私なら、「分かりません」と答える恐れがある。

なぜなら、

significance」に対する「重要性」は、「意味」ではなく、「訳」だから。そしてその「意味」が「一般意味」かもしれないし、「企投的意味」かもしれないからだ。(少し屁理屈が行き過ぎたかな・・・)

ではそもそも「意味」とは何か?について書きたいのだけれど、そんな難しい質問に答えられるほどの能はないので、本を20冊ほど読んでからにしよう。

さて

わたしも誰かに、単語の、先ほど挙げたような「significanceに対する”重要性”」のようなことを問う時は、は「この単語の解釈・訳は何かな?」と言うようにしている。

(この単語の意味は何?という輩へのささやかな反逆として)

ともかく、

ここで言いたいことは、「意味」と「訳」が異なるということ。

「意味」には二つのものがある、ということ。そしてこの「二つの意味」が外国語の難しさにつながってきます。

日常と科学

ここで少し、雑談をしましょう。

まぁ、トピックと関係はあるので大丈夫です!

日常と科学だと少しわかりにくいので、せっかくですから、「母語」と「外国語」で考えてみましょう。

母語と外国語は、日常と科学の関係に似ています。

簡潔に書くと、

母語(日常)=多義的

外国語(科学)=一義的

例えば、「雨」という言葉。

「雨」という言葉を聞いたり。見たりしただけで、小雨、ドシャ降り、冷たい雨、じめじめした雨、雷雨、豪雨、天気雨、という風に様々な情景を思い浮かべることができます。

「雨」という一つの単語に触れただけで、こんなにも「多くの」の光景・情景は想起されるのです!

しかしながら・・・

英語で「雨」ってなんていうの?

と言われてしまうと、あら不思議・・・途端に「雨」にあった多義性は失われ

「rain」という一つの単語を思い浮かべるひとが多いと思います。

もちろん「雨」に関連する英語は「rain」だけでなく、「shower」や「drizzle」、「sprinkle」、「spitting」、「cats and dogs」などがあります。

しかし、これらを”日常”的に使うのは、ネイティブスピーカーがほとんどだと思います。

英語が「外国語」の人々にとって、「雨」は基本的に「rain」なのです。

一義的でなければならない

外国語というものは、基本的に学習が難しいものです。いちいち類語を覚えていては、きりがありません。

ですから、学習という側面が強い外国語は、一義的になってしまう傾向にあるのだと私は思います!


何故外国語を理解するのは難しいのか?

では本題に入るましょう。

まず、外国語の適切な理解とは何か? これを明白にしておきましょう。

私の経験上、これは

「文脈・背景に沿っていて、それらを参考にして見たときに、整合性があり、客観的に見て自然に見えるもの」

だと思います。

外国語の勉強は、さきほど書きましたが、「一義的なもの」と言いました。

つまり、ある程度の段階までは、特に単語の解釈において、文脈や背景にそった意味、もしくは多義的な解釈の中から最もそれらしい意味を選んで掴むのが容易ではないのです。

つまり、「second」が「2番目」ということしか知らないと、「After a few seconds, 」が何を指しているか理解できないということ。

「いくつかの二番目の後」ではなく、「数秒後」だ

という解釈が難しいのです。

引用の「一般意味」と「企投的意味」という語を使っていうと、

「apple(りんご)」という語そのものの「一般意味」しか知らないと、もしくは文脈や背景が無いと、「the Big apple(ニューヨーク市)」という「企投的意味」の理解が不可能になってしまうというわけです。

色々例を挙げてみました!

極論

言葉って難しい。この一言に尽きます。

時代の変化に伴って、どんどん変化していくのですから。


辞書を編纂する人って、苦労するなぁ・・・

今日も大学生は惟っている。

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引用文献:竹田青嗣. (2004). 現象学は〈思考の原理〉である. 筑摩書房

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