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鎖骨と主体

主体。アイデンティティ。自己。自立。個人。一人一人の人間が自らを律し、合理的合目的に活動するという考えは存外世界を支配している。卑近な例をあげるなら、就職活動(就社活動)。或いは、自己紹介とかか。まぁどちらにせよ特段意識してはいなかった自分というものを(再)構築するという点で、両者にあまり差異は無い様にも思える。さて心理学の授業を受けたことがある人なら、ちょっとくらいなら覚えているかもしれないが、「超自我」というものがある。自分をまさに律する、クラス内の学級委員長的なやつで、(エス)イドという本能を抑制する存在でもある。

ということは、この考えが正しいとすれば、ワタシたちは自分自身を律するという形で調教しているともいえるんじゃないか。親からダメだとか、これはしてはいけないということを、年齢を重ねるごとにしなくなるのは、自分の中にその疑似的な「親」を構築し、いつどの時も、その見えない「親」が自分を見つめているような気がして。これに関連して、ミシェル・フーコーのこんな考えがあるので、引用する。

〈自立〉とは、個人が自分自身を監視し、検閲し、制御し、管理しうるような心的体制のことにほかならず、これが主体としての個人の存在の根拠をなしているのであるが、それゆえにその自己監視の視線をノーマライズ(規格化=標準化)しておけば、それがもっとも深い次元からの個人の社会的管理になる(鷲田清一、2011、66)

大学の、特に社会学の講義では同じみの、「パノプティコン」というシステムをご存じだろうか。監視する側は監視される対象を見ることが出来るが、監視される側は、自分を監視する人間の姿を見ることができない。いつ見ていて、いつ見ていないのかという判断が難しいために、監視される人間は常に他者を意識することになる。だから、先生や教師が生徒を「監視」しようとおもったら、後ろに立っていればいいと。しかし、このお話は牢獄だけに当てはまるのではない気がする。

誰かがダメだと言うかもしれないという、他者の価値観だったり、まなざしを内面化し、自分を律することもまた「パノプティコン」の一例といえるのではないか。具体的な例をあげるなら、タバコを吸いたいが、タバコは危険だと教え込まれ続けていたために、その誰かの価値観が内在化し、内から自分自身を監視している、とか(認知的不協和も、このようにしておこるのかもしれない)。大人から良い子とか、大人しい子とか、従順な子とか言われる子どもは、知らず知らずのうちにこの「パノプティコン」を自分の身体をもって体現しているのかもしれない。ある意味で、(学校の)教育というのは、自分で自分を監視するよう促す訓練とも言える。いや、社会に住まう人間は、ほぼそうかもしれない。

それが良いとも悪いとも判断することは出来ない。それによって、社会が円滑に流れていく、システムとしては上手に機能しているのかもしれないのだから。しかしながらそれはある意味で、個人というのは有意志的な存在、完全に主体的な存在というよりかは、むしろ奴隷的というか、従属的というか、屈従的というか、思っている以上に受動的なものが社会の中の「主体」とか、「個人」や「自己」なのかもしれない。自由は束縛なしには生まれない、ということか。

確かに、身体の構造からも、そのようなことを学ぶことが出来る。例えば人間の鎖骨は、肩の部分の骨や、肩帯から始まる腕の骨がうまく可動するように、骨を繋ぎとめてくれるもの。鎖骨が無ければ、腕の骨はぶらんぶらんしているだけで、まるで使い物にならない。「鎖骨」という縛りがあることで、腕が”自由”に動く。社会の中の「主体」も、人体の「腕」も、状況依存的になって初めて、思うように活動できるという点では、結構似ているのかもねということを考え及んでいる今日日でございます。あ、あと誰かさんの言う「主体性」とか「自立(自律)」って、条件や縛り無視のやつなんですか?ワタシは手放しにそうは思えないけど(主観)。

では、読んでくれてありがとう。




今日も大学生は惟っている


引用・参考文献

鷲田清一.2011.だれのための仕事 労働vs余暇の超えて.講談社学術文庫

社会医療法人 有隣会 東大阪病院(大阪市 城東区).[上肢骨折について]
鎖骨骨折について.


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