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誰もが懸命に生きている。2021年の妊娠と出産記録。

僕たち夫婦に子どもが産まれました。
2021年は誰にとっても不安を抱える日々だったと思います。妊娠生活を送る僕たち夫婦も同じでした。あまりにも不安定な状況で「社会に対する信頼」が揺らいでしまいそうなタイミングもありましたが、今回の出産を通して気づいたことがあります。
多くの人は真摯に仕事に取り組んでいて、そうした方達のおかげで無事に子どもは産まれてきてくれたのです。「社会」とくくってしまうと見えづらくなりますが、僕たち夫婦を支えてくれたのは懸命に働く一人ひとりの個人でした。

2021年冬。妊娠を知る。

「……子どもが出来たかも」
今年の2月。パートナーから妊娠を伝えられた時は喜びより安堵が大きかったのを覚えています。僕たち夫婦は数年前より妊活を始めていました。お互いに30代だったこともあり、焦ってはいませんでしたが、出来たら早めがいい。お互いにそんなことを感じていたと思います。
しかし、なかなか妊娠はしませんでした。
妊活を初めて「経済的負担」「時間的負担」「精神的負担」があることを知りました。
不妊外来にも通っており、僕自身も時折一緒に付き添っていました。
毎月スケジュールを組み、働きながらの妊活は、お互いに大変でした。
経済的な負担、時間的な負担はどうしようもない部分があります。パートナーの精神的な負担は少しでも減らしたかったので毎月一喜一憂するでもなく、なるべく落ち着いた素振りを心掛けていました。

2020年には感染症が流行し始めます。不安定な状況で妊活をどうするか悩みましたが、お互いの年齢を考え継続の判断をしました。僕にとっては2021年に妊娠しなかったら、夫婦2人で生きていく人生の選択を真剣に考えていこうかと思っていたタイミングでした。

妊娠を伝えられ、喜んだのも束の間翌月にパートナーは緊急入院することになります。

2021年春。自宅での絶対安静と緊急入院

不妊外来で胎動も確認し、自宅近くの産婦人科に通うことになります。
感染者数はなかなか下がり切らず、仮に感染した場合妊娠への影響が不明瞭な時期だったと思います。パートナーの体調最優先で過ごしており、生活に必要な買い物は僕が担当していました。

何度目かの通院でパートナーは自宅での絶対安静を言い渡されます。
状態は「切迫流産」でした。

後日調べてみると珍しい状態ではないのですが、言葉の印象から強いショックを受けました。

「何年も掛かってようやく妊娠したのに。なんで自分達が。。もうあまり時間もないのに」

連絡をLINEでもらいましたが、手の震えがしばらく収まりませんでした。
絶対安静にもレベルがあるそうです。パートナーは家事だけでなくシャワーも禁止でした。家事は基本的には僕が担当し、パートナーはひたすら寝ている状態の生活が数週間続きます。
タクシーで週に1度病院に通い、シャワーが可能になり少し安心したタイミングで連絡をもらいました。

「総合病院に転院して入院することになったみたい……」

僕自身も急遽会社からお休みをもらい、病院に駆けつけお医者さんから説明を受けます。
すぐにでも入院が必要だが、PCR検査を受け仮に陽性の場合は入院は難しく別の病院で対応が必要なことを知りました。
パートナーの移動は車いすで行われ、PCR検査が終わった後には安政のためベッドで横たわっていました。短い会話を繰り返した後に、僕はひたすら祈っていました。

陰性の結果が出て、そのまま奥さんは車いすで入院用の別階へ看護師さんと向かいます。感染症対策のため面会は出来ず、着替えや差し入れなどは直接渡すことは出来ません。
入院してからは2日に1度看護師さんに荷物を渡す仕組みでした。「奥さんがありがとうって言ってましたよ」など小さいやり取りが心の支えでした。

数週間後無事に退院し、待合室で久しぶりに会ったパートナーの少し大きくなったお腹を見て安心したことを覚えています。

退院後パートナーは仕事に戻りましたが、フルリモートではなく時折出社して仕事をしていました。僕はほぼリモートで働き、お互いの感染症対策に気を付けていました。お互いの会社に事情を説明して、業務調整をしてもらい周囲の同僚に助けられたことを感謝しています。
都心では少しずつ感染者が増加しているタイミングで、何かの用事で外に出てもどこか「不安と薄い怒り」を感じ取っていました。僕自身も日々変わる状況にどこか心が揺れていたと思います。ワクチン接種も始まりましたが、僕たち夫婦の条件では当時予約が出来ない状態でした。

不安と緊張の中、日々を過ごしており、無事に過ごせた一日の終わりに寝室で話すパートナーとの会話がお互いにとっての安らぎだったと思います。内容は特別なものでなく「子どもの名前」や「家族で行きたい場所」時々お腹をそっと触りながら、話す時間は幸せでした。

2021年夏。里帰り出産

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様々な状況を考慮して、パートナーは里帰り出産を選択します。
結婚してから数年が経ちましたが、数か月に渡って離れて生活をするのは初めてです。僕も一緒に新幹線で向かい、改めてお義母さんに挨拶をさせてもらいました。別れる際にパートナーと抱き合い、次に会う時は子どもが産まれているんだなー、と頭の片隅で思いました。

僕は都心に戻り1人での生活が始まります。
元々1人暮らしでの生活も長かったので、平気だとは思っていましたが想像以上に部屋はガランとしており空白みたいなものを感じました。
感染者数は毎日過去最高を更新しているニュースが流れています。僕自身もワクチンを打てていないため、さらに生活を制限するようになりました。今まで好きだった、銭湯や美術館にも行くのを控え、本当に必要最低限の生活です。自分自身の世界が狭くなっていくようでしたが、僕自身も元気な状態で子どもに会うためと耐えていました。

パートナーは里帰り先の病院で診断を経て、再度入院が決まります。
まだ正期産と呼ばれる前の状態で、仮に産まれた場合は早産になります。聞いた瞬間一気に鼓動が早くなりました。入院してからは食事の写真が送られて来たり病院の様子を教えてもらったり、周囲にに支えられている様子が伝わってきました。時々電話をして、不安なパートナーを支えようとして支えられていたのは僕だったと思います。

薬の副反応に苦しみながらも、正期産と呼ばれる37週を超えた直後に退院。無事に子どもが産まれました。

感染症対策のため立ち合いは難しかったのですが、出産後パートナーから連絡をもらい、産まれたての子どもの顔をビデオ通話で見た瞬間に涙ぐんでしまいました。

「……産まれたよ」
「ありがとう」

本当にパートナーには感謝しています。

誰もがそれぞれの環境で真面目に生きている。

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出産の過程で本当に様々な方が僕たちを支えてくれました。
不妊外来から含めると何人ものお医者さんや看護師さんにお世話になりました。お互いの会社の同僚は業務調整や引継ぎに快く対応してくれました。
お義母さんは里帰り後の生活をサポートしてくれています。
出産後も出生届の提出や児童手当の申請など、区役所の方は分からない部分に対して親切に説明してくれました。

「病院」や「行政」。そして「社会」だと急に顔が見えづらくなってしまいますが、働いている個人は僕たちの不安に寄り添い真摯に対応してくれたことを覚えています。人だけでなく緊急入院の際には高額療養費制度など社会の仕組みにも助けられました。僕たち夫婦が不安の中、出産にまで辿り着けたのは「人と社会」のおかげです。

タイミングによってはどうしても不安になってしまい、顔の見えない社会に対して信頼が揺らいだタイミングもありました。ただ、子どもの出産を通して関わった多くの方は真摯に自らの仕事に取組んでいました。
最近は何か問題が起きてしまうのは「構造」が引き起こしてしまっているんだろうな、と考えます。誰もが現在の状況でベストを尽くしているんじゃないでしょうか。

生後1か月を迎えた我が子も足をジタバタさせ、全力で泣きます。理由としては「お腹が空いた」「オムツを変えて欲しい」ですが、全力で意思表示してくれます。子どもも子どもなりに全力で生きています。

無事に子どもが産まれた現在「この子にとって少しでも生きやすい世の中になってくれるといいな」と日々思います。
一人ひとりは一生懸命でも「構造」や「システム」が問題が引き起こしてしまうなら、その「構造」を次の世代に引き継がないようにしたいものです。僕自身は微力ですし、社会を変える力は薄いかもしれません。ただ、少しでも明日が今日より良くなって欲しいとは願うようになりました。

自分に何が出来るか分かりませんが、まずは目の前にいる子どもとパートナーを大切にすることから始めていきたいと思います。

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