怒りと向き合う

なんだかとってもイライラする。

そんないとうあさこのネタを覚えてる方はいらっしゃるだろうか…。
とにかく、僕は最近とってもイライラしている。

何にイラついているかというと、やたら滅多にSNSを駆使し、自らを誇大に見せようとする奴らにイラついている。
少し前に流行った言葉だと「意識高い系」とでも言うのだろうか。
ちゃんと実力を持っている、本当の意味で意識が高い人たちには別に何も思わない。尊敬できる。僕がイライラしてしまうのは、大した実績があるわけでもなく、肩書きだけをズラズラと並べ、結局何をやっているかわからず、どんなものを作っているのかもわからない。
そのくせ、「フリーランスになってみよう」やら「好きなことして楽しく生きてます〜」みたいなことばかり書く奴らだ。見るたびにイラついている。

世は大副業時代に入った。
ノマドワーカーなる言葉が一般化し、1億人総批評家時代がやってきて、個人でやろうと思えば、なんでもできるような社会になってきている。
だからこそ、今まで目には見えないもののどこかにあった「敷居」というものが全く無くなってきている。一見、いいことじゃないか!と言われそうだが、果たしてそうだろうか。

SNS黎明期、ピクシブから現れたイラストレーターや、小説家になろうというサイトから生まれた、いわゆる「なろう系」。
まだ見ぬところで生まれた逸材は世の中を覆い尽くした。
もともと文章や小説が好きだった僕は当時流行った「携帯小説」なるものを読んでいたが、「インターネットの世界にはまだ見ぬすごい人が沢山いるんだ!」と思い、すごいことが始まっているんだと感じていた。しかし、それは一種のサブカルチャーとして存在するから魅力的だった。あくまで、補欠枠であるべきで、それがメインになるととても稚拙な世になってしまう。

僕が思春期真っ只中、中高生くらいの話だから、もう10何年以上も前。ある人が言った言葉を未だに覚えている。
「最近好きな読モを街で見かけたんやけど、実際見たら所詮読モって感じやったわ。」
その時は意味がわからなかった「なんか違うもんなん?」とか言ったように思うけど、そいつ曰く「ちゃんとしたモデルも見たことあるけど、やっぱオーラが違う。」と。
ふーん。とか思っていたが、次第に読んでいた携帯小説の新作も、何番煎じかわからないつまらないものばかりになっていた。これと同じことなのかな、となんとなく理解した。

話を戻そう。
ざっくばらんに言ってしまえば、結局、そういうSNSきっかけで現れる人は、ただのアマチュアなのだ。アマチュアがプロと並び、世界を埋め尽くすと、あらゆるもののクオリティーがだだ下がりとなる。
仮に、SNSをきっかけにしっかり上がってきて、プロと同じ土俵でゴリゴリにしごかれて、成長していくならなんら問題はない。しかし、短期滞在の観光ビザでプロの土俵に上がってきて、永住権を主張するのはお門違いというものだ。

「敷居」がなくなることことは、メディアのレベルの低下に繋がる。
プロになるためにはステップがある。色々な段階を踏んで、人は自分の技術で対価を得るプロというものになって行く。そのためには無限の努力をしなければいけない。

特に、フリーライター等の職業を志すならば、より多くの努力をしなければいけないように思う。「好き」を原動力にして突き進む職業へのハードルは、本来はかなり難しい。だって、「好きじゃない仕事」をすることですら難しいのだ。「好きな仕事」がより難しいのは当たり前だ。

今のメディアのライター達が素晴らしいなんて思わない。
週刊誌に向けてとんでもない記事を書いて収入を得ているライターも多い。生活のためには仕方ないのだろうが「それがあんたのここまでの人生の総決算なのか?」と思っている。しかし、そのライター達も無限の努力をして、なんとかしがみついてその地位を手にしているわけだ。本来ならそりゃ、好きな記事を書きたいだろう。
現在はインターネットがある。広がった世界には媒体も無限にあり「好きな仕事」に就き「求めるジャンル」の仕事をできる可能性も転がっている。
しかし、その分逆に、より多くの努力をしなければいけないように思う。理想を求めるのに、努力は不可欠なのだ。

元々、好きな仕事をするために努力を重ねていた人が、SNSをきっかけにスターダムへ駆け上がる様は、見ていて気持ちがいいもの。報われてよかったなぁ…という気持ちで見ることができる。少し前になるが「こぐまのケーキ屋さん」のカメントツさんなんかがそうだ。自分が売れ出す少し前から知っていたのもあるけれど、あの人の作品を見ていれば、どれだけの努力の末生み出されているかなんてすぐわかる。
そうじゃなくとも、突然取り上げられた作品がすごいクオリティだったりとか、思いもよらない発想で描かれた絵を描く人とか。
何も複雑な何かを作るだけがすごいわけじゃない、尋常じゃないシンプルさで考え抜かれた何かを作り上げる人もいる。
そんな人を見ると、思春期のあの頃に感じた「インターネットの世界にはまだ見ぬすごい人が沢山いるんだ!」という感情を呼び起こされる。

しかし、別に大して頑張っていないんだろうなーと言う人がぽっと出で出てきて、でかい顔をすることも非常に多い。冒頭では、それにイラつくと書いたのだ。
僕も創作に携わるものとして、作り上げられたそれが、どれほどの努力と熱量の元で生み出されたか、なんとなくわかる。適当に仕上げたなにかが一発当たっただけででかい顔そしている奴らは、結局いいように扱われ、調子の乗り切った頃に見限られ、使い捨てにされていく。
しかしまぁ、SNS全盛期の昨今、使い捨てのSNSヒーロー達は雨後の筍のようにいくらでも生えてくるのだ。

誤解して欲しくないのだが、別に努力したらすごいとか面白いとか言ってるんじゃない。
全く頑張らずに生み出した何かが「味」と言われ、すごく魅力をもっていたりする。が、そんなのは本当に、一握りの運と才能を持つ人たちだけだ。
そういう人は遅かれ早かれ何かで発見され、持ち前の才覚とセンスでスターダムへ駆け上がっていく。人はそれを天才というが、その場合、たまたま最初に世に出た機会がSNSだったに過ぎない。

実際問題、世の中にそう簡単に天才は転がっていない。
やはり「好きを仕事に」というなら、じっくり熟成しなければいけない。熟成するためには努力しかないのだ。もちろん、知られなきゃ意味がないというのはわかるが、話題になることばかりを先行して考え、そうして得た目先の成果を人様にひけらかし、まるで自分はすごい人間であるかのように吹聴する。
それを傍から見ると、ようやく思春期のあの日に、友達が言っていた言葉の意味がわかる。
まさに「所詮読モって感じ」なのだ。
本物のモデルは、選び抜かれた存在で、元の優れた容姿に甘えず、自己管理と自己研鑽を怠らない。それがオーラを生み出している。一方読モは、一見可愛いが、それだけ。あの日友達はそういう意味で言っていたのだ。

SNSにはそんな奴らが最近非常に多い。先述したが雨後の筍。異常だ。
おきまりのように透明感ある写真をアイコンに使い、よくわからない肩書きをプロフィールにずらずらと並べている。
努力を重ねた本当に実力を持っている人を押しのけ、上っ面のSNSヒーローを気取り、大した実力もないくせにでかい顔をしている。
お陰様でストレスフルな日々である。(勝手にイラついているだけだが)

ちょっと個人的な話になるが、僕はあまり怒らない。
ここで言う怒らないは「声を荒げたりキレたりしない」ということだ。
つまりどういうことかというと何かにつけ「これはなんかおかしい。違う。」という気持ちを常に持っている。
それを言い換えれば、僕は常に怒っていると言えるのかもしれない。

だから、なんでみんなこういう奴らを見てイラつかないんだろうか、何かおかしいと思わないのだろうか?なんなら、イラついてしまう自分がおかしいのかだろうか?とずっと思っていた。
いちいち何も考えずプロフィールに書いてある謎の大量の肩書きを読んで「ヘー、この人すごい人なんだーー」って思えばいいのか?いや、どうしたって自分はそう思えん。

自分の目に映る「読モ」は、周りの人から見たら「凄い人」なのだろうか。
いや。そんなわけはない…と悩んでいたある日、気づいた。
それは自分が「パンクス」だから思ってしまうんだろう。
わけのわからないことを言っているわけじゃない、説明するので聞いてほしい。

今までずっと、というか今もずっと、自分は普通の人間だと思っている。
特別な才能も持っていない。性格だって普通だ。
だから「こいつら見ておかしいと思うのは普通だ!」と思っているのである。
だけど、少し違うと思うのは、疑問を放置しない、納得できないことは納得せず、主張するというところだ。
最初は「へぇ、この人こんなことしているんだ。すげーな」と思っても、そういうのが何人も出てきたら多くの人が「本当にすげーのか?」って、思うだろう。
でもそれ以上は追求せず、なんとなく「まぁすごい人なのかな」と自分を納得させて終わる。僕はそれを絶対にしない。というかできない。それだけなのだ。
疑問を放置せず、納得できないことは主張する、これは、パンクと呼ばれるジャンルの音楽が生まれてからずっとやっていることだ。

僕はパンクが好きだ。
パンクとは、カウンターカルチャーのレベルミュージック。反抗を主張する音楽だ。
うるさくて、粗暴で、おまけに演奏は拙い。けど主張は誰よりも強い。
今流行っているメジャーストリームに疑問を持ち、権力に抵抗する。
その主義や主張を聞いて、自分はパンクというジャンルに惹かれた。

「この人たちは自分が思っていることを歌っている」と感じたからだ。

現在、想像以上に「読モ」達は、メジャーストリームに食い込んできている。
今やSNSを飛び越え、あらゆるメディアが彼らの舞台だ。
だからこそ、自分にとっての疑問の対象になるのは当たり前で、今まさにこうやって「これはおかしいと思う!」と時間を割いて書いているわけだ。

でも、別に特別なことじゃない。人間はみんな、パンクな一面を持っている。
例えば、警察は好きですか?政治家は信用していますか?
別にここでうだうだいう気は無いけれど、多くの人がなんとなく警察は嫌いで、政治家を信用していないんじゃないだろうか。僕が散々バカにした「読モ」達をよく思わない人が多いからこそ「意識高い系」なんて蔑称が生まれたんじゃないだろうか。
パンクを愛する「パンクス」達は、みんながなんとなく誤魔化している気持ちに向き合っている時だけ。
疑問を持ち、主張した時、あなたもパンクスの一員なのだ。

自分に自信がない人ほど、いろんな強い言葉で自分を彩る。
努力を置き去りにしてウンタラカンタラ肩書きを並べている奴らは、自分の存在証明の仕方を間違えているとしか思えない。
SNSアカウントが名刺代わりになっている昨今、人様に肩書きを伝えるのは大事なことかもしれない。が、元来評価とは人様からしてもらうものだし、まずは作品で語るべきだ。

最近、というかここ数年。人に歩み寄ることを覚えて、自分も丸くなったのかなと思っていた。
それは、自分が少し自分じゃ無くなること、変わってしまったことを意味する。

もっとガキだった頃は、あれがおかしいこれがおかしいと気になって仕方なくて、色んなところに突っかかって、負わなくていいキズを沢山負ったし、しなくていい苦労を無駄にした。

あの頃よりは感情のコントロールはできるようになったけど、まだ自分は、常にあらゆることへの疑問を持っている。
やっぱり、おかしいことはおかしいし、ダサいやつらはダサい。
生まれてきた怒りをないがしろにしてはいけない。自分の感情を誤魔化してはいけない。

ああよかった。自分は何も変わっちゃいない。

頭の中で「Fighitng fist, Angry soul」と声が聞こえる。
僕は「No!」と言える自分を愛している。

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