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ショートショート「お母さんの50円」

「735円になります」

「じゃあ、これで」

圭太は財布から1000円札を取りだしトレーに置いた。店員は慣れた手つきでレジのボタンを弾き、お釣りを差し出す。

「265円のお返しです」

受け取った小銭を財布にしまい込む。その様子を黙って見ていた美月が、不意に「貸して」と圭太の手から財布を盗み取った。

「50円玉、もらうね」

言うなり圭太の返事も聞かず、財布から50円玉を抜き取る。美月は自分のカバンから、掌ほどの巾着袋を取り出してそれを仕舞った。彼女は宝物を手にしたように無邪気に微笑み、愛おしそうに涙を浮かべていた。

ーー数日前、美月は亡くなった母の遺品整理のために実家を訪れた。築40年の低層マンション。管理人やエレベータ、玄関の前から見える景色は家を出た日から何も変わらない。だから余計に、ドアを開けた途端感じた線香の残り香が胸の奥を刺した。

「一瞬やったなあ…」

ダイニングで少し落ち着いていると、台所で煙を吐いていた父が換気扇に負けそうな声でこぼした。美月もまた、風に揺られるように頷く。

知らせを受けてすぐ東京を飛び出したにもかかわらず、美月が大阪の病院へ着いた頃には、母は既に延命処置状態だった。原因はくも膜下出血。こんな簡単に人が死んでいいものだろうかと考えだした頃、追いついたように感情が溢れ出した。

時間差で到着した圭太を含め、親戚が一室に会した。大きな出窓から差し込む西日が室内を赤く染め上げていた。美月は居たたまれなくなって俯き、母の手を握った。

全員が沈黙に各々の思い出を噛みしめていたが、やがて美月のため息を合図に皆覚悟し、父が代表して処置の取りやめを医者に促した。間もなくピーと鳴る心電図と病室に張りついた臭いが、目を背ける美月に母の死を告げた。

それからもう1ヶ月経った。通夜も葬式も一瞬だった。頷いてはみたけれど、よく考えると、父の一瞬はどこからどこまでなのか、美月には分からなくなった。

「えらい立派なのにしてんな」

和室の仏壇に手を合わせてから、美月が呟く。

「服買ったるって言うてもお金がもったいないから要らんっておなじの着回しとったぐらいなんや。死んだあとくらい贅沢させたってもええやろ」

背後の押入れからぶっきらぼうな声が届く。父は既に作業を始めていた。

「ふうん。まあお父さんの好きにしたらええけど————難儀な性格やな二人とも」

写真の母に向かっておどけた。

「それで、どっちやったんやお腹の子は」

「女の子や」

「そうか、女の子か」

パタリと会話が止む。美月は母からこまめに送られてきたLINEの内容を思い出していた。

ーー名前、どうしよかな。両方考えとくか、それとも男の子と女の子どっちでもいける名前がいいかな?

ーー服も買っとこかな。どっちでもいけるの。あ、でも女の子にはやっぱり可愛らしいの着せたりたいしなぁ。

気が早いよ。美月は決まってそう返していた。とはいえ、自分以上に楽しみにしている母を微笑ましくも思っていた。

同じような回想が、父の頭にも過ぎっているのだろう。

「ほんなら美月はあっちの小物とか見といてくれるか。財産にならんもんは全部棄ててええから」

棄ててしまうのか、と思った。あっても仕方ないものだけど、そこに母がいた痕跡を消すようで美月は辛かった。しかし、和室に残る仄かな香り、化粧台、見覚えのあるシャツや帽子、その一つ一つがまた喪失感を想起させるのだから、あればあるで辛いのだ。父にとってはそうした葛藤の1ヶ月だったのだろう。

しばらく小物入れを漁っていると、布を継ぎ接ぎして作ったような不格好な巾着袋が目についた。これは要らないだろう。美月はそう思って持ち上げた。

じゃりっとした金属どうしの摩擦音、それにずっしり重いーー。

紐を解いて中を見ると、小銭だった。それも全部50円。一体幾つあるのだろう。50?60?もっとだろうか。50円玉貯金、かな。でもなんで巾着袋に。

「お父さん、これ何?」

美月が手にしたものを見るなり、父の表情が緊張した。

「…覚えてへんか?お前がちっちゃい頃、お母さん毎日そっから50円出して、お前のお小遣いにしててんけどな」

「…あ、そうか」

父の言葉で、その瞬間まで眠っていた幼少の記憶が目を覚ます。美月は中学生になるまで、お小遣いとして毎日50円玉を貰っていた。その日に使うこともあれば、何日も貯めて漫画やぬいぐるみを買うこともあった。

小銭何枚かに分けたり、両替をすることも無く、いつも「50円玉」をくれた母を、魔法使いのように思っていたこともあった。そうか、それはここから…

「欲しいもんがあった時に買ってやったらええやろって言うたんやけどな。あかんねんって。小さい頃からお金の価値を覚えさせたらな、将来お金でえらい目に遭うからって。50円玉が出る度に欠かさずその袋に貯め続けてたんや…、美月が生まれた時から」

しばらくして、父の表情から緊張が消えた。代わりに、堰を切ったように涙が溢れ出した。

「ほんまに、一瞬でおらんなってしもたなぁ」

美月は頷けなかった。父の一瞬は、母と出逢ってから今までの事だったのだと気づいたからだ。その代わり、一緒に泣いた。自分の知らない所には、こんなにも母の愛情が詰まっていたのだ。

「あれ、結構最近のも入ってる…」

「それはお前の子どもに使う分やったんやって。子どもが産まれたら美月に渡して、同じようにしてあげて欲しいからって」

「……、気早いなぁ相変わらず」

ぽつりと呟き、精いっぱい笑みを漏らした。


ーー車に乗り込むと、早速圭太が尋ねる。

「で、なんなの?その袋」

「んー、母から我が子への愛の証ってところかな」

美月は少し膨らんだお腹を摩りながら答えた。

「母から我が子へ、か。いいね」

美月は頷く。

きっと愛情というのは膨れ上がった風船のようなものではなくて、こうした小さな、些細な積み重ねなのだろう。気づきにくい存在かもしれないけれど、ふと気づいた時、それは自分にとって立派な財産になっている。

この中にあるのはお母さんの50円。美月が母から受け継いだ50円で、これから彼女が母親になるための50円なのだ。


あとがき

試験的に三人称で書くということをしました。自分の中ではやっぱり表現が足りない気がしています(実力不足も含めて)。もっと時間をかければもっと良くなるだろうなと思いながら、これに時間をかけすぎるのも良くないので、いずれ直して再投稿したいと思います。

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