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雨とひぐらし

バスに乗り、ぼんやりと窓の外を眺めている。
やがて、雨が降り始める。
走行中のバスの窓に斜めに雨垂れが走る。

窓ガラスを引っ掻く細い線。
それが、傷のようだ。

ピッ、ピッ、ピッ。

落ち始めの雨が勢いづいてきて、窓ガラスにはひとつ、またひとつと引っ掻き傷が増えていく。

ピッ、ピッ、ピッ。

透明だった窓ガラスが、無数の線で埋め尽くされていく。
もう、元の透明には戻れない。
何かその傷が、一生消えないもののように思える。

ひとつ、またひとつと増えていく引っ掻き傷を見て思う。

わたしと一緒だ。

そんな光景を見る度、わたしはいつもあの日に還る。
透明だった心に傷が付いた、あの日に。


――高校時代の友人が話してくれたことを元に書いてみる。
彼女は、物心着いた頃から小学校高学年まで実の兄から性的虐待を受けていた。
その頃のことを、バスの車窓に打ちつける雨――そんな日常の些細な事象をきっかけに思い出す。
そう話してくれたのは、高校を卒業して五、六年経った頃だっただろうか。

この表現が忘れられない。

ある経験が現実の知覚を変える。
人はそれぞれ、同じ“現実”を見ているようでありながら、内側に何を持っているかで全く別の世界を知覚しているのだ、と思わされる。

わかる。そう、思った。

彼女の知覚とわたしの知覚が同じだったのではない。
ただ、彼女のようにふとした出来事を目にするのをきっかけとして、過去のある時点に身体ごと引き戻される感覚に陥ることがある。
それは、わかった。
彼女の場合は、それがバスの車窓に打ち付ける雨で、わたしの場合は例えば夏の終わりに物悲しく鳴くひぐらしの声だというだけ。

わたしが中学二年生だったある日、母は自殺未遂をした。
余程のショックを与えた出来事であったのか、この頃の記憶の前後関係は曖昧だ。
だから、季節が夏で、ひぐらしの鳴く終わりかけの頃のことであったのかというとそういうわけではない。

ただ、当時のその瞬間のことだけははっきりと覚えている。


わたしには、このようなトラウマとなるべき体験が数多あって、ひぐらしの声をはじめとするさらに数多のトリガーがある。

わたしは、昔からこのことを“心の地雷原”と呼んでいる。
わたしの精神は無数の地雷が埋まった荒涼とした平原のようだと。
地雷はそれこそ足の踏み場もないほど埋め尽くされているので、踏まずに歩くことはほぼ不可能だ。人に対するとすぐ爆発してしまう。

でも、それも昔のことだ。
今は、この地雷原を安全に歩く術を身に付けつつある。  

一つ、地雷は自分でも忘れるくらい奥深くに埋めてしまうこと。
こうすれば、踏んだとしても感知せず、爆発を防げる。

一つ、地雷の撤去作業を行なうこと。
実は、経年劣化で不発となる地雷は増えてくる。
地雷が地雷でなくなるのだ。そうした地雷を少しずつ取り除くことで、平原に平穏がだんだんと戻ってくる。

今、わたしの心の地雷原には、どれほどの地雷が埋まっているだろうか。
荒涼とした平原に花のひとつでも咲いているだろうか。
彼女は今も、雨の打ち付ける車窓をあの目で見つめているだろうか。

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