「呪術廻戦」は虎杖悠仁が愛の呪を解いて自分らしく生きれるかの物語
定期的に漫画に恋をする。
このnoteは漫画「呪術廻戦」0巻~14巻まで見ての考察と私のどろどろした恋模様を書いたものである。
※ネタバレ注意
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前回恋をしたのは5年程前で、ダークファンタジーの金字塔「ベルセルク」だった。あの時は3か月眠れなかったなぁ。
最近恋をした漫画は「呪術廻戦」という少年ジャンプのものである。
主人公虎杖悠仁は男子高校生で、50メートルを3秒で走る人間離れした身体を持つだけでなく、呪の王が封印されている「呪物」を取り込んでも乗っ取られない1000年の逸材で、すべての呪の王が封印されている呪物を取り込んで、呪いの王ごと殺されるために呪術師になって呪いを倒すダークファンタジー寄りのアクション青春漫画である。
最初漫画に興味を持ったのは、彼の「正しい死」という考えに対して作者がどう答えていくのかが気になっていたからだ。
ただ0巻から14巻を読み終わった今、彼が愛の呪で殺されないかという心配で目が離せない。
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愛の呪と自分らしさの喪失
虎杖悠仁は性格が善く根明な青年である。
純粋で様々な意味での吸収力が高く、それが会話での受け答えの様子や、呪術師としての技術力の成長としても描かれている。
一方それによって多くの大切な人の言葉によってどんどん縛られていっているようにも見える。
例えば1話で描かれている死んだ祖父の言葉だ。
オマエは強いから 人を助けろ
手の届く範囲でいい 救える奴は救っておけ
迷っても感謝されなくても
とにかく助けてやれ
オマエは大勢に囲まれて死ね
俺みたいにはなるなよ
ー呪術廻戦1話よりー
彼はこの遺言があるから人を助けるために呪の王が封印されている呪物を飲み込む。
またそのせいで呪術高専(※)に危険として認識され、今死ぬのか、もしくは残りの呪の王が封印された呪物を飲み込んで死ぬかの2択を迫られたときも、少しでもこの世から呪の王が消え去った方が助かる人が増えると思って後者を選ぶのである。
※呪術高専とは呪を祓う呪術師を育成する学校
※呪術師は悔いのない死が無いといわれているほど危険な仕事
なんで俺が死刑なんだって思ってるよ
でも呪は放っとけねぇ
本当面倒くせえ遺言だよ
宿儺は全部喰ってやる
後は知らん
自分の死に様は
『オマエは大勢に囲まれて死ね』
もう決まってんだわ
ー呪術廻戦2話よりー
※「宿儺」とは呪の王の名前である
正直2話ではこんな究極の選択を普通の人生で選んぶことが無いので、私もどんな価値観で選択したらいいのかも分からないし、死ぬ瞬間も想像するのは難しいし、もし自分に呪を祓う才能があるのであれば私も同じように後者を選ぶかもしれないと思った。
ただ物語が進むにつれて彼の善人性や、純粋さは人の善さを超えて、自分らしさの喪失のような危うさを感じるようになった。
その象徴的なのが120話である。
120話では封印している呪物を一気に摂取した(させられた)ことによって、体内にいる呪の王に一時的に体を乗っ取られてしまい多くの人を大量虐殺してしまう。
のちに体を奪い返すことが出来たのだが、当然ながら彼は人を殺した現実をすぐに受け入れることが出来ず、吐いてしまう。
『なんで俺が死刑なんだって思っているよ』「死ねよ」
『自分の死に様はもう決まってんだわ』「自分だけ!!」「自分だけぇ!!」
『オマエは大勢に囲まれて』「死ね!!」
『人を助けろ』「今!!」『人を』
ーーー
『オマエがいるから』
ー呪術廻戦120話よりー
今死ぬのか、大勢に囲まれて死ぬのか、自分だけ死ぬのか、オマエがいるから、今人を助けろ…
虎杖悠仁は過去に祖父に言われた言葉やそれによって決意した過去の自分の言葉と、現実を消化できず、感情がかき乱されてぐしゃぐしゃになってしまう。
「行かなきゃ」
『このままじゃ俺は』
「戦わなきゃ」
『ただの人殺しだ』
ー呪術廻戦120話よりー
ぐしゃぐしゃの中こう決意するのだが、そのに描かれている虎杖悠仁の顔は根明な性格からほど遠く、また私にはこの決意に覚悟といった彼自身の心の重みを感じなかった。
この後に更に虎杖悠仁はとても大切だった仲間を同時に失う。
『駄目だ■■ それは違う 言ってはいけない』
『それは彼にとって』
『“呪い”になる』
ーーー
「後は頼みます」
ー呪術廻戦120話よりー
※■■の部分はネタバレを少なくする為このnoteでは伏せ字にします。
失った仲間が過去に失った友人の名前が入ります
彼はまた祖父とは違う大切な人の言葉で更に自分を縛っていくのである。
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『オマエがいるから』『人殺し』『オマエは大勢に囲まれて死ね』
『後は頼みます』
虎杖悠仁が戦う理由は他人の言葉である。そう彼は他人の言葉を恐れて戦っているのである。
そんな状態の人間の「戦わなきゃ」にどれだけ自分の意思があろうか。そこに「虎杖悠仁」はいるのだろうか?
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『虎杖悠仁』は大勢に囲まれて死ぬことが死に様だと思っている。
大勢に囲まれて死ねというのは言い換えると多くの人から愛されて死ねということである。
つまりこのままいくと彼は死に様の為に多くの人に愛されようとして、多くの愛の呪に触れて、もちまえの純粋さでそれらを吸収して、愛の呪の塊になってしまうのではないか。
その愛の呪の塊は「虎杖悠仁」なのだろうか。
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私はその様を見てみたい。
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私の恋
私にとっての「恋」とは「下心」である。
それも「相手に幸せになって欲しいな」という様な純情なものではなく、どろどろとした劣情である。
自分の考察があたって欲しい(万能感)
愛の呪いの塊になった人間というのを見たい(知的好奇心)
でもそれを乗り越えた自分らしさを獲得した虎杖悠仁を見たい(純愛)
もちろん虎杖悠仁に幸せになって欲しいと思っている、でもでもそれ以上にもっと虎杖悠仁を精神的に追い込んで欲しいとも思っている。
要は私は、自分の欲を満たす為に虎杖悠仁という他人(今回の場合架空のキャラクターだけど)をくいものにしているのである。
ダメだとわかっている、でも止められない。
今だってこの文章を書きながら彼の未来を想像することに口角をあげずにはいられない。
ああ、主要キャラクターがもっと死なないかな、それで虎杖悠仁が追い込まれて、発狂して、他人の愛に応えるために何も立ち行かなくなって、動けなくなって、純粋である程、美しくあろうとする程、事態が悪化していく
そんな残酷な世界で、虎杖悠仁が自分の足で歩いていく姿を見てみたい。
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