創作BL 紫苑の死

(シリーズものですがオムニバス形式ですのでこちらの作品からも読めます。前作へのリンクは最後に貼ってあります)


『昭和四年十一月二十一日号。龍田紫苑氏縊死。二十日六時ごろ東京市滝野川区の自宅にて作家龍田紫苑(本名竜田紫苑)縊死す。遺書があることから自殺と判断されーー』

喫茶の軒下、何気なく開いた新聞記事の文言を見て、思わず咥えていた煙草をぽろりと落とす。昨晩までの雨に濡れた往来は沼のようにぬかるんでいて、落ちた煙草はぐっしょりと濡れて緩やかに縮んだ。

龍田紫苑(たつたしえん)は、私と同じ時期に作家として頭角を現し、齢も同じだったため幾度も交流した友人であった。今は先輩作家の公賀黄壇(くがこうだん)と同棲しているはずだが、まさか、自殺するとは。死ぬ動機が見当たらないが、公賀は何か知っているのだろうか。

紫苑はとても良い作家だった。古典の題材を好んで用い、巧みな心理描写の短編小説で一気に人気作家へと上り詰めた男だ。筆が早く、多産だった。今や文壇界において彼の名を知らぬ者はいないほどである。

まだ二十七歳になったばかりだと言うのに。惜しい人を亡くしてしまった。

新聞を閉じて脇に挟み、軽く俯き、頭を抱え、深い溜息を吐く。先ほど落とした煙草は、死んだ芋虫のように泥の中で沈黙している。私は時が止まったように、芋虫をじっと見つめた。

「おう、遅くなって悪いな、凛」

突然横から声をかけられる。しかしもう数え切れないほど聞いた声だ。頭を抱えたまま私は答える。

「臣、紫苑が死んだぞ」
「なに!?紫苑が!?」
「ほら」

新聞を差し出すと、臣は引ったくるように大慌てで新聞を取り、開き、一瞬ののち、低く呻いた。

「紫苑、どうして……。あいつ、公賀さんと一緒になれて嬉しいって言ってたじゃねえか。どうして……」
「……あれは真面目な男だったから、裏では色々と悩んでいたのかもしれないな。死を選んだからには、相応の理由があったのだろう。私たちも追悼文を発表しなくては」
「そうだな……」

地面の煙草から目を離し、臣を見上げる。臣は顔が真っ青で、今にも泣き出しそうだった。

「臣、顔色が悪い。店に入ろうか」
「ああ……」

臣の背中をさすりながら、店の入り口にゆっくり促す。戸を開けると顔馴染みの女給がすぐに反応した。速やかに二人席へ案内される。珈琲を二つ、と頼むと女給は返事をして下がっていった。臣を座らせたあと、私もその向かいの椅子に座る。臣は暖かい店内に入って少し安心したようで、先ほどまでの酷い顔ではなくなっていた。唇を噛み締めながら、悲しげに窓の外を眺めている。

「紫苑のやつ、いつから悩んでたんだろうな。俺たちの近所に住んでた頃から、何か悩んでたんだろうか……」
「悩みやすそうな男ではあったと思うよ。あの頃は私も、臣も、そして紫苑も、作品を作るのに必死だったからね。悩んでいても、立ち止まる暇が無かった。作家としての地位も確立されて、憧れの先輩と同居して、ようやく緊張の糸が緩んだことで、今まで見ないふりをしてきた何か見えてしまったのかもしれない。だが……」

懐から煙草を取り出し、火をつける。大きく吸って、ゆっくり吐くと、ほろ苦い香りが鼻を抜けた。

「まさかこんなに早くいなくなってしまうとは、思っていなかった」

そう呟くと、臣はまた唇を噛み締めて俯いた。女給がお冷と珈琲を運んでくる。軽く会釈しつつ早く離れることを目で促すと、女給は察したかのように静かにテーブルから離れていった。あの様子なら、私らの席の周りの人払いもしてくれるだろう。

「なあ、凛」
「なんだ」
「今日、俺な、またあの話をお前にするつもりだったんだ」
「同居の話か」
「そうだ」

臣が上目遣いにこちらを見てくる。それをまっすぐ返しながら、私はもう一度大きく紫煙を吐き出した。

「臣。私は何度も断っているだろう。私もお前ももうすぐ三十路なのだから、そろそろ誤魔化しは効かなくなってくる。身を固めて、家族を養う……その波に逆らうべきではない。私たちはいつまでも『親友』であるべきだ」
「それじゃ駄目だ、凛。俺にはお前以外の人間はいない。お前以外の家族なんか出来たって、愛せるもんか」
「臣……もう子供じゃないんだぞ」

私は臣に体を寄せて、声を細めて喋り続けた。

「私たちが同性愛者だと噂されてみろ。ここまで積み上げてきた経歴にも傷がつくんだ。私の経歴じゃない。お前の経歴だ。私はいざとなれば実家に頼んで生きていけるが、お前はそうじゃない。お前がここまで頑張ってきた姿を私が一番見てるからこそ言っているんだ。分かるか」

思わず声に怒気が混じる。

「凛が俺を大切に思ってくれてることは分かってる。大切だからこそそうやって言うんだってことも」
「なら……」
「だけど」

机の上に投げ出していた私の左腕を、臣の大きな手が優しく掴む。臣は縋るような目で私を見てーーこの目だ。この目に私は昔から酷く弱いーー静かに、強く、語り出した。

「それでも、俺は自分の気持ちに嘘はつけない。ここで凛と一緒にならない道、安泰の道を選んだとして、その先に何がある?俺の願いは?凛のことが一番好きだというこの気持ちは?どうなっちまうんだ?こいつを墓場まで持ってく、なんて悠長なこと、やってられねえよ。だって、もし凛が、紫苑みたいに急にいなくなっちまったら、俺、お前と一緒にならなかったことを絶対に後悔する。一度きりの人生なのに、短い人生なのに、どうしてお前と一緒にならなかったんだろうって、死ぬまで、いや、死んでからもずっと後悔する。絶対に」

臣は泣くのを我慢するように震えながら一息吸って、また切り出した。

「俺は昔からずっと凛のことが好きだった。小さい頃から。ずっと、ずっと。中学校で凛に俺の気持ちがバレてからも、ずっと。凛は帝大に行って、俺は外で働くようになってからも、ずっと。一緒に同人活動し始めて、二人で先生のとこに入門して、それからも、今も、ずっと、ずっと……」

言いながら、臣の奥二重の目に涙がうっすら浮かび上がる。全く、図体が大きい割に、相変わらず心が繊細な男だ。

……そんなこと、今更言われなくても知っている。私とて臣のことが好きだったのだ。私が彼への愛を自覚をしたのは、中学を卒業した後だったが。


私と臣は同郷の馴染みだ。私の家は裕福で、彼の家は貧しい家庭であるという違いこそあったが、私と臣はずっと一緒にいた。

臣は真面目で、利発で、まっすぐで、人懐こくて、とても優しい性格だ。一方私は生真面目で、融通がきかなくて、しかし一丁前に口だけは立ったから、敵を作りやすい性格だった。当然対人関係の問題を起こしがちなのは私のほうで、臣は文句も言わずにいつも仲裁をしてくれた。何度迷惑をかけても、彼はずっと私の側で笑ってくれた。

小さい頃は私の方が断然背が高かったのに、中学校で臣は急にするするっと背が伸びて、男らしいがっしりとした体つきになった。しかし人懐こい感じは変わることなく、その姿はまるで大型犬のようであった。

私はと言うとーーあまり背は伸びず、痩身で、やや中性的な神経質そうな顔に育った。臣からすると「大人びて見えて格好良いし、顔も小さい頃から変わらず綺麗だから、気にしなくていい」だそうだが、自分でもこの顔で陰鬱な気を周囲に放っている自覚はあったから、あまり素直には受け取れなかった。それに、臣が私の顔を異常に好いているのは重々承知している。彼の贔屓目が入ってるのには違いない。


臣が私を「そういう目」で見ていることを知ったのは中学生の時で、何がきっかけかと言うと、ずばり、臣が私の名を呼びながら自慰してる場面にばったり出くわしてしまったのだった。臣は私に気付くと、子犬のように震えて泣きながら謝り倒してきて、それがあまりにも健気な姿だったものだから、気にせず今まで通り接しよう、と伝えて、それ以降この話は二人の間でも禁忌に近い話題となっている。

中学校を卒業して、私は進学、臣は働きに出て、生活習慣が合わなくなってから、私は臣の存在の大きさにようやく気付いたのだった。いつも側にいてくれていた人がいないというのは、たった一人で先に進むというのは、これ程までに孤独なものか。臣と会えない日が続いて、私は情緒不安定になっていった。臣恋しさに泣く夜を幾つか経たのち、私は自分の心を自覚した。私も臣のことが好きだったのだと。

それからは、ほとんど恋人のような距離感で過ごした。世間体故に共に暮らすことは出来ずにいたが、共に作家を目指し、共に同じ師に就いて、今も近所に住みながら暇さえあれば会う生活だ。

臣が同棲を提案してきたのは、友人の紫苑が長年密かに思いを寄せていた公賀の家に住まうことになったのを三人の飲み会で暴露して、紫苑のその幸せそうな顔を見た、次の日のことだった。

「俺たちも同棲しよう!紫苑たちができるなら俺たちもできるはずだ!」

しかし私は、今の距離感を心地よく感じていた。これ以上私が臣に近づいたら、せっかくここまで臣が努力して積み上げてきた臣の人生を壊してしまうかもしれない。その危惧から、私はどうしても踏み出すことができなかった。

早く家庭を持ってーーというのは、本心からの言葉ではない。臣が他の人間と一緒になるなんて、想像しただけで頭がおかしくなりそうだ。

だが、世間はそれを許してくれない。家族を持って初めて男として出来上がる。それが出来ない男はーー。


紫苑が死んだ今、臣の中に更なる確固たる意志が生まれているのは間違いなかった。

臣は、紫苑と同じように私が突然いなくなることを、恐れている。


私は煙草を灰皿に押し付けて、その火が消えるのを見届けてから、臣に問いかけた。

「臣。私に置いていかれるのが、不安か」

臣は質問を理解できなかったようで、数秒間考え込んだが、すぐに私の意図を汲んだようだった。

「ああ。死ぬ時は二人一緒じゃなきゃ嫌だ」

臣の瞳が柔らかくとろけたように見えた。その奥に情愛の炎があるのを感じて、私は、意を決した。

「分かった、臣。私も、私の可愛い人にいつまでもそんな不安を持たせ続けたくないんでね」
「凛、もしかして」

臣の表情がきらきらと輝き出す。それがなんとも可愛くて、思わず口元が緩んでしまう。

「桐生晴臣。この菅原凛之介、もうお前を離す気はないが、それで本当に構わないか?」

臣は目を潤ませながら、くしゃっと破顔して、私の手を強く握ってきた。

「凛、ありがとう」


ーーああ、修羅の道を選んだな。

しかし、この道は一人ではない。隣に臣がいてくれる。

それだけで、どれだけ幸せだろうか。


その時、紫苑がなぜ死んだのか、分かった気がした。あの時、飲み会で、紫苑が言った言葉を思い出す。

『幸福のまま、死ぬるべきか。なんてね』





(あとがき。読んでも読まなくてもいい、このお話の前作がこちら。

話繋がってますけど、前作を読まなくても読めるように書いたつもりです。徐々に書き溜めてシリーズ化していきたい。)

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