創作BL 晩秋の再会

(シリーズものですが前作・前々作を読んでいなくても一応読めるようにしてあります。前作・前々作へのリンクは最後に貼ります)




晩秋の朝。

息を吐き出すと、煙草の白い煙が窓の向こうの真っ赤な紅葉に雪化粧をしたようだ。空は青く澄み渡り、空気はぴんと張り詰めている。

じきに冬がやってくる。体に堪える季節だ。歳を取ると寒さに弱くなってしまっていけない。心もなんとなく寂しくなってくる。

自室の戸を叩く音が響き、女中が扉越しに声をかけてきた。

「旦那さま、葉書が届いております」
「そうかい。そこに置いてくれて構わない」

戸が少し開いて、葉書がそっと置かれる。女中はすぐに去って行った。おそらく凛之介くんからの手紙だろう。煙草を灰皿に押し付けつつ、葉書を回収する。

『親愛なる秋山太白(たいはく)先生』

神経質そうな文字、この書き出し、差出人を見ずとも凛之介くんのものだと分かる。一応裏返して見てみると、確かに「菅原凛之介」。その隣には「桐生晴臣」の名もあった。

ふむ、珍しいこともあるものだ。いくら可愛い弟子とはいえ、凛之介くんはあまりにも筆まめなものだから思わず面食らうことも多く、正直辟易としたことも一度や二度ではないのだが、同じく僕の弟子である晴臣くんと連名で何かを送ってくることは今まで無かった。

文面に目を通すと、なるほど、凛之介くんの家に晴臣くんも住むことになったから、今後晴臣くん宛に手紙を送る際は凛之介くんの住所に送って欲しい、と。僕は筆不精ゆえ、こちらから手紙を送ることなんて滅多に無いことなのだが、几帳面な凛之介くんのことだ。万が一があってはいけないからと早めに連絡してくれたのだろう。

しかし、そうか。二人は共に住むことにしたのか。二人が思い合っているのは明白だったので、一度凛之介くんに「晴臣くんとはこれからも交際を続けていくのかね」と問うたことがあった。その時凛之介くんは、端正な顔を曇らせながら、「なんとも言い切れません」と、彼にしては非常に珍しい、曖昧な物言いで返事をした。だが、どうやら二人は、今後も手と手を取り合って生きていくことを選んだようだ。

もしかしたら、彼らの友人であった龍田紫苑(たつたしえん)が先日亡くなったことが引き金になったのかもしれない。人気絶頂だったにも関わらず、自ら命を絶った小説家。新聞で読んで驚いたものだ。しかも紫苑くんはあの公賀黄壇(くがこうだん)と同棲していたと。紫苑くんとは数えるほどしか会ったことが無いが、公賀くんとは何度か対談などもさせてもらって、その度に創作論で衝突したものだ。いや、僕の方からわざわざ年下の公賀くんにぶつかりに行くようなことは無かったが、公賀くんがやたらと好戦的に食ってかかってくるので、結果的に喧嘩しているように見えただけだ。世間的には僕と公賀くんは仲が悪いことになっている。

公賀くんが僕に強く当たっていたのは、まず間違いなく、公賀くんの師匠が僕と長年対立関係にあり、しかもその男と僕がかつて文壇に良くない事件をもたらしたことが起因しているのだろう。昔、公賀くんの師を汚く罵った僕を、公賀くんは非常に嫌っているようだった。

凛之介くんたちからの葉書を机に置いて、再び煙草を吹かす。今日は天気が良いから、あとで散歩にでも出かけるか。ちょうど昨日、今年最後の仕事を終えたばかりだ。あとは年末を迎えるのみとなった。

年の瀬には子供たちが家に帰ってくる。長男と次男は家族を連れてくるだろう。長女は今年も嫁ぎ先の家で過ごすので帰ってこない、という文が届いていた。

僕は今、寡夫だ。妻は十年前に病気で亡くなった。元々病弱だったのに、三人も子供を産んで育てたのだから立派なものだ。しかしそれで寿命が削られたのだろう、風邪をこじらせたと思ったら、肺炎になってあっさり死んだ。当時、長男は十五、次男は十三、末っ子の長女は十になったばかり。僕と妻が結婚してすぐの頃から働いてもらってる女中がいて、彼女が妻の死後も精力的に働いてくれたからまだ良かったが、子供たちには寂しい思いをさせた。

妻はとても良い人だった。僕には勿体無いほど、優しい女性だった。

今思うと、彼女は幸福だったのかもしれない。僕の秘密を知ることなく死んでいったのだから。


外套を羽織り、煙草と財布を懐に入れて部屋を出る。

「あら、銀杏(いちょう)さま、お出かけですか」

女中が台所から顔を出した。

「ああ。昼も外で食べるつもりだ。夜までには帰る」
「かしこまりました、お気をつけて」

手を拭きながら台所から出てきた女中に見送られ、僕は家を出た。門前に散った紅葉が赤い絨毯のようで美しかった。

冷たい風を切りながら、僕はさっさと歩いた。目的地は上野だ。今の時期なら、上野公園の紅葉も綺麗に染まっていることだろう。最寄りの駅で東北本線に乗り、上野駅へ向かう。車内は案外まばらで、しかし上野に近づくにつれ客は増えていくのだろうと予測した。窓際の席に座り、流れていく街の景色を眺める。


帝大に在籍していた頃、同じ学年、同じ英文科に、僕と同じく作家を志す男がいた。男は春園東十郎(はるぞのとうじゅうろう)と言った。彼は僕より二つ年上だったが、豪快で人懐こい性格で、すぐに意気投合した。彼は僕を銀杏、僕は彼を春と呼んだ。

春は幼い頃から雑誌に色々寄稿するなどしていたようで、文壇の一部では既にその名を知られていた。僕は春と、他数名の仲間たちと共に何作か同人誌を作り、頒布した。そのうちの一作がとある有名作家の目に留まり、春と僕の詩が雑誌に載ることになった。それが評価され、僕らは目出度く作家デビュウと相成った。

その後もトントン拍子に僕らはすぐ頭角を現し、帝大を卒業した頃には二人合わせて「春秋」と呼ばれ、文壇でも注目の若き詩人たちとして名を知られることとなる。……と、それは表向きの美辞麗句で、裏では汚らしいことが色々とあったわけなんだが。

最初に雑誌に掲載された頃、僕は自身の性愛に悩んでいた。僕は女性を愛すると同時に、どうやら男性も愛せるようだった。

学友たちとの飲み会で、春が酒に酔って、僕に接吻をしたことがあった。周囲の学友たちはそれを囃し立て、余興とばかりに楽しんでいたが、春は僕の体をひしと抱きしめたまま、至近距離で凝と僕を見つめ、何か言いたげにその据わった瞳を揺らしていたのだった。僕は直感した。

春は僕を愛しているのだ。「そういう目」で見ているのだ。先ほどの接吻は遊びなどではない。本気の接吻だ。

僕は彼の腕の中で、小さく縮こまってその目を見つめ返すことしかできなかった。彼に抱かれた腰が熱く、僕はこの男に今この場で食い殺されてしまうのではないかと危惧した。恐れれば恐れるほど、腰が甘く疼いて仕方がなかった。まるで、春に食い殺されることを本望としているかのように。

その異様な様子を「春園が秋山にがんを付けている」と勘違いした学友たちが間に割って入ったことで僕らは引き離された。春は赤ら顔のまま、糸を引くように僕に視線を送り続けた。僕は思わず春から目を逸らした。

酒になど酔っていなかったが、頰がカッと熱くなって、僕は先ほど感じた甘い疼きを嫌悪した。初めて接吻をしたから、混乱しているだけだ。そうだ。僕が春に食われたいなどと、そんなことあるものか。第一僕は男だ。今まで好意を抱いてきたのも、全て女性だ。男を好きになどなるものか。それも、春を、親友の男をーー。

飲み会の翌日、すっかりしらふに戻った春に

「昨日はすまなかった!記憶に無いんだが、どうやら銀杏に迷惑をかけてしまったようで」

と快活に謝られ、内心複雑なのを隠しつつ、曖昧に笑いながら

「いや、気にしないでくれ。酔っていたのなら仕方が無い」

と返事をして、あの接吻と抱擁は「酔っ払ってやったこと」として処理された。

ところが、それから一ヶ月も経たずに状況は一変する。僕が下宿していた部屋で春と二人で飲んだ時、僕たちはあっさりと一線を越えてしまった。この時はお互い、酔った演技をして相手の様子を窺っていて(僕だけでなく春も演技をしていたことは後で知った)その結果するすると歩み寄り、愛の告白も無しに性行為に至った。春に触れられたところ全てが熱く、耳元で何かぼそぼそと語られる度に全身が甘く疼き、僕は自分でも聞いたことがないほど切ない嬌声をあげて春を受け入れた。その時は僕も春もすぐに果てて、裸で折り重なるように眠りに落ちた。

その後も度々、僕たちは体を重ねた。僕は春を心から愛していたが、春もまた僕を心から愛していたようで、お互いの良い場所がさらに分かっていくにつれ、体の相性はどんどん良くなっていった。僕は春と目が合うだけで腰が疼くようになっていた。教室で目が合うと、僕はもう講義の内容が全く頭に入らなくなって、ひたすら春の熱を欲しがることでいっぱいいっぱいになった。どうしても我慢できず、学内の最も人気の無い便所の個室内でこっそり交わったこともある。必死に声を殺しながら春に抱き潰されると、頭の中が真っ白になって、甘い痺れと春への愛おしさで体が満ち満ちた。

とても幸せで、甘美な日々だった。しかしその幸福は長くは続かない。


上野駅に到着すると、僕は駅を出て、上野公園内を静かに歩いた。なるほど、やはり想定していた通り、鮮やかな黄や朱に染まった木の葉と澄み渡る青空との対比が非常に優美で、四季の移り変わりを確かに感じさせた。湯島の方まで歩いても綺麗かもしれない。僕は不忍池の周囲をゆっくりと歩くことにした。

見目麗しい弁天島を遠くに眺め、僕は一度歩みを止めた。ふと足元を見ると蓮池の水面下で魚たちが元気に泳いでいる。それを覗き込んでいると、背後から懐かしい声が飛んできた。

「銀杏?」

振り返ると、春が驚いた顔をして立っていた。



学生時代。春と肉体関係を持つようになってから一年ほど、僕は蕩けるような日常を過ごしたが、その平穏は儚く砕けることとなった。

僕と春の帝大卒業が内定した頃。春に見合いの話がもたらされた。

相手は大物作家の娘だった。

春も僕も、非常に戸惑った。この縁談を断れば、春はその作家からの不評を買い、今後の創作活動において障害になるかもしれない。しかし縁談を飲めば、僕たちの関係はその瞬間終わりとなる。

僕らはよくよく話し合った。しかし話はいつまで経ってもまとまらない。そうこうしている内に、春の両親は縁談を進めていった。

ここまで進んでしまっては、もう引き返せない。僕らの関係も終わりだ。悲しみに震えている僕に、春は諦めたようにこう言った。

「最初から許されていい関係じゃなかったんだ、俺たちは。触れ合ってしまったことも、間違いだったんだ。俺は縁談を飲むよ。銀杏も、俺のことなぞ忘れて、良い家庭を作ってくれ」


心臓が冷たくなったのを覚えている。

次の瞬間、僕は近くにあった陶器で春の頭をぶん殴っていた。


それからはあまり記憶が無い。物音に気づいた隣人がすぐに駆けつけたところ、僕は割れた陶器の破片で両手を血だらけにしながら春に覆いかぶさり、灰皿で春の頭を何度も殴打していたらしい。春は気絶していた。隣人に取り押さえられた僕は暴れて泣き喚いていたそうで、何度も何度もこう叫んでいたという。

『馬鹿野郎、お前なんか、お前なんか今この場で死んじまえ』


僕は傷害の疑いで拘束され、春は頭を何針も縫う大怪我を負った。春が被害届けを出さなかったことで事件化はしなかったが、この出来事のために春の縁談は取り下げられた。僕と春は会うことを許されなかった。

後日、寄稿していた雑誌を見て衝撃を受けた。春から僕への非難の声明文が掲載されていたのだ。

『親友だと思っていたのに、秋山のせいで縁談は壊され、人生を滅茶苦茶にされた』という具合の内容である。

怒りで頭が沸騰した。僕はすぐに春を非難する声明文を書いた。あること無いこと関係なく織り交ぜて、とにかく派手に春を非難した。編集者を呼んで絶対に掲載してくれと念押しして原稿を渡すと、次の号で「非難への反論」として僕の文章は掲載された。

そこから僕と春の戦争が始まった。春もまた平気で嘘をついて僕を貶め、僕もまた平気で嘘をついて春を貶めた。それを一年ほど続け、結果、絶交宣言をすることで戦争は終結を迎えた。

以降、春とは顔を合わせることはあっても、話すことはしていない。一度たりとも。

春は筆名を本名の「春園東十郎」から「春圓東毅(はるぞのとうき)」に変更し、僕も本名の「秋山銀杏(あきやまいちょう)」から「秋山太白(あきやまたいはく)」に筆名を変えた。

春との戦中、および戦後もお互い作品は書いており、それ自体は高く評価されたので、中国史の春秋戦国時代になぞらえて僕たちが最も活躍した時期は「春秋時代」と呼ばれた。

僕は春を忘れるために、最初に来た見合い話をそのまま受けて、妻とすんなり結婚した。戦後処理も落ち着き、また、家庭ができたことで僕は心の落ち着きを取り戻し、春のことをあまり思い出すこともなく執筆活動を続けた。

妻は、私がかつて春を愛していたという事実を知らないまま死んでいった。



その春が、今、目の前にいて、僕に話しかけてきている。

「春」

久しぶりに春の名を呼ぶと、春の顔は少し和らいだように見えた。しかしやはり緊張しているのか、微笑みがややぎこちない。

「こんなとこで何してんだ。散歩か?」

心の距離を感じる声音だ。当たり前だ。あの絶交宣言から二十五年以上経っているのだから。

「うん。今年の仕事が終了したのでね。紅葉を見に来た」
「そうか。奇遇だな、俺も同じなんだ」

だから?と攻撃的に聞き返しそうになって、咄嗟に言葉を飲み込む。春の方からわざわざ長年の沈黙を打ち破って話しかけてきてくれたのだ。無下に扱うわけにもいかない。

そう思うと突然、手が震え出した。春は僕を恨んでいるに違いない。だって僕はまだ、彼に謝罪すらできていないのだから。

「銀杏、もし良ければ……少し話さないか。お互い五十を過ぎて、いい歳になった。これから先もお前と絶交し続けて、何も喋れないまま、誤解しあったまま死んでいくのは、その……嫌だから。もちろん、お前が良ければ、だけど」

春はゆっくり言葉を選ぶようにそう語った。僕は着物の下で手の震えを必死に押さえつけながら、分かった、と答えた。声も震えていた。


飲み屋の個室に通されて、お座敷に座って向かい合ったまま、僕たちは沈黙した。

とんでもない空気の重さだったが、女給が軽い態度で酒を持ってきてくれたことで少し肩が軽くなった。女給が去ると、春はまず僕のぐい呑みに日本酒を注ぎ、次に自分のぐい呑みに日本酒を注ぎ、盃を持って構えた。

「銀杏。まずは乾杯しよう」
「ああ」
「乾杯」

ちん、と盃同士が小突く音を聞いてから、お互い一気に酒を呷った。春は空になった自分の容器の内側を見つめながら、優しい声で呟いた。

「こうやって銀杏とまた飲める日が来るなんて、思ってなかったな……」

僕は目を逸らして、口を閉ざした。

二十五年間凍らせ続けてきた氷塊は、とんでもなく巨大だ。その氷塊を一気に溶かし、崩してしまうことは、とても恐ろしいことに思えた。

僕のその恐怖を知ってか知らずか、春は静かに口を開く。

「なあ、銀杏。昔、初めて俺がお前に接吻した時のことを覚えているか」

僕は思わず口ごもる。覚えているどころか、さっきまでそのことを思い出していたところだ。

「覚えている。お前に食われるかと思って僕はとても怖かった」
「俺は本当に食ってやろうかと思ってたよ。欲しかった銀杏の体が、自分の腕の中にすっぽり入ってたんだから。食ってしまいたくて仕方がなかった」

初耳だ。僕は思わず顔をあげた。春は僕を見ていた。その顔を僕は見た。

五十二歳になった春の顔には、その年月を感じさせるだけの皺がしっかり刻まれていて、しかし整った顔立ちは変わらずだった。髪もまだほんの少し白髪が見え始めたか、という程度で、ほとんど禿げてもいない。元々の偉丈夫に貫禄が追加されて、良い年の取り方をしていると思った。

数え切れないほど見た、若い頃の春の顔が一瞬、今の春の顔に重なった。僕は胸騒ぎがして、また目を逸らす。

「そんなこと、今更聞かされても」
「いや、今だからこそ言うべきだろう。銀杏。俺は本当にお前が好きだったんだ」

心臓が凄まじい音で鳴り始める。ああ、うるさい。

「銀杏も、俺のことを好きでいてくれたんだよな」

僕は、言ってもいいのか。

春のことが好きだったと、言ってもいいのか。

あの日殺してしまった感情を、言葉にしてもいいのか。

「なあ、銀杏」

そんな声で、そんな甘い声で問われたら、もう、答えるしかないではないか。

「僕は……」

鼻の奥がつんとする。僕は下唇を噛んで涙を一旦堪えてから、ゆっくり声を出した。

「僕も、春のことが好きだった。本当だ。本当に……」
「そうか……ありがとう。それじゃああの日、俺を殴ったのは、どうしてなんだ」

心臓が冷えたあの瞬間を思い出す。

僕はあの時、春の言葉に失望したのだ。だから、殺そうとしたのだ。

どうして失望したのかーー。

何度も唾を飲み込みながら、僕は声を絞り出そうとする。なかなか声が出てこなくて、焦りで机の上に放った手が大きく震え出した。

「銀杏」

震える手を、春に握られた。春は、ひどく心配そうな顔をして僕を見ていた。僕は意を決して声を出す。

「……は、春の、言葉に……失望、したんだ」
「俺が縁談を断ろうとしなかったことにか?」
「そうじゃない。いや、そこも、それも嫌だったけど。僕が一番嫌だったのは、それじゃない。僕が嫌だったのは、君が、春が……自分のことなんか忘れて、幸せになれ、と言ったことだ」

当時の悲しみがどっと迫ってきて、目の前がぐにゃりと歪む。春の顔がうまく見えなくなった。

「君と僕が愛し合ったことを、僕は、忘れたくなかった。それなのに君は忘れろと言う。君は僕を忘れて前に進むことを是とするのか。僕を置いて、僕だけ、君を、忘れて、なんて、到底、許せることじゃない。だから、僕は君を許せなくて、殴ってしまった。あの時、本当は、君だって、辛かったはずなのに。ごめんなさい、ごめんなさい、春……」

謝罪の言葉がとめどなく口から流れた。僕は机に突っ伏して泣いた。

春は握った僕の手を優しく撫でて、鼻をすすった。春も泣いているようだった。

「銀杏、教えてくれてありがとう。俺こそ、あんな声明文、書くんじゃなかった。頭の中が滅茶苦茶になって、どうしようもなかったんだ。ごめん、銀杏」
「いいや、僕こそ、嘘をついてまで、君を貶めて……非難されるべきは僕だ。僕なんだ。ごめんなさい、春、ごめんなさい」

大の大人二人が、まるで少年のように声をあげて泣いていた。


しばらくして、ぐしょぐしょになった顔を見合って、その酷い有り様に僕らは同時に噴き出した。その日初めて、腹を抱えて笑った。


ああ。あの時も、面と向かってきちんと言葉にして、話をしさえすればよかったのだ。

あの頃はお互い傷ついて、相手を殴ることでしか自分の気持ちを訴えることができなかった。

胸の奥の氷塊が、溶けていくのを感じる。

それはとても気持ちの良いものだった。



「銀杏、お前んとこの子供、今いくつだっけ」
「長男が二十五、次男が二十三、末っ子が二十。末っ子も去年結婚して、立派に嫁やってるみたいだ。春のところは?」
「俺んところは一番上が二十四、次が年子だから二十三、それから二つ刻みに二十一、十九と並んでるよ」
「そうか、じゃあ次男同士が同い年なのか」
「そうなるな。あれ、銀杏、お前の奥さんって確か……」
「十年前に亡くなったよ。肺炎でね。自分には勿体無いくらい優しい人だった」
「そうか……。うちのは相変わらず元気だしうるせえけど、たまには優しくしてやらないとな」
「いつ別れが来るかなんて、誰にも分からないからね。隣にいてくれる間に感謝の気持ちはたくさん伝えておくといいよ」
「ああ。……そういやお前、龍田紫苑が死んだのは知ってるか?」

僕のぐい呑みに日本酒を継ぎ足してくれながら、春はやや深刻そうな声でそう問うた。

「うん。君の弟子の公賀くんと同棲していたと聞いたが」
「そうそう。公賀のやつ、紫苑と恋人同士だったんだそうだ」

そうだったのか。

「ということは、いきなり自宅で恋人を失ったということかい」
「そういうこった。それでな……一度様子を見に行ったんだが、公賀が酷く衝撃を受けちまってるみたいで、小説が書けなくなってる。紫苑の幻覚も見ると言っていた」
「……」

言葉がうまく出てこない。

僕たちのように、時間がかかったとしても、また対話できる機会があるなら救いはあるのだが。死によって別たれてしまっては、どうしようもできないのではないか。

「……公賀くんは、乗り越えられそうなのかい」
「今はまだなんとも。時間が癒してくれるかもしれないが、作品が書けないとなるとあいつの作家生命に関わる。金なんかの世話は全部うちがやろうと思っているが」
「僕も手伝おう」
「ありがとう。もし必要になったら、声をかけると思う。その時は、頼む」

春が頭を下げる。春は公賀くんをとても可愛がっているのだろう。凛之介くんと晴臣くんのことが少し頭を過ぎった。

「任せてくれ。……ねえ、春。世間的には僕と公賀くんは仲が悪いということになっているが、僕は公賀くんのことが嫌いじゃないんだよ。むしろ、割と好きだ」
「本当か?そりゃまたなんで?あいつ、お前によく食ってかかってただろう。対談も読んだが、ずっと公賀が喧嘩腰の、酷いものだった」
「はは。そりゃ、理由は一つに決まってる」

僕は酒を一口飲んでから、笑って言った。

「公賀くんは、師匠の君によく似ているからね」



店を出ると、外は夕暮れ時だった。今から帰れば家の女給に伝えた通り、夕飯に間に合うだろう。

駅まで春と並んで歩いた。久々の感覚に、胸がくすぐったくなる。

「なあ、銀杏」
「なんだ、春」
「俺は今でも銀杏のことが好きだ」

思わず顔が緩んで、俯く。紅葉の絨毯は夕陽に照らされて、さらに赤く輝いていた。

春に好きだと言われるのは嬉しい。本当に、心から。

だけど、僕たちは。

「ありがとう、春。だけど……」
「そう。俺たちはもう恋人じゃないし、恋人にもなれない。守るべき家族もできた。守るべき弟子もできた。……回り道の多い人生だったけど、これはこれで、有りだったと思うんだ。俺はこれからも、お前と、自分の家を愛して老いていく」
「そうだね。僕も君のことが好きだ。でも、そう思い合ってるだけ、って形でも、良いんだ。今でも君に愛されてるって分かってるだけで、僕は、穏やかに笑って死んでいける」
「おいおい、まだ死なないでくれよ。二十五年の空白を埋めるくらい、これからも一緒に飲みまくろうぜ」
「はは、いいよ。いつでも呼んでくれ。君が呼んでくれたなら、僕は喜んで会いに行くよ」


電車に乗る春を見送って、僕も帰りの電車に乗り込む。窓際の席に座って、赤く染まった街並みを眺めた。

帰ったら、凛之介くんたちに手紙でも書いてみようか。きっと凛之介くんは「先生から返事が来た!?」と喜んでくれるに違いない。それを見て晴臣くんも笑うのだろう。

その様子を想像して、僕は思わず微笑む。

一緒になろうとすること。一緒に生きようとすること。どちらも、若き日の僕と春には出来なかったことだ。

新しい門出を迎えた可愛い弟子たちには、どうか、どうか穏やかな幸せが訪れますように。





あとがき。物語の発起点になった最初の作品がこちら。

作中に出て来た凛之介と晴臣がメインの話がこちら。

そして今回に繋がります。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

ありがとうございます!生きる励みになります。