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【第4話 心理学と心理学ではないもの】

お久しぶりです。映です。

あっという間に時間が過ぎていき、気づけば前の記事から6週間もあいてしまいました。この間の気持ちとしては、これまでのキャリアで培ったものを一時棚上げし、新しい環境に没入すべく動いておりました。5月を終えるに当たって少し振り返りもかねてnoteに向かっています。

noteについては、これまでは少し思考を固めてから、「さあ書くぞ」の精神で綴ろうとしていましたが、もうちょっと気軽に考えたことを書き留めるような気持ちでやっていこうと思っています。

さて先日、人事コンサルを中心に展開する株式会社人材研究所代表で、私の大学の先輩でもある曽和利光氏にお招きいただき、Facebookグループの「人材研究所オンライン」にてライブ配信に参加させていただきました。テーマは主に私の自己紹介をさせていただきながら、臨床心理学と人事について雑談的に語るというものでした。この経験は、最近ずっと業務にどっぷりだった私にとって、立ち位置を振り返る営みになりました。

この中で、ビジネスの世界での「心理学」のイメージは思った以上に曖昧なのではと思い立ったため、今日はその辺りを少し書こうと思います。

様々な心理学

皆さんは「心理学」と聞くと何をイメージするでしょうか。DaiGoさん?

実は心理学を生業にする人たちは、「心理学」を単体で学んでいることはなく、「◯◯心理学」を学んでいます。心理学は人間の心や脳、精神の学であるため、そのフィールドが実に多様に存在します。本マガジンのタイトルに「心理学者」ではなく「臨床心理学者」と敢えて書いているのもそのあたりに由来します。

例えば「教育心理学」は、教育現場の心理学であり、教師の授業方略や、子どもの心の発達など、教育に関わる人間の心の学問です。「犯罪心理学」は犯罪や非行に関わる心の学問で、興味を持つ若者も多い分野です。このように心理学は、フィールドが異なると全く違う色合いを帯びます。あるいは「実験心理学」は、現代の科学的な心理学のルーツにもなっており、実験室での客観的データを元に発展してきた、脳や心の一般的仕組みを明らかにし、理論を打ち立てる心理学です。

このような心理学の枠組みは広義にも狭義にも定義されます。広義には、「基礎心理学」と呼ばれる、人間の脳活動や認知活動、行動の一般的傾向を明らかにしようとする心理学と、「応用心理学」と呼ばれる、教育現場や医療現場などの実践に基づき、その現場の個別性と普遍性を行き来しながら、実践に役に立つ知見を提供しようとする心理学があります。私の専門とする臨床心理学は、カウンセリングや心のケアの実践に関わる心理学です。

上記のようなフィールドを軸にした分類もありますが、一方でアプローチを軸にした分類もあります。一般原理を打ち立てるアプローチでは、既述の実験心理学のように、実験室での統制実験を繰り返しながら、客観的データと統計分析を元に一般的傾向を明らかにする定量的なものもあれば、インタビューや行動観察を行い、言語データを分析する定性的なものもあります(厳密には行動観察は定量データ化する場合もあります)。もっと広い範囲では、主観の記述や論理に基づく現象学的アプローチもあります。現代的には定量的アプローチが最もわかりやすく説得力を持っているように見えますが、より狭い領域での実践に役立つのは定性的な知見である場合も少なくありません。

このように心理学は、様々な領域やアプローチが重なり合って成り立っており、これらのルーツも多岐に渡ります。最も古くは哲学から、社会学や精神医学、脳神経科学や行動科学、宗教学など、様々な周辺領域と重なり合いながら、心理学は発展してきたと言えるでしょう。

これは言い換えれば、「心理学を専門としています」という人に出会ったら、その人が「何心理学」を中心に、どんなアプローチで研究してきたかによって、その価値観や思考プロセスは全く異なるということです。加えて、例えば同じ「臨床心理学」を学んだ人でも、どんなアプローチを中心に学び、実践してきたかによっても異なります。

これだけだと心理学はすごく散漫的なものに感じられるかもしれませんが、心理学をアカデミックに学んだ人は、中心的な領域の知見を一通り共有しています。心理学科など心理学系の大学を経た人の大学時代の時間割は、「◯◯心理学」でいっぱいになっています。

心理学ではないもの

ここまでは前置きです。今日最も伝えたいことは、皆さんに「心理学」と「心理学ではないもの」を見分ける目を持っていただきたいというテーマです。それは、一言でいうと「個人の主観的経験のみから語られるもの」は心理学ではないということです。

ここからは臨床心理学に絞って考えてみたいと思います。先日の人材研究所オンラインでも話題になったこととして、カウンセリングはどこか「怪しい」というテーマがありました。企業のカウンセラーの相談など、外からみても「なにをやっているかわからない」というのです。よくわからないけど相談に行っている、プロに話を聞いてもらえばなんとかなりそう、それぐらいの感覚しか湧かないのは自然なことだと思います。

プロのカウンセラーは、その人が学び実践してきた理論に基づいてカウンセリングを行っています。それは行動科学的なアプローチの場合もあれば、現象記述的なアプローチの場合もありますが、常に何か学問的に共有されている知見に基づいています。加えて、自らのトレーニングの期間に身体で身につけた技術、例えば相談者の人柄の見立て方や、話の聴き方、アプローチの仕方などは、知識だけで出来るものではなく、必ず実践を必要とします。それはちょうど、車の運転やスポーツなどと似ています。心理学的なカウンセリングをするには、理論に基づいて頭と身体を使うことを必要とします。

加えてカウンセリングにおいて重要な要素として、カウンセラー自身の心の在り方の理解度というファクターがあります。頭や体を使うことに加え、カウンセラーは自身の性格や心の動きの癖、対人関係の癖を知っている必要があります。その上で、カウンセリングはクライエントとカウンセラーの関係性の上に成り立つものであると言えるでしょう。どのような領域であれ、アプローチであれ、関係性を考慮せずに行うものは、心理学的なカウンセリングとは言えません。

たとえば、「感情とはこういうものなので、こうするのが正解です」など、個別性を重視せず、一般的なことだけを個人に当てはめてアドバイスするようなカウンセラーや、「私を信用すれば大丈夫です」など根拠もなく耳障りの良いことを言うカウンセラーなどは、学問的なカウンセラーではないでしょう。

客観的主観性

学問的な心理学(ここでは臨床心理学)に基づいたカウンセリングは、知識と技能を用いて行われています。技能には必ず主観が入りますが、それはカウンセラーの思い込みではなく、何らかの理論に基づき、多くの事例を経験することで得られる、カウンセラー自身の中に刻まれた客観的主観性とでもいうべき属性を持つ技術です。

ところが、ここが重要なポイントで、プロのカウンセラーを名乗る人物でも、この客観的主観性があまりにも主観に偏っているような人も存在します。それはそのカウンセラーのトレーニング段階での自省や自己客観視、似た事例での自己検証などが不足しており、うまくいっていないケースを自身の満足で完結して何でもハッピーエンドにしてしまう夢想家であったり、クライエントに耳障りの良い言葉を与えるだけの宗教家であったりします。こういうカウンセラーに仕事を任せてしまうと、相談室はただ依存を促進するだけの宗教的な箱と化してしまい、残念ながら心の問題の根本的な解決につながらない可能性が高いでしょう。

このように臨床心理学は、カウンセリングを中心とする対人援助の実践を行いながら、自らの知識と経験を蓄積し、常にそれらを省みて、理論と実践を参照し、自身のアプローチを検証しつづける必要があります。そのような実践の中で、新たな知見が得られれば、それを発表し同業者と共有することで発展してきた学問です。個人との実践の中から一般性や時代性を明らかにしようとする学問ともいえるでしょう。

実践へのコミット

話を戻しますと、このような学問であるがゆえ、外からみているだけでは、何をやっているのか判断しづらいものです。そのカウンセラーがどんな理論にのっとって、どんな経験にもとづいて実践しているのかを外から理解することはほぼ不可能といっていいと思います。少なくとも、そういった参照枠についてカウンセラーから話を聞く必要がありますし、関係者はその辺りの理解があると、よりよくカウンセリングを理解し、信頼して任せることができると思います。

その意味で私は、カウンセラーが何を考えて実践しているのかを、もっと人事の領域に拡める必要があると思っています。ただ何をやっているのかわからないブラックボックスを任せるのではなく、ある程度理解していただきながら任せることで、よりよい連携や組織開発への応用などが発展・浸透しやすいでしょう。これは勉強してくださいということではなく、コミュニケーションしてみてほしい、という願いです。よくわからないけど任せている、というのではなく、謎めいたカウンセラーにコミットしてみる気持ちを持って欲しいと思います。これは、心理学的なカウンセラーとそうではないカウンセラーを見分ける視点を持つことにもつながります。逆もまたしかりで、カウンセラーには、現場の人に自身の実践について説明する外向性を持っていて欲しいと思います。

心理学を理解するために

最初の話題から少しずれてしまったようですが、臨床心理学を例に、心理学について書いてみました。上記は特に現場の実践的な心理学に偏った内容ではありますが、個人の心を考えようとする場合には、一般的傾向は必ずしも当てはまらないということに留意してほしいと思います。メディア等で「脳の仕組みはこうなっているので、人はこういう風に振る舞いがちだ」とか「心理学的にはこういった事実があきらかになっている」といった知見は、すべて平均比較による一般的傾向であり、これがすべての個人や集団に当てはまるわけではないということです。心の個別性を明らかにしようとする時には、常にその人の生育歴や人生史、その人の性格傾向、とりまく環境を考慮した上で、その人自身がどのような体験を持ちうるのか、どのような感覚をもっているのか、どのような思考や感情などの「心の動き」を行う可能性が高いのか、など様々な個別性について時間をかけて検証する必要があります。一般的知見を個人に当てはめたり、レッテルを貼って考えることは現実に添わず、ただ表面的に心地よいだけ、わかった気になるだけです。心は小宇宙で、わからないことだらけなのです。人間は「わからない」ことに不安を抱くため、どうしても簡単にわかろうとします。しかし「わからない」ことの不安に耐えながら検証を続ける視点をもつことが、心を理解することにつながるでしょう。

もちろん、心理学の一般的知見を無碍にしているわけでは決してありません。心の傾向を明らかにすることは、個別の心の仕組みを考えることにもつながるからです。どちらかに偏って絶対視することこそが、最も現実に添ぐわないということを伝えたいと思っています。客観的知見と主観的経験、一般性と個別性、理論と実践を行き来しながら導かれる知見こそが心理学的であると言えるでしょう。

最後に

心理学とは何かということについて自分なりに考えてみました。出来るだけ学派や領域によらず共通することを述べているつもりですが、異論がある方はぜひコメントしてほしいと思います。なぜならここで述べたこと自体も絶対ではなく、様々な考え方が存在し、私自身もまた上記の解釈仮説を常に検証し更新しながら心理学について考えたいと思っているからです(自分でも上記の説明は若干偏ってしまったような感触があります)。あるいはこういったメタな視点ばかりではなく、時には主観に没入したり、知識にコミットしたりする必要がある場合もあります。知識や経験との距離感も考えながら、自身の思考を検証したいと思っています。こういった汎用的な議論をすることは、見る人が見れば、結局煮え切らず、何が正しいのかわからない「逃げ」の文章でもあると思うので。

そして軽い気持ちで書きたいと言いながら結局5000字を超えてしまいました。なかなか難しいですね…次回こそもう少し丸い文章を書きたい。

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