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恐怖によって教育する人たち

犬を恐れる親のもとで育った子供は、同じように犬を恐れるようになりやすいという。それは親からの「噛んでくるかもしれないから気をつけなさい」という直接的な経験による場合もあれば、「犬を見たときに親がギュッと手を握ってきた」という間接的な経験による場合もある。

好むと好まざるとにかかわらず、人間は自分の恐れを人に伝染させてしまう。

だから皮肉なことに、恐れの少ない人は恐れの多い人から怒られやすい。恐れの少ない人が平気でやっていることに対して、恐れの多い人は「なんでそんなことをやってるんだ!」と怒るからだ。そして残念ながら、それを「教育」だと思っている人は多い。

たしかに生きていくために必要な恐れはある。例えば子供は平気で道路に飛び出したりするから、それに対して恐れを抱かせることは必要なことでもあるだろう。

しかし、恐怖による教育ばかりでは人は不自由になっていく。

デイヴィド・ソベルの『足もとの自然から始めよう』という本がある。10年以上前に読んだ本だが、いまだに印象に残っている本である。内容紹介がとてもよく書かれているので引用しよう。

本書原題の「エコフォビア」とは、子どもたちの心に刷り込まれた「自然恐怖症」を指す。

いったい誰がそんなことをしたのか?皮肉にもそれは環境保護に熱心な教師や親たちであると、著者のソベルは言う。ごく身近な自然への共感や親愛を育む前に、子どもたちは、真面目で善意にあふれた大人たちによって、「原油の海への大量流出」、「熱帯雨林の破壊」、「酸性雨の被害」、「滅びゆくたくさんの動物たちの悲しい姿」の映像やエピソードにさらされる。現状では、それらが“暴風雨”となって、子どもたちの自然へとつながろうとする芽を吹き飛ばしてしまっている。

長年、子どもの発達と自然のかかわりを研究し、環境教育を実践してきた著者が提唱するのは、4歳から7歳までの「共感」ステップ(仲間になる動物を探す、鳥になる…)、8歳から11歳までの「探検」ステップ(ランドスケープ教育、川に沿って行ってみよう…)、12歳から15歳までの「社会活動」ステップ(秘密基地を作ろう、地域を知ったうえで何かをやってみよう…)など、あくまで身の周りの自然・身近な環境との楽しい交歓をベースにした活動メニューなのである。

恐怖による教育は、短期においては役に立つ。「滅びゆくたくさんの動物たちの悲しい姿」を見た子供は、その後何日かは環境について考えたり、行動するかもしれない。しかし、長期においては役に立たない。自然を恐ろしいものとして捉えた子供たちは、いずれ自然に対して心を閉ざしていくからだ。

僕はインプロ(即興演劇)を学んだり教えたりしているが、それは究極のところ「恐怖を取り除くこと」だと考えている。

小さな子供は即興で表現することを恐れない。子供たちは自然に歌ったり、踊ったり、演じたりしている。しかし即興することや表現することを恐れる大人たちから「教育」されることによって、だんだんとそれができなくなっていく。

だからインプロを教えることは、それらの「恐怖による教育」から再び即興する喜びや表現する喜びを取り戻すことだと思う(それは同時に失敗する喜びや人と関わる喜びでもある)。

とはいえ、これは言葉でいうほど簡単なことではない。なぜなら、これまでにも書いてきたとおり「恐怖は伝染する」からである。

どんなにインプロの技術があっても、根本に「即興することへの恐れ」があれば人を自由にすることはできない。反対に、全くインプロの技術が無くても、恐れがなければ人を自由にすることができる。インプロを教えることにはそういった「身も蓋もなさ」がある。

僕はインプロをはじめて10年になるが、いまだに自分の中にある恐れに気づく日々である。しかし、気づくたびに自由になれるし、なんなら「自分の中に恐れがある」ということ自体を面白がれるようになってきた。

恐れを扱うことの難しさは、それが容易に「正しさ」と結びつくことである。恐れから人を怒っている人は、自分が正しいと信じている。しかしそうなってはもう変われない。僕もいまだに恐れに囚われることはあるけれど、せめて自分が変われるようではありたい。

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