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うっかりに比べたら失敗なんて

「失敗を恐れるな」という文句は、耳や、なんなら目にもタコができるくらいあちらこちらで見聞きする。でも、実際には失敗すれば、利害関係にあるひとには怒られ、関係ないひとには笑われる。怒られなくとも、「これはしょうがないよ」とか「人間だからね」などと言われて、次から気をつけようね的な感じで終わる。要するに失敗そのものが絶賛されることはないのだ。あたりまえだけど。

だからわたしは冒頭のことばを見聞きするたびに違和感を覚える。社会がそれを許容していない一方で、失敗を恐れるな、むしろどんどん失敗しろ、みたいなのはなかなか難しいんではなかろうか。
かく言うわたしもひとの失敗を慰めたことはあっても褒めたことはない。まあ、ひとの失敗を大絶賛したらそれはそれでイヤミっぽい気もするけど。
もともと他人に興味がないので(というよりも興味を持てる他人が周りにいない)、ひとが失敗しようがなんだろうがどうでもよい。そんなことよりも自分が失敗しないことに心を砕いている。

自分が失敗した場合、どんな種類の失敗に心が影響を受けるかというのはひとによってちがうと思う。
わたしの場合は、大きい失敗のほうがわりと動じない。たとえば結婚と離婚とか、なにも考えずに会社辞めちゃったこととか、リストラや病気(失敗なのか?)とか、そういうことはあんまり気にしない。だけど、仕事のミスとか(不要不急の仕事なので、ミスをしても人命にかかわることではない)、間違えてメールを送っちゃったとか、もはや失敗というよりもただのうっかりなんだけど、このほうがダメージが大きい。

これはたぶんできごとの大小は関係なくて、わたしが周りの評価を気にしてるからなんだと思う。自分は自分の道をマイペースで歩むのだとか言っていながら、わたしは周りの評価をすごく気にしている。
そういえば小さい頃ピアノの練習を家でできなくなったのも、そのへたっぷりを姉にからかわれたくないって理由だったし、昔っからかなりの自意識過剰だったみたいだ。

ひとの失敗を本気でバカにするひとなんていないとは言わないけど、それほど多くはないし、たとえそうだったとしても、向こうの重みとこっちの重みはちがう。相手が1ぐらいの軽さで言っていることが、こちらには10の重さに感じてしまう。コミュニケーションって概ね不均衡なので、1の軽さのことばや評価を気にしても損するだけだ。

自分が失敗したときは、新しいことに挑戦してるから失敗してるのよ! っていばってりゃいいと思ったんだけど、わたしが気にするのは単なるうっかりなのでこの理屈が通らない。
なので、苦肉の策で「やっちまった、てへぺろ」と声に出してみたら、今日やらかしたうっかりがどうでもよくなった。うっかりと比べると失敗って高級なのね。

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