見出し画像

一歩近づいてみる

それは、感動を味わわせてくれたり、知恵を提供してくれたりする。しかも経済的、時間的という面で比較的お手軽に。
そんな書籍という手段が人類に広まったことってすごいことだと思う。
それに加えて今はネットもあり、人々に入ってくる情報やコンテンツの量は、昭和の時代とは比べ物にならないくらい多いと思う。いいとか悪いとかは別にして。

書籍は有益な情報をもたらしてくれるけれど、著者の講演会やら出版記念トークイベントやらに行って、実際にその著者に会うと、書籍とはまた違った情報が得られる。
書籍に載っていない情報を得られるというよりも、本人の顔を見たり、声を聞いたりすることで、より内容が腑に落ちる。
生身の本人からしかわからない情報っていうものがあるのかもしれない。

昨日、ある女性をインタビューした。
彼女とは仕事の関係で1年ほど前に知り合った。ときどき一緒に仕事をしている。
これまで彼女とはあまり話したことがなかった。わたしはおしゃべりしながら仕事をすると、どちらかがおろそかになるので仕事中はあまり話さない。だから、彼女とも業務上必要な話以外は、多少の雑談くらいしかしたことがなかった。
今回、取材という形で彼女の話を初めていろいろと聞かせてもらって、あるガッテンしたできごとがあった。

「自分が幸せになれば、周りのひとも幸せになる」
よく言われていることだ。
でも、わたしはそれを「ふーん」くらいにしか思っていなかった。機嫌が悪いときにそんなことを聞かされると、そんなの自分のわがままを正当化するためのざれごとでしょう、とすら思っていた。ほんと、自分でも性格悪いわーと思う。
今回インタビューをさせてもらった彼女も、そんなようなことをブログか何かに書いていた。
彼女のことは好きだったので、性格の悪いわたしだけど、書かれていることを否定的にはとらえなかった。でも、その意味するところがやっぱり理解できず、あいかわらず「ふーん」という感じだった。

ところが、昨日、彼女と1時間くらい話をしたら、「自分が幸せになれば、周りのひとも幸せになる」ってこういうことなのかーと、腑に落ちた。

志の輔:「ガッテンしていただけましたでしょうか?」
ガッテン! ガッテン! ガッテン!
ガッテンボタンを100回くらい押したい気分だ。

だって、話を聞いているわたしが幸せな気持ちになってきたのだから。
彼女の言う幸せって、べつに壮大なものじゃなくて、言うなればゴキゲンでいるということだとわたしは解釈した。
彼女は自分がいい気分でいたい。そのためにできることをする。彼女にとってのそれは、環境と身体を整えるということだ。
例えば環境面では、どうしても合わないひととは無理して付き合わない(そういうひとも不思議と減ってくるようだ)とか、身体の面では自分が食べたいと思うもの(彼女はビーガンだ)を食べるとか。
そうして自分周りを整えていくことで、無理やりなポジティブシンキングではなく、自然に心が穏やかになったのだそうだ。

そんな彼女のそばにいるわたしも穏やかになる。
彼女と親しく話していたわけではないけれど、彼女がいるときは、わたしは仕事中にカリカリすることは少なかった。
彼女の奏でる音が伝わって、わたしの中で響いていたんだ。今まで気づいていなかったけれど、彼女がゴキゲンにすごしているから、わたしもゴキゲンになっていたんだ。
昨日のインタビューで、彼女に一歩近づいた。そのおかげで、わたしはより一層ゴキゲンになり、それが彼女のおかげだったということにも気づいた。
ちょっと離れていたときにはわからなかったことが、近づくことでそのひとの醸し出すものに触れたから、気づけたんだ。
本を読んでいるだけでは今ひとつつかみ切れなかったものが、本を書いたひとにあったら腹落ちするようのと同じだ。

間近で花火を見れば「ドドーン」という音が腹に響く。でも、離れたビルの屋上なんかで見ると、花火は見えても、花火の音が腹に響くことはない。いつもよりもちょっとだけ多く鼓膜が震えるだけだ。
臨場感、高揚感がそうさせるというのもあるだろうけど、そこには、花火や花火師のエネルギーが、わたしたちオーディエンスを直接包み込むからなんだと思う。

一人が幸せでいることは、近くのひとを共鳴させる。遠くなるにつれて、その響きは弱まっていく。でも、バケツリレーみたいに次のひとへ手渡し続けていけば、響きは遠くまで届けられる。
ぐずぐずしちゃいけない。音が劣化しないうちに次のひとに渡していかなければいけない。そうすれば、自分の中でもその音は響き続けるはず。

だから、わたしも幸せ(と記憶)が劣化しないうちに、この記事を書いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?