感じることの先に「私」がある
”私”は動詞だと思う、って変?
自己肯定感とか、自己認識、とかいう言葉に少しばかり抵抗感があります。
ことばが悪いというのではなくて、そういった時、イメージするコチラ側の問題なのだと思うんですが。
”自己”、、言い換えて”私”でもいいんですが、
私、というのが一般的にそもそも名詞であることが、
どうも、「自己意識」を限定づけてしまっている気がする。
音楽に関するいくつかの講座(音楽を描く・音楽リテラシー)をやっていて、
常々感じている、「私」あるいは他者である「あなた」。
感じている、ということの先にその人が見える、と感じるときがあります。
そして私自身も夢中になってなにかやっているとき、
その相手は”音楽”だったり、”楽器”だったり
”身体”や”空間”だったりすると思うのですが、つまり自分の内側に対する「外側」、
この外側と内側の間を取り持つようにして、感覚がありますよね。
感じるって、そういうこと。
そこに、私がいる。
感じようとする私は私の先端にいて、常に動いている。
だから、「私」というのは動詞なんじゃないか、と。
文法的にはめちゃくちゃかもしれないのですが、ここの意味を共感できると嬉しいなあと思います。
一般的に「私」というと、じっとコントロールルームで感覚や思考を操る不動のもののイメージ。
でも、私はいつも戦闘隊の突端で働いてるんじゃないか、という説です。
”我思うゆえに我あり”に異議あり
”我思う、故に我あり”
ラテン語訳のCogito, ergo sum
(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)
デカルト
wikipediaより
デカルトが唱えたというこの言葉。
内側の自分に気づく、それはもちろん何も間違ってはない、そのとおりだとおもうのです。
ただ、なにかに夢中になってる時、私は自分なんか意識していません。そして、そういうときのほうがすごく”自分”が働いてる感じがします。
西洋の哲学が、ひいては、西洋の文化のなかにも深く入り込んでいくことになる、人には内側と外側がある、という「二元論」。二元論は、たしかに、そのとおり否定はするつもりはないです。
だけど、別のフェーズがある感じ。
内外に隔たれているからこそ、そこを結ぶ感覚。
そうか、動くんだから時間の感覚がそこにはあるな。
私が音楽やる人だからこうなってしまうのかもな、と。
そういえば、私には、二人の子どもがいて、もうそこそこ大人なのですが、彼らが思春期のころ、一番大事にしてたことを思い出しました。
「泣いてもいい、思考停止してもいい、けど、感覚はとじるな。
美味しいものを美味しいと感じ、空が青いと感じる、あれだ。」
直接言ったかどうかは覚えてませんが・・
とにかく、食事は美味しく理屈抜きで美味しくたべよう、みたいな。
まずいときはまずい、でいい、と。
花が咲いた、鳥が鳴いた。いい匂いがする。
そこに、その感じるということに、たしかにあなたがいるから、大丈夫、みたいな。
それがあったので、子どもに「大人じゃない」(”大人げない”ですらない)と言われる始末の私でもなんとか子育てできたと思います。
思考回路も知識も感じることの対象
こうやって文章を書くようになって特に思うのですが、
知識や思考回路も、感じることの対象で、
感じる”私”は動いていて、取捨選択しています。
必要な知識を拾い、回路をつなぎ、固化した「私」が抱きかかえている余分なものを容赦なく切り捨てていった先に、見えてくる未来。
ほんとに大事な回路がそこに見えてきて。
当然のことながら”私”は生きている
そう、当然のことなのですが、”私”は今生きています。
動くから自分が見える。動詞。
講座の中で、クレヨンをもって、画用紙になにか線を描いてみるとき、それはその人の中でなにかが動き始めた時なのです。
とにかく揺さぶって、動かしてみないと自分がそこにいるのが分からない。
動いた時みえてくるものは、その肌ざわりする外と当時に”私”。
こういうことがすっと自分の中に入ってきたのは、芸術療法の講義のおかげだったと思います。
おまけ
実家に咲いてた、トレニア。
こぼれ種を抜いても抜いても生えてくるから、放置してたらこうなった、ということらしいです。このナチュラル感がうらやましい。
この、日の当たるあたりにちょっとふれてみたくなりません?
あ、てっぺんの写真は、ギボウシの花。秋って案外白い花多い。
愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!