2002年、日本に検索連動型広告が誕生した日
私は社会人として現職で6社目の企業に勤めている。これまでに勤めた5社にはそれぞれ思い出がある。特に、私の成長と体験と変化ととして忘れられないのが2002年に入社した検索連動型広告を提供していたオーバーチュア株式会社だ。
2002年8月、私がパチスロ雑誌の編集を辞めて、オーバーチュア株式会社の面接を受けた。この時点で日本ではクリック課金型の検索連動型広告は存在していなかった。サーチワードバナーと呼ばれる純広告がインプレッション課金モデルとして高単価で販売されていた時代。
2019年度には6,700億円市場まで成長した、このお化け広告事業はこの後、産声を上げる。
面接を終え、約束の日までに不採用でも連絡するとのことだったが連絡は来なかった。約束違反だと思い、部長宛に結果の催促をしたところ、ほどなく採用連絡が来た。あとから聞いたら忙しくて連絡できてなかっただけだった。この時、催促しなかったら私の未来は全然違ったものになったかもしれない。
採用理由は「日本のレジャー・ギャンブルに詳しい編集経験メンバーがいなかったから」。幼少時代からギャンブルに染まり、ひとしきりのギャンブルに手を出すカスな趣味がここで生きた。どんなことでも続けていくといつか役に立つのだと心から思った。
2002年10月に34番目の社員として入社
ボーナスをもらうような会社に勤めたはここが初めてだった。神谷町、城山JTトラストタワー(現:城山トラストタワー)のオフィス。椅子は全てアーロンチェア(当時は知らずに座ってた)。外資も初めて。TOEIC420点なのに外資。部長はドイツ系のいかにもな欧米人。直属の上司もそこまでカタカナにしなくてもいいんじゃないか!と思うくらい、カタカナを多用する。社長含め全員ニックネームで呼び合う文化。部長が「ギャンブラー」と迷った末、
私のニックネームはウッチー(Utchy)になった。
このUtchyのスペリングは直属の上司が最初に書いたもの。この後、15年以上このスペルを使ってメールを送ることになる。
オフィスはワンフロア貸し切り。引っ越したばかりでまだスカスカ。CSは片手でおつりが来る人数。毎朝CSエリアから発声練習の声が聞こえた。営業も数名だ。バックオフィスは全部で2、3名。初代社長はShig(鈴木茂人社長)。歴史を作った本当に穏やかで敏腕な社長だった。
1か月待ちの提案書をひたすら作り続ける
インターネットの検索結果に広告出す、その掲載キーワードと掲載内容を書くのが仕事だ。あとはツールで大雑把な見積もりを作って提出する。
入社しておいてなんだが、この事業がどれだけすごい事業か始まる前だったので全然わからなかった。ただひたすらキーワードを考え、タイトル・説明文を書いて提案書を作っていた。
最初はタイトルが33文字以内、説明文が120文字以内で構成されていた。じっくり読み応えのあるボリュームからこのサービスは始まっている。1クリックあたりの最低入札価格は一律35円から。クオリティの評価はなく、単純に入札価格で掲載順位が決まる仕組みだった。
当時はBIGキーワードは全国展開している企業しか使えないだとか、組み合わせキーワードについては構成される単語すべてが合致していないと入札すらできない超厳格ルールで運用されていた。
某大手メーカーに対し、液晶テレビは「テレビ」なのでキーワード「液晶」は入札できません!とお断りして大揉めになったことを覚えている。
審査も全キーワードとタイトル・説明文の組み合わせで審査。「てにをは」レベルのミスでも審査はReject(非掲載)となった。
偏屈と呼んだほうがいいくらい質にこだわって事業を始めていた。
依頼はひっきりなしに来る。提案書は処理件数<依頼件数となりバックログが積みあがっていく。提案書の納品が増えるにつれ、入稿も増え、審査も1週間以上待たされる状況となった。ついに提案書納期が1か月以上となり、リリースに間に合わないクライアントが大量発生することが見えてきた。
それでも残業はしない。
今じゃ信じられない話だが、当時は編集経験を重んじてメンバー編成をしていたため、サラリーマン気質なメンバーはほとんどおらず、皆が自分の権利を主張していく。私もその一人だ。再三の残業要請もおためごかしの月1万円の昇給も刺さらず、ついに時間外の提案書作成は歩合制となった。
そうなったら話は別。提案書は取り合いになる。提案が簡単な不動産の提案書は大人気となった。就業時間中は提案の難しい工業製品の提案書を作り、時間外(休日)に提案の簡単な業種を作り歩合を稼ぎ出すという働き方が一般的となった。200件超だった提案バックログは2週間で無くなった。
審査のバックログも解消し、リリースに向けた準備は佳境を迎えた。
日本の検索連動型広告が始まった
アメリカでGoTo.com(オーバーチュアの前身)により検索連動型広告は産声を上げた。その後Googleが同様のサービス(AdWords)を開始する。両社は係争となり、結局このオーバーチュアの特許をGoogle社が自社株270万株と引き換えにライセンスして事業を継続。たった自社株270万株でGoogleは事業の大半の利益を稼ぎだす検索連動型広告を手に入れた。
日本では2002年9月にGoogleのAdWordsが先行リリースしていたがまだリリースしただけの状況だった。すでに当時のインターネットを席巻していたYahoo! JAPANがどの検索連動型広告を採用するか?その動向が注目されていた。
Yahoo! JAPANの選択はオーバーチュアとAdWordsを半分ずつランダムに出すというものだった。2002年12月に掲載を開始すると発表した。
その決定からほどなく、2002年11月20日、オーバーチュア株式会社誕生からちょうど1年のこの日、日本の検索広告の一翼を担うオーバーチュアの検索連動型広告はリリースされた。
リリース時の社長からのメール。当時の主要ポータルサイトのほとんどがオーバーチュアを採用した。
そこからほどなく2002年12月4日にYahoo! JAPANの掲載が始まり、この日がオーバーチュアの公式サービス開始日となった。日本の検索連動型広告が世に広く知られるようになった瞬間だった。
12月のオーバーチュアの売上は3,000万円だった。ここから日本の広告市場を席巻する検索連動型広告の物語がはじまった。
物語のそのあと
この後、米Overture社は2003年に米Yahoo.Incに買収され、そこから2008年に日本におけるビジネスライセンスがヤフー株式会社へ譲渡され、日本法人であるオーバーチュア株式会社は消滅した。
物語は18年経った今でも続いている。2019年度の検索連動型広告の市場規模は6,683億円となって未だ成長を続けている。
そんな中、日本における検索連動型広告の基本特許は2020年5月に権利満了となった。今ではだれでも検索連動型広告サービスが提供できるようになった。
入札者を集めたもの勝ちなオークションモデルが別の事業者により再現されるのか?検索というインターネットの行動様式も刷新の真っ最中だ。
オーバーチュアから巣立ったみなさまとのつながり
また、オーバーチュア出身の社員は買収時に200名ほどいたと記憶しているが、多くのメンバーが新たなベンチャーを日本で立ち上げるべく奮闘したり、自身で起業されてたりと刺激をもらえている。
出身者の方が社長(CEO)またはカントリーマネージャー
Criteo、インテグラル・アド・サイエンス(IAS)、ソウルドアウト、サーチライフ、Zコーポレーション、アタラ、カヤックLiving、Liftoff、クラシファイド、merc Education
出身者の皆さんの勤務先(Facebookで確認できたもの)
ヤフー、Google、Facebook、Apple、パナソニック、スペースマーケット、損保ジャパン日本興亜、LINE、Twitter、Amazon、バリューコマース、マカフィー、楽天モバイル、Supership、Carat Japan、zonari、Zoho Japan、vpon JAPAN、LiveRamp Japan、Adgo Japan、ReachLocal、MKTインターナショナル、Amplified、フェーズワン、ELSA Speak、SpotX、PayPay
他にもたくさんの活躍している方々がいて、それが私の1番の財産だ。古い情報も入ってしまっているかもしれないが、本当にフットワーク軽く活躍されていて新たなチャレンジの報告がたくさん届く。未だ驚きの連続だ!
成功体験をするということがいかにキャリア形成に役立つかを証明している。
私たちのチャレンジは18年経った今でもまだ終わらない。
これが私が26歳の時から体験した成功体験だ。
皆さんの中にもそれぞれの軸で、私が到底体験し得ない成長の源泉となる成功体験をしているはず。その体験によりまた世の中は便利に、楽しく、過ごしやすくなっていく。
未来のために皆さんと成長を続けていけることを願って。
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