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ムーの洞窟

 言葉を持たない部族のふたりがジャングルにいる。その様子を叢の陰から蛇がじっと見ている。ふたりは双子であった。弟のほうは極度に背筋のひん曲がった華奢な体格で、体は傷だらけだった。憔悴しているように見えたが同時に、眼光鋭くなにか悟ったような知性が感じられた。兄のほうは、がっしりとした体つきの男でなにかに対して怒っているようだった。

ふたりはこれから進む方向についてお互いの腕を掴みながら押し問答をしているようだった。ふたりが揉みあっている間に蛇は音もなくゆっくり近づき、華奢な弟の足に噛みついた。突如として歪んだ弟の顔に気づいた兄は、蛇を見るととっさに掴み、投げ捨てて岩で殺した。ぐったりとした傷だらけの弟を腕に抱え、兄は「ムー」と叫んだ。ふたりは、目を合わせた。そして、息も絶え絶えの弟は、「ジャー」と弱々しく応えた。

その部族は全員で7人、女が3人で男が4人だった。厳しい自然のなかで7人ばかりの小さな集団が生き延びるために部族の間には、自然とできた男女の役割があった。女たちは矢尻を研いで狩りに備えたり、木の実を採集し、男たちは獲物を狩って持ち帰った。言葉のない部族だったが兄は弟を「ムー」と、弟は兄を「ジャー」と呼び合っていた。

ムーは、身体に障害を持っていて、独特な歩き方をした。狩りで成果を上げられないムーは、いつも仲間はずれにされていたが、ジャーが気にかけていたため、部族のなかでもなんとか生き延びることができた。

男たちが狩に行くとき、獲物をいちばんはじめに発見するのは、いつもムーだった。彼は、身体の弱い代わり記憶力に長け、鳥やイノシシ、蛇などの獲物の習性についてよく知っていた。ムーは、獲物を発見すると「ムー」と静かに吠えて、合図を出した。ムーが獲物を見つけ、他のメンバーがそれを仕留める、という具合に狩はなされていた。男たちは、安定して獲物を捕えることができた。

獲物を見つけるムーの功績は大きかったが、実際に狩りを行う残りのメンバーのほうが、より力があると見なされていた。ボスとナンバー・ツーは、ムーの分け前をいつも少なく見積もっていたし、部族のなかでそれはごく当然のことのように思われていた。狩りの実際を知らない女たちも、ムーの存在を軽んじていた。しかしジャーだけは、そのようには考えていなかった。彼は、できるだけムーにも分け前が渡るよう仕向けていた。そのため、ムーは部族のなかで生き延びることができたのだった。

満月の晩、皆がそれぞれの床で寝静まった頃、ボスが女のひとりと交尾を始めた。静かに交尾をしているふたりだったが、ムーはそのことを察知すると、気づかれないように起き出して叢へ身を隠した。彼は、ふたりが交尾をする光景を、息を殺して覗き見ながらマスターベーションを始めた。ついに射精をした瞬間、彼は足もとの小枝を踏み折って物音をたててしまい、覗き見ていたことをふたりに気づかれた。激昂したボスは、立ち尽くす彼に掴みかかり、馬乗りになって殴打した。ムーは、みるみる傷を負い、血だらけになった。暴力による制裁が止み、しばらくののちムーは、焚き火から一本の松明を取り出してその場から去った。ムーが行き着いた場所は洞窟だった。ムーが洞窟のなかで横たわっていると、傷から流れた血が岩に滴りおちた。岩の表面を血が流れていくさまを見ながら、ムーはなにかを思いついた。

翌朝、ジャーはムーが寝床にいないことに気づいた。事情を知っていたボスは、そのことにはなんら構いもしなかった。そうして3人だけで狩りへ出かけた。ムーがかけた部族のメンバーではなかなか獲物を見つけることができなかった。試行錯誤を繰り返すうちに空は暗みだした。男たちはほとんど収穫を得られないまま、その日の狩りを諦めねばならなかった。いつもに較べてだいぶ見劣りする量の土産を手に、男たちはバツの悪そうに帰路へついた。ジャーは、とても悲しかった。獲物を見つけられなかった次の日の夕方、行方不明になったムーを探して、ジャーは松明を持って出かけた。

ジャーは、ムーを探して歩き回った。あくる日、ムーは洞窟のそばの川で水を飲んでいると、「ムー」と叫ぶジャーの声に気づく。ムーは、声のするほうに近寄った。ジャングルのなかで、ジャーはムーを見つけた。

ムーを部族のもとへ連れ帰ろうと、ジャーがムーの腕を引っ張るが、ムーはそれを拒む。その様子を、叢にいた蛇が見ていた。揉み合いをしている間に、蛇はふたりのすぐそばまで近づき、ムーの足に噛みついた。ジャーは、すぐさま蛇を掴み、投げ捨てて岩で殺した。ムーは、力なく膝をついた。ジャーは、ムーをなんとか立たせようと腕に抱き、「ムー」と叫んだ。ムーは、弱りながらも全身全霊の力で腕を持ちあげ、洞窟のある方向を指差した。そうして、そのまま死んでいった。ジャーは、泣き叫んだ。

ジャーは、弟の亡骸をきれいに横たえた。その後しばらくの時が過ぎ、気になってジャーは、洞窟のほうまで歩いていった。入り口に着くと、なにかを感じとったジャーであったが恐る恐る奥まで這入った。ジャーは、壁になにかが描いてあることに気づいた。ジャーは、洞窟を出ると一目散に部族のもとに戻り、皆を呼ぶために「ムー」と叫んだ。その声に反応したボスとナンバー・ツーは、ジャーについていった。洞窟の前に倒れているムーの亡骸のそばに集まった3人は、神妙な面持ちだった。そして、ジャーは、ボスとナンバー・ツーを促し、洞窟のなかへと這入っていった。壁には、さまざまな動物と、狩りをしている人間の姿が描かれていた。その画を見ていると、知らず知らずみんなの胸は高鳴った。人物のうちのひとりは、背が極度にひん曲がって描かれている。そのことに気づいたジャーは、その人物を指さして「ムー」と叫んだ。興奮しながら、ふたりはそれに賛同した。また、画のなかのジャーらしき人物を指差してジャーは、「ジャー」と叫んだ。初めてことばの意味を悟った男たちは、自分たちの呼び名を考えはじめた。

その晩、部族のなかで、さまざまな言葉が生まれた。そして、数日のうちに、獲物を狩るための作戦を練ることができるようにまでなっていった。言葉を持たなかった部族が、言葉を身につけるに至った瞬間である。


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