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短編小説 魁! らーめん百景☆

《イラストあっきコタロウさま》 








 時は令和、世は飽食の時代。
 永田町には鵺が住むとはよく言ったもので、身勝手な国会が新たに打ち出した摩訶不思議な法案『新国民健康保護法』は、衆議院で可決されるも、参議院で物議を醸しだしました。平行線の議論。提出議案の承認には時間を要し、業を煮やした『時の内閣』は、強行策をはかります。ある一定以上のコレステロール値を超えるメニューを提供する飲食店を取り締まる機関を、法も定めぬうちに、鶴の一声で設立したのです。
 通称『コレステロール警察』。表向きは町々に蔓延る肥満や成人病から住民を守る機関ですが、彼らは世のB級グルメ、特にラーメンを目の敵にし、数々の愛すべき名店に天誅を下していきました。これを令和グルメ維新と人々は呼びます。そんな横暴を許すまじかと立ち上がったのは、学生たちでした。
『人間はラーメンを食す自由の下、平等でなくてはならない』
 令和のカリスマ、ラーメン党代表である霧ヶ峰マドカ女史の、ラーメンデモクラシーを掲げたこの言葉をスローガンに、学生たちはデモ運動を起こし、町ではコレステロール警察と対立しました。それは次第にエスカレート、ついには武装蜂起を起こすまでになります。対立するラーメンデモクラシーとグルメ維新。ぶつかり合う思想と思想。血を血で洗う抗争に次ぐ抗争。
 それに終止符を打ったのは、中心人物である霧ヶ峰マドカ女史の突然の失踪でした。世のアベックたちが、あちこちで逢瀬を重ねるクリスマスの夜のこと、彼女は人知れず姿を消しました。その後、我ら学生たちは粛清され、武装解除を余儀無くされました。
 これはそんな祭の後の、蛇足に満ちた奇妙奇天烈三文芝居。お代は見てからで結構。さぁさぁ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。













 吐き出す白い息が、メランコリックな重たい雲の下で溶ける、師走のとある日のこと。ぼくは表通りに佇むラーメン屋さんの駐車場に車を停めます。
 助手席を降りた彼女の下駄は、からんころんと小粋な音を立ててアスファルトに着地。小さな身体をぶるると震わせ、ハイカラなマフラーを神経質に巻き直します。あまりに広い駐車場、それに反比例するような小さな店舗。軒先に並ぶは、長い長い行列。何故に駐車場がこんなに広いのに店舗は小さいのか。それはきっと行列を作る為の他ありません。行列無きラーメン屋さんなぞ、飾りの無いクリスマスツリーの様なものですゆえ。
「ほら、ヱン。ぐずぐずしてないで並ぶよー」
 北国生まれのくせに寒さに弱い彼女は、「さーぶさぶさぶ」と自らの身体を摩りながらちょこちょこ歩きます。彼女彼女などと言いますが、彼女はぼくの思ひ人……つまり恋人などではありません。それではお友達なのかと訊かれれば、答えはノーです。完全に間違いではありませんが、男女間の友情など眉唾な都市伝説であり、見返りを求めない友情など存在しないのです。それでは彼女は、一体ぼくの何を満たしてくれるのでしょうか。巷では体だけの関係をセックスフレンドなどと呼びますが、ぼくと彼女はラーメンだけの関係、差し詰めラーメンフレンドとでも呼びましょうか。大好きなラーメンとはいえ、ひとりで食べるのは味気ないものです。粘膜と粘膜で繋がるベタついたセフレなんていう、淫らで、まことけしからん関係と違いまして、ラフレとは、清く、正しく、美しく、つるりと喉越しの良い、とてもプラトニックな関係なのです。便宜上、彼女のことをラーメンさんとでも呼ぶことに致しましょうか。

 先の見えない行列を待つこと三十分、「へぷちっ」と何とも可愛らしいくしゃみをしたラーメンさんのお顔に、鼻水が垂れていたので、紳士たるぼくはハンカチで拭いてあげます。
「自分でできるから、子供扱いしないで」
「はいはい、ラーメンさんは大人でちゅよー」
「覚えとけよ。あとで絶対殴るからなー」
 あとで殴ると言いながら、バシバシぼくの二の腕を叩くラーメンさんの頭をわしわしと撫で、「ほら、他のお客さんにご迷惑ですよ」と諭します。一度はそれで落ち着いたラーメンさん。黙っていれば可憐な乙女。されど花の命は短きもので、短気な彼女はその行列のあまりにもの長さに、次第にイライラし出してまして、ぼくとのなんとも仲睦まじい小競り合いは第二ラウンドのゴングを鳴らします。そして第三ラウンドに差し掛かる頃、ようやく狭い店内のカウンター席に通されました。危ない。危うく泣かしてしまうところでした。半ベソのラーメンさんは無言でカウンター席に座ります。
 店内に漂うは豚骨の良い香り。遠路はるばる、半日掛けて本場の長浜ラーメンを食べに来た甲斐がありました。彼女は店員のお兄さんに「ラーメン、ハリガネふたつ」と通な注文をすると、お兄さんは麺を茹でている大将に、オーダーを大声で通します。元気の良い店です。
「ふむ、雰囲気はふたつ星」
 何やらブツブツ言いながら、自前のラーメン帳を取り出してカリカリと鉛筆でメモを取るラーメンさん。
「今日はただラーメンを食べに来たわけじゃないんですからね」
「わーってるって。でもこれも我らがラーメン党の重要な責務なんだからね」
 そう、我らラーメン党。北は青森、南は九州、日本全国津々浦々、様々なラーメンを食べ歩き日々旨いラーメンを探求する秘密結社。彼女はそれの二代目代表なのです。
 初代であるラーメン天女と呼ばれた霧ヶ峰さんが集めた、元はラーメン好きの集団であったのですが、その傾国の美女とも言うべき美貌とカリスマ性からか、行く先々で同志を集め、たった数年で一大帝国を築き上げ、ニッポン全土にラーメンデモクラシーの白い旗を掲げる組織になるまで躍進しました。
 それはさておき一分も待たずして、ぼくらの前にラーメンは運ばれてきました。極細麺は茹で時間が短いのです。茹で時間最小のハリガネともなれば尚のこと。長浜ラーメンの多くは、麺の硬さを選べます。ヤワメン、普通、カタメン、バリカタ、ハリガネの五段階です。ラーメン党としては、チャラいヤワメンなど選べる筈もありません。
 ずびずばー!
 雷鳴轟くかの如く、豪快に麺を啜るラーメンさん。
「ふむふむ、スープに黒マー油を浮かべて、コクを出してるわけね。モダンだねぇ」
「ラーメンさん。確かにコクは、十全ですが、肝心のスープの色が濁ってしまって、ぼくは好きにはなれません」
「いつも見た目気にするんだね。これだからメンズは。うん、まあいいよ。ヱンがそう言うなら、ここは一つ星ってことで折り合いをつけようね~」
 こうやって彼女はいつもぼくを理解してくれます。人に言えないような、ぼくのやましい秘密を知っても側にいてくれます。
 ぼくが腹八分で替え玉をしようか迷っている横で、ラーメンさんがレンゲをどんぶりに見立てて、ちっこいミニラーメンをそのレンゲの中で作って遊んでいる時です。街のどこかで『カーンカーンカーン』と警鐘が大音量で鳴り響き、店舗の……恐らく上空から剣呑なヘリの轟音、そして強い風が小さなオンボロ店を揺らします。店内はパニックに陥り、「噂は本当だったんだー。空襲だ逃げろ」と店内の客は三々五々、蜘蛛の子を散らし逃げ始めます。ぼくとラーメンさんが店舗の外へ出て空を仰げば、遥か上空より次々と小火器を携えた迷彩服の男たちが、螺旋を描きながら、パラシュートで降下して来ました。やつらです。宿敵コレステロール警察。降下し終わったその数、凡そ十。多勢に無勢。ヘリ風にラーメンさんの長い髪の毛が靡き、表情を見ればやはり緊張しているようです。
 その中心にはニヒルに腕を組む怪人が一人。学ラン羽織て、凛々しき学生帽を深めに被るは仮面の怪人也。学生帽は彼が長である証で、彼こそが憎きコレステロール警察の首領なのです。ぼくは丁寧に頭を下げます。
「お久しぶりです。ハンサム先輩」
 彼の名はハンサム。ぼくの大学の先輩です。そしてラーメン党開設時のメンバーの一人でもあります。
 当初、霧ヶ峰さんに、ラーメンさん、ハンサム先輩の三人で党は結成されました。なんのことはありません。普通にラーメンチェーン店でアルバイトをしていた三人です。ちなみにこの頃、ぼくもこのラーメン屋さんでバイトをしていたのですが、当時付き合っていた恋人に袖にされ、塞ぎ込み外に出れなかった時期です。
 仮面で素顔を隠した先輩は、親指と人差し指で学生帽を深く被り直し、嘲嗤うように鼻を鳴らしました。
「吾輩はそこのまことけしからんラーメン店に、天誅を下さねばならぬのだ」
「新国民健康保護法はまだ正式に成立されていないはずだ。こんなの違法だよ」
 ラーメンさんは、ぼくの肩越しにハンサム先輩に噛み付きます。
「過去に取り憑かれた亡霊どもめ。ラーメンの時代は終わったのだ。貴様らは原価百五十円のジャンクフードを客に六百五十円で売りつけるこれを、詐欺だとは思わぬのかね?」
 近頃、グルメマルクス主義の思想を掲げるコレステロール警察は、何かしらの理由を付けては、有名ラーメン店を潰して回っていました。
「ハンサム先輩は変わっちゃったね。昔はあんなにラーメン大好きだったのに」
 ラーメンさんは、銃を構える面々の前に一人ゆっくりと歩いていきます。
「もう直ぐ暴念会じゃないか。見逃してくれるなら、今年の暴念会にうちも出席するよ」
 それを訊いたハンサム先輩は大声を上げ、らしくもなく嗤いだします。
「面白い。いいだろう。一応貴様もラーメン党の代表なら、意味を解っているのだろうな。今年の議題は霧ヶ峰マドカが失踪したあの部屋で、それ以前から捲られていなかったカレンダーの理由だ。いいか? 必ず来いよ」
 そこまでクールに言うと、ハンサム先輩は「三三七びょーうし!」と声高らかに叫び、首に下げた笛をリズミカルに吹きます。すると彼の部下たちはそれに合わせ走り去っていきます。どうやら行きはヘリでも、帰りは走って帰るようです。なんとシュールな光景でしょうか。
 霧ヶ峰さんは一昨年の十二月二十四日から二十五日の間に失踪しました。ラーメンの過剰摂取により中毒死したと、巷ではまことしやかに噂されておりましたが、眉唾な噂話です。去年より霧ヶ峰さんが失踪した二十四日の夜から二十五日に掛けて、全国に散らばるラーメン党の傘下組織と政府が討論会を行うのが暴念会。血で血を洗うような恐ろしいイベントが開催されているそうです。





 一日掛かりの長旅、ラーメンさんを自宅に送り、下宿先にやっとの事でたどり着きます。コタツに入りミカンを剥きます。ラーメンさんにはとても言えませんが、ラーメン以外も食べたい今日この頃です。
 するとルルルと電話が鳴りました。先程、別れたラーメンさんです。ぼくはそれに応じます。
『へ、部屋に、ご、ゴキブリが出たんだよぉ~。ゴキブリは北海道にいないから苦手なんだよぉ。だめ。もうお家にいれない。お願い今日泊めて』
「えー、今帰ったばっかですよ。疲れたからいやです」
『無理。これは命令だよ。うちを匿いなさい。じゃ、今からいくからね』
 一方的に電話を切られ、やれやれと辺りを見渡しコロコロを手に持ちます。なんやかんや面倒と言いながら、掃除とかしだす自分が可愛いのです。
 まあ、それでラーメンさんが、ぼくの部屋に来ました。
「へぇー、モダンな部屋だねぇ。で? ヱンはこのベッドで、元カノとエッチなことしてたのかね」
 ラーメンさんは下駄を脱いだ筈なのに、土足でぼくの地雷に踏み込んできます。元カノと別れたその日にぼくは、引っ越したので、ここでは当然何もしていません。姫始めを終えないまま今年も終わろうとしています。ぼくの心は、びいどろよりも脆いので、そこには触れないで欲しいものです。
 元カノとは、昔のバイト先で知り合いました。ラーメンさんとも仲良しで、それだからぼくとラーメンさんは、男と女の関係にならないのです。
 そんな風な空気の読めないラーメンさんは、ぼくを茶化しながら、「うりうり」とコタツの中、癖の悪いアンヨで悪さをしてきます。セクハラです。
「もう怒りました」
 ぼくはそれだけ言うと、ラーメンさんのアンヨを手に持ち足の裏をコショコショとくすぐりました。
「ああぁぁぁ、やめて! うちが悪かったからお願い」
 なんだか楽しくなってしまい、調子に乗ったぼくは、足の裏だけでは飽き足らず、ふくらはぎ、太もも、脇腹、脇の下と、ぼくの手は止まることを知りません。
 そして気がつけば……ふたりの体は重なって、ラーメンさんのハイカラな服は肌蹴て、なんだか押し倒した形になっていました。
 目があった時、ラーメンさんは涙を流し、頬は赤く、そして今まさに観念したかの如く目を閉じました。
 えっ? ちょっと待って。ナニコレ。何、目瞑っちゃってるの?
 ぼくは咳払いを一つ、座り直します。ぼくらは、ラフレでありそんな関係になってはいけないのです。
「チキンラーメンでも食べますか?」
 ラーメンさんは頷きました。いやー、また泣かしてしまいましたね。
 この時、片方くらいならをっぱいを触っても、バチは当たらないのでは、という後悔が押し寄せたのは内緒の話です。





 いよいよ暴念会当日。
 駅前ビルヂングの斜向かいにある教会の鐘がリンゴーンリンゴーンと鳴り響き、十二月二十四日、クリスマスイブの夕方五時、聖夜をお知らせする天使の時刻。町々はひとつまたひとつとイルミネーションで彩られていきます。
 鐘の音と同時に駅の改札から、ジェラルミンケースを持った黒服の男たちが街に押し寄せます。道路は、これまた黒塗りのベンツS六〇〇が渋滞を作り出し、街を封鎖します。
 ぼくとラーメンさんは駅前でノンビリと中華そばをずびずばーっと啜っていました。
「ごめんね。ヱンは一度ラーメン党を脱退した筈なのにね」
「水臭いなあ。去年のクリスマスもこうして一緒にラーメン食べましたね」
 今や傘下組織を除くラーメン党の構成員は、出戻りのぼくとラーメンさんを残すのみです。
 霧ヶ峰さんの失踪を切っ掛けにぼくは脱退し、令和グルメ界のレーニンであるハンサム先輩は、グルメマルクス主義の思想を抱くようになり、ラーメン店を潰して回りました。ぼくも、そしてぼくと同じようにハンサム先輩も、自分なりに霧ヶ峰さんの失踪を受け入れられなかったのだと思います。
 残ったメンバーたちも、あるものは、ハンサム先輩を追い、またある者は霧ヶ峰さん無きラーメン党を離れていき、ラーメンさんはたったひとりになりました。
 ハンサム先輩は、全てのラーメンをこの世から排除し、霧ヶ峰さんを忘れようとしました。それを彼女は、小さな小さな体で、守ってきたのです。
 さてさて今日は暴念会当日、感傷に浸っている暇はありません。暴念会とは、政府と反政府組織が、丁々発止の弁論をぶつけ合う討論会ならぬ闘論会。
 焼き鳥派、回転寿司派、たこ焼き派、インドカレー派、多種多様な組織が政府に取り入り、ラーメンさんの後釜であるB級グルメ界の頂点を狙っています。

 会場に一歩踏み込めばそこは、裏社会の魑魅魍魎渦巻く闇の世界でした。
 政界から、指定暴力団から、大手企業から、芸能界から、国内外の著名人たちが内面に持ちうるどす黒いオーラを隠しもせず闊歩してます。
 からんころんと下駄を小粋に鳴らし、ぼくらは地獄の玄関口に足を踏み入れます。
 食前酒として配られるシャンパンを持ったまま、真っ赤な絨毯を、ぼくは姫君たるラーメンさんの手を引いて、颯爽とど真ん中を歩き、会場がざわめきます。
「メリークリスマス。ラーメン党の党首殿」
 挨拶に来たハンサム先輩。先ほどのシャンパンをトレードマークの学生帽にぶっ掛けてやりました。
 ハンサム先輩の目つきが変わり、これにて詭弁と詭弁が激しくぶつかり合う演目が今始まります。暴念会史上最低最悪の演目、ポロリの儀。
 本来なら暴念会の表向きな流れはこうです。まず前菜としてたこ焼きなどのB級グルメ、寿司などの高級料理、そこに酒が振る舞われ焼き鳥派が出す焼き鳥、最後に〆のラーメンで終わります。コレステロール警察たちはそのコレステロール、脂質、糖質などの数値を測って行くのです。
 しかし汚職渦巻く暴念会、裏の目的は化かしあいであり、騙し合いであり、その最大の目玉ポロリの儀。秘密をポロリするポロリの儀です。
「そうか。貴様が党首の代わりに、そこに立つか」
 舞台の上に置かれたテーブルの上に、ぼくとハンサム先輩の名が三面ずつ刻印された、六面のダイスが置かれます。名前が出た方が質問をする単純明快なルールです。まずぼくが賽を振り、ハンサム先輩の目が出ました。
「ふん、まず吾輩か。そうだな、捲られないカレンダーについては考察してきたか?」
「イエス。と、言うか初めから答えを知っています」
「そうか。言え! 答えろ」
「賽で先輩の目が、また出たらお答えします」
 次に振るはハンサム先輩。出た目はぼく。
「本当に……霧ヶ峰さんのことを愛してい
たのですか?」
 そう、ハンサム先輩は霧ヶ峰さんのことが大好きでした。
「愛していたさ。何よりもな。霧ヶ峰マドカが失踪してから彼女の住所に行ったが、カレンダーはその遥か昔から捲られていなかった」
 続いて振る賽には、目の前の怪人の名が刻まれていました。
「霧ヶ峰さんは……ぼくの元カノにそっくりなんです。カレンダーが捲られていなかった本当の理由を今お見せしますね」
 ぼくが合図すると、セコンドに立つラーメンさんは、大きな鞄をぼくに渡します。バッグから取り出すは女性化粧品。ハンサム先輩は言葉を失います。ビューラーで上げたまつ毛をマスカラで羽ばたかせ、頬にチークで紅を足し、麗しい黒髪のウィッグを翻し、最後に真っ赤なルージュに口づけを。ぼくは差し詰めラーメンジェンヌを気取り








 ……あたしに成り代わった。





 厚着してきた上着とズボンを脱げば、真っ赤なサンタを意識したチャイナドレス。ヱンのやつあたしの好みをよく理解しているじゃないの。
「あら、ハンサム先輩。久しぶりね。あたしに会いたかったんでしょ? 愛してる? 笑っちゃうわ」
 そう、あのカレンダーのある住所にあたしは、そもそも住んでいない。だから捲られる筈もない。解約も出来ず、住所変更もしていない。
 霧ヶ峰 ヱンの元カノは、二周りも歳の離れた医者の先生に貰われていき、部屋を去った。そしてその時のヱンの深い絶望が模造品とも言うべきこのあたし、霧ヶ峰 マドカを生み出した。
 ヱンは引っ越したので、元カノと暮らしていた住所には、何年も前から誰も住んでいないのだ。そう、あたし霧ヶ峰マドカは、霧ヶ峰ヱンの精神疾患……否、女装癖なのだ。
「……嘘だ。嘘だ。霧ヶ峰マドカがヱンと同一人物な筈ない。何かの間違いだ」
「ヱンって、夜な夜な女装して街に繰り出す危ない男だよね」
 そして、そんな変態を、そこにいるラーメンちゃんは、少しずつ癒していった。
 あたしは消えたくなかった。でも未来を想像してしまったヱンの中から、少しずつ少しずつ消えていった。
「ハンサム先輩。決闘でもする?」
「……受けて立とう。誰か吾輩のレイピアを」
 あたしとハンサム先輩に一本ずつ渡された長剣。
 剣戟を合図に戦いの幕が開ける。あたしは蝶の様に舞い、蜂蜜の様に甘く囁き、大蛇の如く噛み砕く。真一文字に切っ裂く剣線に、ハンサム先輩の仮面が割れ、彼の素顔が泣いていることに気づく。先輩が小さな声で「……マドカさん。まじっぱねぇっす。サイコーっす」と昔みたいな喋り方をするものだから、あたしの中にノスタルジーが駆け巡る。かと言って、容赦はしないのだけれども。
 それはもう熟練したラーメン屋さんのような華麗さで、ちゃっちゃっちゃっと手際よくハンサム先輩を料理する。ハンサム先輩を生かさず殺さず、己の恨みつらみを清算していく。何故あの日、あの時、ヱンはあたしの、アカシジアで震える手を、握りしめてくれなかったのであろうか。そんなことばかり考えていた。走馬灯とはよく言ったものだ。もう時間がない。
「もう止めて。お願いマドカ。ラーメン党の代表の椅子なんていらないからお願い。ヱンに人殺しをさせないで」
 ハンサム先輩の命を救ったのは、親友のラーメンちゃんだった。彼女とあたしとヱンの元カノの、ヱンを巡る、歪な四角によく似た三角関係。
「うちは一体何を後生大事に守ってきたんだろ。うちはマドカのことなんて大嫌い。こんなものいらない。ただヱンとラーメンを食べていたいだけ」
 応援なんてしたくはない。ヱンはあたしの物なのだ。なのにあたしは、不覚にもふたりの未来を観てみたいと思ってしまったのが、一昨年のクリスマス。あの日あたしは消えることを願ってしまった。
 ラーメンちゃんは本当にいつも泣き虫でずるい。さよなら三角、また来て四角。ヱンは心の弱い人間だから、どうか宜しくお願いします。








 いやー、色男は困りものですよね。意識を霧ヶ峰マドカさんに乗っ取られているにも関わらず、モテちゃいました。






 結論から言えばラーメン党は解散。ぼくら二人は組織を縮小、名称をラーメン浪漫倶楽部に改めることで、政府と折り合いを付けました。
 さてさて、ひとつ困ったことがあります。あっさりとハンサム先輩をやっつけたものですから、時間が余りました。残念ながら、クリスマスにいちゃいちゃするような恋人はおらず、持て余してしまいます。そんな日は、お酒を飲むに限ります。
 ラーメンさんと一緒にお酒を飲んで〆にラーメン。これが鉄板コースじゃないでしょうか。しかし、なんだか今夜は高ぶってしまって、もしかしてお酒を飲み過ぎてしまうかもしれません。お酒を飲み過ぎ、記憶を無くし、〆にラーメン屋ではなく、ラブホテルにいたら、本当にすいません。いやー、プラトニックなラフレでも、記憶を無くしちゃ仕方ないじゃーありませんか。ではでは、これにて。








 後日談。
 ぼくはやっぱり案の定、記憶を無くす程、飲みに飲んで、ふと気づいたら……海の上、揺れる船に乗っていました。
「えっと、すいません、飲み過ぎて記憶なくしちゃって。ここはどこですか?」
「見てわかんないの? 海の上だよ。フェリー乗ったの覚えてないの?」
「え? なんで?」
「〆に本場のサッポロラーメンが食べたいって自分で言ったんじゃん」
 どうやら根っからのラーメン好きが災いしたようです。
「えへへ、北海道案内してあげるよ」
 ああ、そう言えばラーメンさん道産子でしたね。ぼくの中では死に設定ですが。
「ついでにさ……」
 何やらもじもじとラーメンさん。
「なんですか?」
「パパとママにも会っていってね」
 成る程、どうやらそういうことのようです。
 不満ばっかりな顔を上げればメランコリックな雲は去り、空はあっぱれなニッポン晴れでした。
 霧ヶ峰さん、あの日、その手を握れなくて本当にごめんなさい。貴女によく似た元カノのことを、ぼくは今でも許せなくて、明日からも当分許せそうになくて、眠れぬ夜もあるし、思い出して泣く夜もあるし、大変女々しい男なのです。それでもいつしか許せる日が来るのならば、カウンター席で隣に肩を並べるラーメンさんと、正面から向き合ってみようかと思います。
 そんなことをぼんやり思い浮かべるぼくの隣で、ラーメンさんは「カーッカッカ」とハイカラに笑うのでした。
 来年も再来年もその先もずっと、クリスマス、一緒にラーメン食べましょうね。