僕と彼女と彼女 時雨


僕と彼女の朝食はわりと質素だと思う。
粗食を選んでいるとか、貧乏だからというわけではない。
2人とも、起きてからテキパキ動けるようになるまで時間がかかるから、早めに起きてもたくさん食べられないのだ。
白いご飯を茶碗に半分と味噌汁と漬け物と玉子焼き。
低いテーブルの前にクッションを敷いて向かい合って食べる。
テレビが点いていたり、いなかったり。



僕は25歳で彼女は23歳。
付き合って4年で同棲してから3年。
結婚しようかなんていう話が出ないのは僕も彼女もそういった形式的なものに特別こだわりがないからだ。
「ウェンディングドレス着たい?」
いつか僕が聞いた疑問に彼女は
「そのお金を使って旅行して、美味しいものが食べたい。」
たしかいつかの朝食時の会話。
アイドルの熱愛報道なんてどうでもいいニュースを今にも眠ってしまいそうな目で流し見ながら答えられたから、「本当はウェンディングドレス着たいのかな」なんて思った。
けれど仕事から帰った彼女のカバンは、旅行パンフレットで夏休み前の小学生のランドセルくらいパツパツになっていた。
カバンをひっくり返す彼女の目は、朝とは打って変わって星が降るほどキラキラと輝いている。
夜は旅行の話をして寝るのだ。



次の日の朝も、彼女は相変わらず開ききっていない目で納豆を一生懸命に混ぜている。
右肩あたりの髪の毛があらゆる方向に跳ねているけれど、お手本のように綺麗なお箸の持ち方と凛とした鼻筋が彼女の綺麗さを損なわないでいる。
「寝癖がついてるよ。」
「ん、あとで直す。」
箸を置き、僕が指差した先を2回ほど撫でたけれどすぐに箸を持ち出した。
僕は彼女が好きだ。
努力家で真っ直ぐでしっかり者で、それでいて時々リセットするように全力で子供になる彼女が好きだ。
たまに怒りっぽくなるし、朝はなかなか起きないけれど、その程度で嫌いになんてならないくらい。
「ちゃんと起きないと納豆こぼしちゃうよ。」
僕の言葉ではっとした彼女は、寝かけていた頭を再び起こし、納豆を混ぜている手に力を入れた。
彼女は小さい頃から納豆を毎朝食べていたらしく、毎朝納豆を食べないと気が済まないらしい。
どんどん泡立っていく納豆に比例して、納豆特有の臭いが鼻にのっそりと入ってくるような重苦しい不快な臭いが僕の鼻孔に触れる。
その臭いを打ち消すように、僕は目の前にある奈良漬けをふた切れ口に入れた。
酒粕の匂いが鼻の内側から納豆の悪臭を押し出す。
安心して豆腐の入った味噌汁に口をつけた。
彼女は奈良漬けが嫌いだ。
酒粕の独特の匂いが嫌らしい。
食べると気持ち悪くなってしまうと言っていた。
そして僕は納豆が嫌いだ。
臭くて食べづらくて見た目もあまり綺麗じゃない。
何度か克服しようと頑張ったけれど、やはり、嫌いなものは嫌いだ。
それでも僕はスーパーに行くと決まって納豆を買った。
3パックのやつ。
毎朝彼女が食べるから。
うちの冷蔵庫には、3段目の右奥に常にストックされている。
取りにくい場所に置いているのは僕なりの小さい抵抗。


「ごちそうさま。じゃあ今日は会議があるからもう行くね。」
「うん。行ってらっしゃい。」
いつもは僕の方が先に家から出るのだが珍しいな。



普段は僕が先に帰るのだが今日は彼女の方が先に帰っていた。


「ただいま。」
リビングに行くと彼女が料理をしていた。
新鮮でいいな。
彼女は僕が帰ってきたのを気づいていない様子だ。
「おーい。ただいま。」
彼女は1人でぶつぶつと呟いていて返事がない。
彼女の名前を呼ぶとはっとしてこちらを振り返った。
「あ、そうか。私はこの人の彼女だった。」
そう聞こえた気がした。
「何言ってんだ?大丈夫か?」
「どうしたの?いつもと変わらないじゃん。」
そう彼女が言ったから気のせいかと思うことにした。



2人でご飯を食べ、順番にお風呂に入る。
いつもと同じだ。
彼女がお風呂に入っている間、テレビに目をやると養蜂場のニュースがやっていた。
蜂と花を管理することで採ることができる蜂蜜。
道端で遭遇すると驚く蜜蜂も、花と一緒に映っていると可愛く見えた。
蜂と花と管理者。
花と蜂の関係に手を触れて恩恵にあやかる僕らは、彼らに何かを返すことが出来ているのだろうかとどうでもいいことを考えていた。


「お風呂から上がりました。」
濡れた髪のままで僕のとこへ来た。
お風呂に入った後、彼女はいつもお母さんから送られてくる梅干しを食べるのを日課にしている。
彼女のお母さんはたまに自分で漬けた梅干しを送ってくれる。
彼女はその梅干しが好きで、まるで見て分かっているかように無くなりそうな頃合いになるとまた送られてくる。
僕は梅干しが嫌いだった。
自己主張の激しい真っ赤な色をしているのに、食感は稀薄で頼りない。
すぐに噛み切れてしまうくらい軟弱なのに、舌に触れた途端、攻撃的だと思うくらい酸味が暴れ出す。
よく分からないこの感じが好きになれなかった。
けれど、彼女の目を窄めた酸っぱい顔を見ているとなんだか食べたくなって、気が付いたら嫌いじゃなくなっていた。
彼女のこの顔を見るのが結構好きだ。



だがこの日から朝に納豆を食べることも、夜に梅干しを食べることもなくなった。
始めの頃はそんな気分の時もあるのだろうとあまり気にしていなかったが、あんなにこだわっていたのにと気になり始めたから試しに聞いてみた。
「最近納豆も梅干しも食べてないけどどうしたの?」
「そっか。いつも食べてるもんね。また食べ始めるよ。」
「食べて欲しいから言ってるとかじゃないよ?気になっただけだから。」
「ううん。いつも食べてたから。」
なんだか彼女の様子がおかしい。
まるで別人の人生を生きているように見えた。
一体彼女に何があったんだろう。
そもそも本当に彼女なのかとも疑い始めた。
外見も、声も、喋り方も彼女そのものだが、様子がおかしすぎる。
中身が入れ替わったとか?
いやいや、ドラマや映画じゃあるまいし。
そんなの有り得ない、いや、有り得ないと思いたい。



この日の夜、僕は彼女とドラマを観た。
彼女の大嫌いな奈良漬けをテーブルに置いて。
僕が奈良漬けをぽりぽりと食べていると、彼女はどうすればいいのか分からない様子ソワソワとしていた。
僕は罠を仕掛けることにした。
これに引っかからなかったら彼女は彼女だ。
でももし引っかかったら彼女は誰なんだ?
大丈夫、ただの僕の勘違いだと自分に言い聞かせて早まる鼓動を抑えた。
僕は勇気を出して彼女に言った。
「君も食べなよ。奈良漬け好きでしょ?」
そういうと彼女はぽりぽりと奈良漬けを食べ始めた。
だって彼女は奈良漬けが大嫌いなはずだ。
どういうことだ?
僕の目の前にいる人は彼女じゃない。
急に怖くなった。
一体誰なんだ?
僕が愛している彼女はどこに行った?
必死に考えている僕に
「せっかくだからお酒でも飲む?」
そう偽物の彼女が聞いてくる。
僕は結構お酒が好きだ。
だけど彼女はあまり好きではないから家では飲まないようにしていた。
やはりおかしい。
偽物の彼女は僕の返事を待たないで赤ワインを持ってきた。
グラスにワインを注いで乾杯して飲んだ。
やっぱりワインは美味しいな。
2人でひと瓶の赤ワインを飲み干してしまった。
飲んでいる間、僕は目の前の彼女そっくりの人に思い切って聞くことにした。
「「あんた、誰だ?」」
目の前の偽物の彼女と声が被った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?