神憑るとは

先日より、Facebookの方で自著「小説咲夜姫」に関するグループを催していただき、そちらでは自分も作品の解釈や解説など時折書いています。

そこで最近思い当たったカミガカリ(神憑り・神懸り)について少し書きます。


小説咲夜姫では、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の化身である咲代さんに、何でもない竹取男の甚六さんが出会い、物語が展開します。

簡略すると「甚六さんが出世をし、出世したことで咲代さんの正体が明かされ、帰って行くことになる」のですが、この彼の出世が神憑りによるものです。

神憑るという言葉は、まるで神に憑いてもらったかのように物事が好転するという意味で、今でも使われますね。

そもそも「神と出逢うと人は出世する」といわれ、宗教を信じる人の心の起源ともいえます。神仏を護持することで人間は力をつけるのです。

竹取物語には様々な説が解釈され、中に「致富長者説話(ちふちょうじゃせつわ)」という解釈があります。これも神憑りのことで、かぐや姫と出逢った竹取の翁は瞬く間に富豪となり、出世しています。

この致富長者説話は、竹取物語を原作とする小説咲夜姫でも用いてあります。咲代さんと出逢うことで、竹取の甚六さんは出世するのです。

本文にもその神憑りが起こしたと思われる行動や心理描写などを書き残しているので、いくつか引用します。本書をお持ちの方は参考に。

 甚六は、顔を今は出した富士山を見て、山の気まぐれを考えてはいたが、そのうち今朝の不吉が脳裏を過ってまたぞっとした。ぼろを急いで搾ると、修験者に挨拶をしてさっさと引き返そうとしたのだが、
「あっ」
 と思いついたように足を止めると、
「もし神社などで竹の品が必要になったら声をかけて下さい。仕事はできますので」
 修験者へ売り込みなどした。向こうは一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑を浮かべて、わかりました、と応えた。
 甚六はそんな自分が自分でないように思えて、
(何を急に頼もしいことを口走ったのだ、俺は)
 と、不思議な気になった。

     (小説咲夜姫19~20ページ)

「タケノハナの章」の序盤、竹林で竹の花を見つけた甚六さんが慌てて街に帰ってきた後の場面です。

竹細工の仕事でうだつの上がらなかった甚六さんですが、神憑りによってすでに性格が変わり始めているのがわかります。以前までの彼であれば、通りすがりの相手に自分を売り込むことなどしませんでした。

またこの時点では甚六さんは咲代さんに出逢っていませんが、すでに彼女は降臨し、甚六さんの家の中にいます。その証拠となる文も、実はこの少し前にあるのです。

 外へ出ると、少し乾いて落ち着いた身体に今度は寒風が堪(こた)えた。車に敷き詰めてあった褞袍(どてら)を手に取ると、ばたばたと叩いて着込んだ。濡れたぼろを濯ごうと、すぐ近くの井戸まで行こうとして、ふと無意識に振り返った。
 玄関戸が閉じきっていない。その隙間からぴゅうぴゅうと風の音がする。甚六は不思議に思って隙間の前に手をやった。すると中から風が吹いている。風は冷たくも暖かくもない。はて、勝手口でも開け放してあったかと考えるが、確かめるのも面倒臭い。甚六は戸をぴしゃりと閉じた。

     (小説咲夜姫16~17ページ)

この時、甚六さんは屋内から不自然な風が通り抜けていることに気付きますが、調べるまではしません。すでに中には咲代さんが降臨していて、その余波として風が残っているのです。

そうして神の化身と暮らすことになった甚六さんは、瞬く間に出世するのですが、そのせいで咲代さんの正体までが知られることとなります。それが第三章にあたる「サクヤタケの章」の内容です。

その章の最後、咲代さんが自分を神の化身だと明かした瞬間から、甚六さんは自分が神憑りによって今まで生かされていたのだと気付きます。

 甚六はいつしか目を伏せ、咲代の涙声をただ聞いていた。不思議なことに話を出まかせと疑う心は微塵もなく、どうして咲代を取り巻く事々が常識に囚われずにあったのか、今思い当たった。
(これで何もかもの辻褄が、合ったのではないか)
 甚六は自分の人生を顧みた。特別なことなど一切になく、平凡でつまらない生涯を送るはずだった。咲代が現れるまでは。

     (小説咲夜姫221ページ)

甚六さんは自身の出世のことを、一度たりとも自分の努力の成果だとは思いませんでした。だからずっと境遇に甘んじることはなく、その謙虚さが余計に咲代さんの心を魅了したのです。

 以前と似ても似つかぬ町並みの一角に、今一人腰掛けて佇む自分に懐かしさを覚えた。幼少期を過ぎて独り暮らした頃は不安のない、安泰の日々だった。浅はかではあったが、この程度だと人生を開き直っては、毅然と暮らしていた。
 時の流れを生きる人とは、いくつもの顔を持つ像のようなものだなと、甚六はしみじみと感じた。あの孤独の男が自分の中でなお息づいているのだ。

     (小説咲夜姫304~305ページ)

この場面は、剃髪を望む咲代さんのため、甚六さんが町へ一人でハサミを買いに出たところです。すでに宝永大地震の後で、開いている店が見つからず、呆然と自分のことを考えます。


神憑りは、現代にも確かにあります。別に超能力や超常現象ではなく、精神的なものです。

神憑りの力を手にした後、その人が傲慢になるか謙虚になるかはその人次第といわれます。ただどちらが人としてふさわしいかは、考えるまでもありません。

サムネは、イラストレーターの「みけ*るーちぇ」さん提供の画像を借りました。