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コロナ禍下、いくつか考えたこと②:プロレスのこと。

「映画を楽しむってどういうことだろう、どうしたら映画の話を面白くすることができるんだろう。」っていう問いに対して答えをくれるのはプロレスである。という仮説が確信になりつつ、『新日本プロレスワールド』というプロレス動画配信サービスでほぼ毎日プロレスを観てる。

「映画を観るようにプロレスを楽しんで、プロレスを語るように映画を話すこと」

これができたら“無敵”だなと思う。“最強”とは違う。最強はあんまり面白くないんだ。

かつてプロレスを「星座」に例えた人がいた。

星のひとつひとつは「点」だ。その点を「線」で結び、動物や道具や神の「カタチ」を見出し、「物語」を紡ぐ。

プロレスの試合もひとつひとつを「点」として、それはレスラーの挫折や成長の「線」となり、チームや団体の分裂や抗争、合流というドラマが「形」作られ、その歴史が「物語」られる。

「プロレスって、ガチなの?八百長なの??」

という問いに対して、

「プロレスはガチだ。」と断言する人も、「プロレスは八百長だ。」と言い切る人も、あまりいない。

なぜならプロレスは、「答え」ではなく「問いそのもの」だからだ。

これに対して格闘技には「答え」しかない。AとBが闘って、Aが勝った。だからAは最強である。強い方が勝ち、勝ったから強いのだ。そこには「答え」しか、ない。

プロレスとは何か?存在のそもそもが「問い」であり、観客ひとりひとりが考え、解釈し、答えを出し、それを共有したり議論したりする。

格闘技の答えは選手が出すけど、プロレスの答えは観客が出す。

それがとても、「映画の話をする面白さ」に似ている気がするんだ。


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