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「人間ではない他者」に語る実験に参加する ーチェルフィッチュ『消しゴム山』の感想

「子どもに向けて難しいことをわかりやすく説明をした本は、実は大人がよく読む」という話を聞くし、実際にわかりやすい。『14歳からの社会学』とか『子どものための哲学』など、わかりやすい言葉で丁寧なことが書かれている。

このとき、ぼくたちはこれらの本の想定された読者ではない。いや、もしかしたら子ども向けと見せかけてぼくたち大人を読者として想定しているのかもしれない。

いずれにせよ、著者が子どもにむけて語る言葉を読んで、大人のほうが「いいこと言うなぁ」とか「なるほどそういうことか」とか「自分にとっても大事な問題だよなぁ」とか考えてしまうことは少なからずある。

ぼくにとって、演劇カンパニー「チェルフィッチュ」の新作『消しゴム山』はこの体験に似ていた。ただし、似て非なるものではある。

どういうことか。

消しゴム山とは

『消しゴム山』は、チェルフィッチュが美術家の金氏徹平氏を「セノグラフィー(舞台美術と演出のあいだのような役割)」に迎え、共同制作した演劇作品である。演劇フェスティバルKYOTO EXPERIMENTのなかで、ロームシアター京都サウスホールという場所で10月5日(土)6日(日)の2日間、世界初上演が行われた。

この作品のコンセプトは、さまざまなインタビュー記事で「物に向けた演劇」「目の前の観客に向けていない演劇」「今ここではないものに向けた演劇」といった語られ方がされている。

ことの発端は、2年前に劇作家・演出家の岡田利規が陸前高田の工事を見たとき、人間中心の環境を目の当たりにし、人間に向けていない演劇を作りたいと考えたことだそうだ。

12mの盛り土のうえにまた新しい街が作られる。その大量の土は、近くの山を削って持ってきた土だと言う。ものの数年で山を1つ消してしまうことを、その速さで、人間がそんなことやっていいことなのか?と懐疑したと言う。

そのことから、今を生きる人間以外の「物」に向けた演劇をつくることを決めたそうだ。

人間ではない他者への語り/身振り

『消しゴム山』は、人間に向けた上演ではない。

舞台上で俳優たちは、ときおり上を向いて、上にいる誰かに語りかけるようにセリフを語る。

たとえば、洗濯機の構造について異様に細かく語ったり、「時間」というものの概念について、「時間」と言う言葉を知らない相手に向けてレクチャーするように語ったりする。

このような仕方で、人間が想像も及ばないような遥か未来/過去にも存在しうるような「物」にむけて、彼らに何か「人間」や「時間」というものを想像させるような演劇を行っていた。

ぼくたち観客は、俳優と「物」の演劇的対話を観ている。俳優は「物」に向かってセリフを語る。語るだけでなく身振りを通して働きかかける。物を動かしたり、物で体を覆ったりする。

しかし、「え?ちょっとまってなんの話ししてるのそれ?」というような言葉が目まぐるしく出てきて、それでいて、舞台上に大量に置かれた物が、「見立て」でも「装置」でもないような仕方で使われる。そんなかんじのものを見ているので、人間の観客であるぼくは舞台上で何が起こっているのかよくわからず、困惑する。

だが、次第に、舞台上でおきていることのルールがわかってくる。つまり、これはさきほどの「大人が子ども向けに語っている言葉を横で聞く」というような体験に似ているのだ、と言う感覚が生じてくる。

「人間ではない他者」に向けた言葉を聞く/身振りをみる

『消しゴム山』では、俳優は人間に向けて演劇をしていないことになっている。目の前にいる観客というよりは遠い未来/過去にいる人間に、人間というよりは物に向けて演劇をしていることになっている。

俳優は物に向けて人間を説明している。その説明を聞きながら、人間についてあらためて考え直すように聞いてみる。

俳優は物に向けて動きをながけていく。そうして姿を変える物を見ながら、形や姿というものについてあらためて考え直すように見てみる。

時間や「未来移民(タイムスリップ)」について政治家風の人たちが馬鹿げたインテリ風な言い回しで議論をしているシーンがある。ここは、物が語っているのか、人が人に向けて語っているのか、人が物に向けて語っているのかがあいまいなシーンである。それの議論を聞きながら、ぼくたちがいかに現在に生きている人間中心に政治を行なっていて、現在に生きていない死者や未来の人、あるいは現在よりも遥かに長く存在するであろう物を政治から排除しているのかを想起する。

物と映像と人間を使って、似た形をつくる遊びを、静かに、儀礼的に執り行うシーンがある。物と人間とが形の類似性をもって対置される様をみながら、物と人間が対等な立場で戯れるように見える。

そうやってみていると、なんだかぼんやりと、ゆっくりと、自分がもっていた人間像とか「物」の像というものが揺らいできて、ズレてきて、新しい感じ方になんだか変わっていく感じが生まれる。

物に向けて語られているのだが、それを聞きながらかえってぼくたち人間が、人間のことや時間のこと、物との関わりのことを再考させられるのだ。

相手が変わると言葉が変わる。パラフレーズ的演劇

ここからまた発想が飛躍するのでさらにわかりづらくなるのだが恐れずに書くと、ぼくは『消しゴム山』をみながら、「パラフレーズ」という言葉を想起していた。

「パラフレーズ」とは「言い換え」の意味である。

たとえば納豆を知らない人に納豆のことを紹介しようとするとき、みなさんならどうするだろうか。

ぼくはきっと、まず「納豆とは、ネバネバしたものである」ということを説明する。その説明を言い換えて「ネバネバしているっていうのは、糸を引いて、その糸がなかなか取れないみたいな感じ」と説明を追加する。このときの2つ目の説明は、1つ目の説明をパラフレーズしている。

このパラフレーズがあることで、納豆がネバネバする、という言葉に、納豆は糸を引く、というイメージが加わるので、納豆への理解が深まる。意味合いとしては同じようなことを言っていたとしても、別の言い方をしているので、聞き手の中で2つのイメージが複合化して、より豊かな「納豆」の像ができあがっていく。

これは、説明する相手が変わると起こる事象である。納豆についてある程度知っている人に納豆のことを説明するときには、わざわざ糸を引くことなどつたえず「納豆ってネバネバしてるじゃん」で済む。ただ、納豆を全く知らない人に対してするときには、ネバネバが一体どんなものなのかを説明しなければならない。

さて、『消しゴム山』である。

この作品は、人ではない物に向けて上演されている。物は人間のことや、とりわけ人間が大事にしている「時間」のことをよく知らない。だから、人間や時間について、さまざまな言い方で表現を試みなければならない。

『消しゴム山』の戯曲は、人間に対しては行使されない言葉で「パラフレーズ」されたセリフが並んでいるように、ぼくは感じた。

パラフレーズの対象としての子どもたち

この「パラフレーズ」という言葉を想起したのにはもう一つ理由がある。それは、岡田利規さんがこの作品のコンセプトを子どもたちに説明する言葉を聞いたことだ。

ぼくは2回、岡田さんが子どもに向けて語るのを聞いている。1回目は、8月末にぼくも参加した「コネリングスタディ」での子どもたちとチェルフィッチュのワークショップだ。

このときは、3歳から9歳の子達に向けた説明だった。

「演劇において半分透明になる必要があってその方法を考えている。いろいろみえてきたのだが、ひとつ、タイムスリップについて考えて欲しい。タイムスリップというのは、昨日にいったり、明日に行ったりすることだ。今ここにいながら昨日に行ったり明日に行ったりすると、多分半分透明になれると思う。では、実験開始!」

と、ぼくの記憶のなかの言葉を書き起こすと岡田さんのそのときの言葉はこんなかんじだが、実際はもっと子どもたちのイメージをふくらませるような言葉を使っていた。その言い回しが実に豊かで、再現ができない…。

そんな岡田さんの言葉に触発された子どもたちは「タイムマシンならば、輪をとおりぬければよいのでは?」「昨日もつけていたヘアゴムを覗き込めば昨日に行けるのでは?」など、さまざまなアイデアを提出し、チェルフィッチュの研究に大いに貢献した(と、聞いている)。実際に劇中に「昨日のヘアゴム」という言葉が出てきたのは嬉しかった。

そして2回目の説明は、上演会場となったロームシアター京都の教育普及事業に参加している中高生と上演後の座談会をしているときだ。特別に見学をさせていただいた。

そのときの言葉は、大人向けにアフタートークで語られる言葉とは微妙に異なった。中学生と共有可能な言葉で、丁寧に語られる言葉をきいて、後ろで聞いている第三者のぼくが、作品への理解が深まるきっかけをもらえたと感じた。

こんなふうな言い方の多様さで、でも同じことを指し示しているように感じさせる言葉の面白さとはなんだろう?と考えたとき、すなわちパラフレーズの面白さだと感じたのである。

「物への演劇」という実験に参加する

さて、とりとめもなくまだまだ考えを語れそうだが、そろそろおわりたい。

ここまでぼくが書いてきたことを見直してみると、『消しゴム山』は物に対して時間の概念を説明する演劇、というように見受けられるが、そうではない。そういうシーンも一部あるというだけで、もっと豊かな意味に満ちた作品である。その点をぼくがまだ汲み取れず言葉にできていないだけだ。

その意味を汲み取るには、ぼくも「物への演劇」という実験に参加してみたいと思っている。

上演後のアフタートークで、チェルフィッチュとは何かについて語った岡田さんは「チェルフィッチュとはラボラトリーである」と言っていた。未だにどんな価値があるかわからない実験的なことをやってみる場が、岡田さんにとってのチェルフィッチュなのだという。

ここでぼくの本業であるワークショップに引き寄せると、ワークショップもまた実験の場である。ワークショップの場をにぎるファシリテーターがなんの実験もせず、固定化された価値を伝えるためだけにワークショップをしていたとしたら、それは講義であってワークショップではない。ファシリテーターも答えがわからないことに取り組むから、実験的で、参加者と協同的・民主的に活動できるのである。

この岡田さんの「ラボラトリー」や「実験」といった言葉をぼくなりに勝手に解釈すると、この『消しゴム山』の観客であるぼくは、観客というよりは実験の参加者であり、こうやって文章を書くこともぼくなりの参加であると言える。

「物への演劇」は、もしかしたら、ぼくたちが普段使っている言葉をみなおし、新しい言葉を手に入れるためのよい訓練になるかもしれない。

そう考えると、たとえばこんなワークショップをやってみたくなる

「物に対して、時間という概念を説明するにはどうすればよいか?を考え、実験する」というようなものだ。聞き手が「物」であるとき、ぼくたちはどうやってプレゼンをすればいいのか。テーマが「時間」であるとき、それをどう言語化すればいいのか。はたまた言語化以外の方法は何があるのか。

様々な観点から取り組めそうなワークショップである。このような活動を通して、ぼくたちは普段から関わっている言葉を見直し、新しい言葉の使い方を手に入れることができるだろう。

いつか機会があったら、ぜひやってみたい。

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