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「懐かしがる」ために、まちを彷徨う──漫画家・panpanyaさんに聞く、〈漫画〉と〈まち〉

「街づくり」はとても複雑なものです。
そこに住む住民はもちろん、商いを営んでいる人、デベロッパー、行政……などさまざまな主体による活動の上に成り立っています。各々の活動はお互いに何らかの影響を与え、結果的にまちという姿で現れます。そう考えると、それらの主体が街づくりを意識することから、本当の街づくりがはじまるのではないでしょうか。

漫画-近年、日本が世界から最も注目を浴びる文化。背景にあるまちの緻密で繊細、圧倒的な描き込みと描写力が、作品の大きな魅力である現実と空想が混在する世界観をつくっている漫画家panpanyaさんに『足摺り水族館』という作品ではじめて出会い、注目していました。

panpanyaさんはまちの断片を継ぎ接ぎしたような世界を巡る漫画を多く描いています。商業デビューから10年、「見たことがないのにどこか懐かしい」と感じられる架空のまちを描いてきたpanpanyaさんの作品は多くの人に読まれ、2023年12月には芸術総合誌『ユリイカ』で特集が組まれるほどに注目を集めています。

商店街のあゆみ』(白泉社、2023年)所収©panpanya/「楽園」/白泉社

また、panpanyaさんの作品は翻訳され、イタリアやアメリカ・韓国を始めとして、色々な国でも読まれるようになっています。2019年には、イギリス・ロンドンの大英博物館で開催された日本の漫画をテーマにした展覧会「The Citi exhibition Manga」で作品が展示されました。

panpanyaさんの作品で描かれる風景は日本をベースにしたものですが、そこに馴染みのない海外の人にも作品が受け入れられています。そこには日本に対するエキゾチックな感覚を超えた、読者が漫画の世界に入り込む、何か「余白」のようなものがあるのではないかと感じられます。

漫画としてまちを描くためには「まちを観察する」というプロセスが存在するはず。そこでは、私たちとはまた違う視点でのまちへの関わり方があるのではないかとおもいます。

そこで今回は、漫画家のpanpanyaさんに自身の漫画とまちについてのお話を伺います。panpanyaさんの作品を10年以上継続的に掲載する白泉社のコミックアンソロジー『楽園 Le Paradis』の担当編集であり、10年以上panpanyaさんと共に活動してきた編集者の飯田孝さんにも同席いただきました。

panpanya(ぱんぱんや) 
漫画家。作品集『商店街のあゆみ』『模型の町』『魚社会』(白泉社刊)ほか。/おもに『楽園』本誌及びウェブ増刊にて継続的に作品を発表中。
ホームページ:https://www.panpanya.com/

飯田孝(いいだ・たかし)
1960年生まれ。1984年に白泉社入社、販売部に配属される。/1993年『ヤングアニマル』編集部、1996年『花とゆめ』編集部に所属。/1997年『ヤングアニマル』副編集長。/2001年に書籍部、2004年にコミックス編集部編集長代理。/2006年に『メロディ』編集長。/2009年にコミックス編集部に戻り『楽園Le Paradis』を企画・創刊、以後10年以上同誌と関連コミックスを一人で編集。/2020年9月に白泉社を定年退職。翌10月より、同誌編集を中心にフリー編集者となった。


動物たち』(白泉社、2016年)所収©panpanya/「楽園」/白泉社

「まち」を描くマンガ──小さいころに離れたまちの記憶を描き続ける

——今日はよろしくお願いします。普段はどのような活動をされていますか。

panpanya
漫画を描いています。そのほとんどは短編で、一話完結のものです。

——panpanyaさんの作品には、主人公の女の子がまちを巡るストーリーが多いので、まちがある種重要な位置を占めているのかなと感じ、その辺りのお話を伺いたいと思い今回のインタビューを依頼しました。
まちが作中によく出てくるのには、何か理由があるのでしょうか。

panpanya
テーマとしてまちを意識しているわけではなくて、単にまちの景色が好きなのでよく出てくるというのと、あとはキャラクターの人物像にあまり重きを置いていないので、相対的に背景が前に出てきて見えたり、またそのように描く必要もあるのかなと思います。

——まちは好きで描いているとのことでしたが、まちを見るのがもともと好きだったのでしょうか。

panpanya
小学生の頃に神奈川県川崎市の住宅地から引っ越しをしたんですけど、そのまちがすごく好きで、以降もずっと「ふるさと」として強く意識して過ごしてきたんですよね。
個人的に「ふるさと」としての「ありふれた住宅地」にずっと惹かれていました。そこから「ありふれた住宅地」を構成する、マンションだったりマンホールだったり、当時目にしていたあらゆるものが重要なもののように思えて、愛着が深まっていったようです。

——漫画として描こうとすると、物語が生まれることになると思います。1枚の絵ではなく漫画を描き始めたのは、川崎を離れた時の記憶を、漫画の中の物語に落とし込んで自分の記憶を取り出そうという想いがあったのでしょうか。

panpanya
それを目的として描き始めたわけではないですが、自分にとって面白い物語であったり、魅力的な場面といったものの根源のひとつとして川崎の記憶は確実にありましたから、結果的にそういう要素もあるかもしれません。

たまたま降り立った駅の周りに広がるまちをさまよう物語「方彷の呆」『蟹に誘われて』(白泉社、2014年)所収©panpanya/「楽園」/白泉社

失われたからこそ強まる気持ち

飯田孝(以下、飯田)
引っ越した時の「頭の中にある川崎」が本当の光景なのか、それを確かめるためにたまに川崎を訪ねていますよね。

panpanya
自分の本物の記憶と、そこから地図やら知識などで肉付けした頭の中の空想の風景と、現実の風景が全然違うような、違わないような、ぶれがある気がするんです。現地に行くと当時からあったであろうブロック塀と、ペンキが塗り直されたっぽい塀と、新しく建った建物があったりして、その揺れるようなあやふやさが楽しくて、味わいに行っているという感じはあります。

飯田
編集の担当者として面白いと感じたのは、その時に、panpanyaさんはまちが様変わりしていても悲しまないんですよ。「まちは変わっていくもの」と捉えているようなので。

panpanya
もちろん悲しくはあるんですけど、変わっちゃったものはまあいいかというか。悲しいのは悲しいんですけど。

橘処理センターの煙突が原風景のひとつとしてあるのですが、久し振りに川崎を訪れたらもう解体されてて、新しい煙突を建設している最中で「ガーン」って思いました。でもまあ「それはそれで」というか。新しいのがいずれ風景に馴染んでいきますしね。漫画で描いてあるものの中でも「サンエブリー(2000年に全店が閉店した山崎製パンが最初に展開したコンビニ)」はとっくにないですし。

そうしたモチーフは現存しているかどうかに関わらず、印象に残っているものとして漫画に登場させるのですが、現実からなくなったことによって、その存在感が強まっていくというのはあります。「かつてはあった」という項目が追加されるといいますか、自分の中の変わらぬ存在感と、今はもうないというギャップに味わいがあります。

飯田
「失われたもの」は「失われて二度と見られない」から印象が強まるということですね。

——それでは、まちの中で新しいものができて、風景が変わっていくことについて何か思われることはありますか。

panpanya
新しいものでも、それを当たり前の景色として慣れ親しんで育っていく人がいて、そういう人にとってはいずれ懐かしいものになっていきますよね。
「自分が懐かしいと思っているもの」、例えばサンエブリーだと、ある人にとっては元々見慣れた古い酒屋さんだったのが「新しいコンビニになって風情がなくなっちゃったね」と思ったかもしれないものであり、次はそのコンビニがなくなったことを私が惜しんでいる、みたいな側面があると思います。そうした感覚は景色が更新される度に繰り返されてきたはずなので、それを考えると、連綿と続く変化の一部分を個人的に悲しく思ったり懐かしんだりしてるだけであり、また失ったからこそ愛着を噛み締めることができるものもあったり。いろんな角度から思いを馳せていると、大抵「それはそれで良し」に収束していくようです。

——以前、ストリートスケートボーダーの小林万里さんにお話を伺ったときに、スケートボーダーの方にとってのお気に入りの滑り場所「スポット」が再開発などで新しくなってしまうことに対してどう感じるかと聞いたら、まちが変わっていくこと自体は当然のことと捉え、むしろ新しいスポットを探しに行くと話していたのが印象的でした。そういう変化は当たり前のことと捉えているのは興味深いです。

panpanya
風景に限らずどんなものでも、一回手遅れになったり、なくなってからでないとありがたみを感じにくいみたいな話はあるような気がします。普段ほっぽらかしてた所持品でも、処分したらしたで後悔して、結局買い直してしまったり。
例えば、イオンモールに代わる新しい何かが普及してイオンモールが寂れて、各地のイオンがなくなるという時代がきたら、イオンのある光景を懐かしむ再評価は起きそうですよね。

とはいえ身の回りの何気ないものに対してそんなふうに仮定して有難がるのは難しいし、それが愛着を持っていた景色を壊してつくられた景観だったりしたらなおさらです。それでも、どんなものでも「いずれ忘れ難い景色になるかもしれない」という頭のスイッチを時々意識的に切り替えてまちを見てみると、大概悪くないような気がしてきます。

通学路……同じ場所を何度も経験して記憶していくこと

——作品の中では「通学路」がよく出てくる印象なのですが、何か理由があるのでしょうか。

panpanya
川崎にいたのは小学一年生までなので、「道のり」の記憶として通学路が占める割合が多いから、という感じでしょうか。好き勝手に見知らぬ道を開拓することができない年齢だったので、幼稚園・小学校などの通学路、駅やよく行くスーパーの往復の道といった限られたルートしか馴染みがなかったのです。

「通学路のたしなみ」『二匹目の金魚』(白泉社、2018年)所収©panpanya/「楽園」/白泉社

——通学路の性質として「往復することでどんどん場所への解像度が高まっていく」みたいなことはありそうですね。

panpanya
その区間の記憶がどんどん蓄積していきますよね。雑草の種類とか、階段の段数とか。
通学路の途中で、鳥のひなが巣から落ちて道の隅っこで死んじゃっていたことがありました。通学路なので毎日通ることになりますが、その死体が日を経るにつれてだんだん腐敗して干からびていくんですよね。それが怖くて……。そっちを見ないように通学していました。大人になってから久し振りにその場所に行ってみたんですが、当然ひなの死体は跡形もないんですけど、そこに何か負の残留思念のようなものは感じるんですよね。

——場所は同じでも、そこで起きていることによって感じ方が変わるというのが、通学路で往復するからこそ生まれやすい。

panpanya
鳥のひなの例のようなショッキングなものでなくとも、同じようでいてちょっとずつ違う記憶が毎日重ねがけされることで通学路自体の記憶も濃くなるし、またちょっとした差も大きく感じられるのかもしれません。

——大人になると通勤で往復することはありますが、自分が通っている道をしっかり見ることはなさそうですね。電車であれば、だいたい寝ちゃっているので……(笑)

飯田
同じ道でも行きと帰りで風景が全然違いますよね。通学・通勤とかって朝に目的地に向かって、夕方や夜に帰ってくるから通る時間帯は違うのですが、その違い以上に向きが違うとまったく風景が異なって見えるのが、ある種のまちの魅力ですよね。

panpanya
行きは上り坂だったものが帰りは下り坂になるわけですから、真逆になりますよね。

飯田
高低差があると、より一層見える風景が変わりますよね。

——panpanyaさんが描かれた、リヤカーを使うと「軽車両」であるリヤカーを引いた主人公が車両一方通行の道を通れなくなったことで、まちでの移動の仕方が変わるお話(「知恵」『二匹目の金魚』(白泉社、2018年))を思い出しました。同じ場所でも状況によって見え方・感じ方が違ってくるというのは面白いなと思いました。

panpanya
まちですれ違う人が、同じ時・同じ場所でも自分とはまったく違う風景を味わっていると考えると不思議ですが、そういう側面もあるわけですよね。

「知恵」『二匹目の金魚』(白泉社、2018年)所収©panpanya/「楽園」/白泉社

見知らぬ場所には興味がない

——ここまではかつて住んでいた川崎の記憶を土台にして描かれるお話について聞きました。作品の中には旅先のお話もありますが、「住んでいる(た)まち」と「訪れる(た)まち」で視点が変わることはありますか。

panpanya
「見知らぬ場所」に行くことにあまり興味がないというか、場所に関しては特に、愛着と関心が連動しているふしがあるので、見知らぬ場所へモチベーションが向くことは少ない気がします。

「外国に行く」なんて全然興味ありませんでした。フィリピンに行ったことを漫画に描きましたが、その時は「グヤバノというフルーツを探しに行く」という明確な動機があったので。自分の中から関心が湧いて来にくい分、外的要因があればなるべく乗っかるようにはしています。
あとは、飯田さんは旅が好きな方で、どこそこへ行きませんかと声をかけてくれたりするので、そんなときも大抵は「行きます」と即答します。

グヤバノを探しにフィリピンを訪れる物語「グヤバノ・ホリデーその②」『グヤバノ・ホリデー』(白泉社、2019年)所収©panpanya/「楽園」/白泉社

——興味はなくても誘われたら行くんですね。

panpanya
そうですね。縁というか、なりゆきによって出掛けるのが好きです。
誘われて行ったり、誰かと行動を共にするような場合は、行程はお任せしてしまうことが多いです。場所によっては「これを見たい」「あれを見たい」と考えないこともないんですけど、無理に関心を奮い立たせるよりは、思いがけず出会えたものを味わう方が向いている気がするし、楽しみやすい気がするので。

飯田
台湾とかは割と日本に近い感じでしたよね。マンホールとか電話ボックスとか。

——見知ったものを切り口に土地を見るという感じなんですか。

panpanya
そうですね。それがほぼすべてというか。
そして、一回行くと「見知らぬ場所」ではなくなります。なので来訪からしばらく時間が経ってから、その場所をもう一回見に行きたくなったりする。

——「もう一回行きたい」と思う場所と思わない場所はありますか。

panpanya
「思わない場所」というのは単純にあんまり記憶に残らなかった場所とも言えますが、それはそれとして、なぜか折に触れて思い出してしまう場所というのはあります。一回の旅行で色々なところに行って景色を見たのに、そこだけ妙に記憶に残って繰り返し頭に浮かんでくるような。そういう場所は思い出す度にまた行きたいなという思いが募ります。
なので、後で思い出せるように写真はなるべく撮るようにしています。万が一愛着が発生してしまった時に見返せるように。

——「万が一」愛着が発生(笑)

飯田
写真を撮っている時は「ここは良いね」と思って撮るわけではないのでしょうか。

panpanya
そういうものもありますけど、そうではなくてもなるべく撮るようにしています。

——「記録する」に近い感覚ですね。

panpanya
見たものをとりあえず保存しておく感じです。現地で生の景色を味わうことも重要なので、写真のほうへはさほど意識を割かずにとりあえずカメラを手元に持っておいて、ぽちぽち闇雲に撮ってる感じです。

——「思い出す」というのは、ある日突然風景が頭の中に浮かんでくる感じなんですか。

panpanya
なんとなくふと考えてしまう、というか。
ふと目にした単語から連想したりとか、似た景色を見たとか、なにかのはずみでふと浮かんでは消えてみたいな感じです。思い出し癖が付くというのか、一度思い出した景色は頭に何度も浮かんで来やすくなるのかもしれません。

飯田
それは夢も含めてですか。

panpanya
夢も含めます。夢はもろにその場所として出てくることは少ないですけど、例えば家の近所として登場した実在しない風景が「あれはどこそこの記憶が元だな」とか「あれとあれを足した風景だな」とあとで分かったりします。そういう思い出し方もかなり好きです。

なぜだか記憶に残る

——panpanyaさんにとって「記憶に残りやすいまち」はどういう場所なのでしょうか。

panpanya
個人的感覚としては「記憶に残るまち」かどうかは「自分がそのまちで頑張った出来事」によるのではないかと思います。

「頑張った」は、目的地に行くのに慣れない交通手段を使わないといけなかったり、ふと自由時間ができて何をしようかなと考えて行動したり「労力を払って何かをした」ということです。
以前、東北に行った時に乗り継ぎ駅で20分くらい時間があったので、近くにスーパーがないか調べて、スーパーまで行って飲み物を買ってきたということがありました。タイムリミットがある中、限られた情報で見知らぬ町を移動するその時間はうっすら緊張感があり、非常に地味な出来事でありながら妙に心に残っています。
何事もなく観光した有名な場所より、予定通りいかなかったり、期待外れだったり、予想外の苦労をした場所の方が、良い意味で味わい深く思い出したりもします。

——面白い話ですね。その例になぞらえると、人を呼ぶために駅に直結した便利な施設をつくったとしても、便利すぎて記憶に残らないということも起こりうる。

panpanya
そうですね。記憶に残るという意味では動線が整理されてなかったり、利用する側に努力を要する方が良いのかも。良いってこともないような話ですが……。

夕方になると流れる音楽の発信源を探してまちを探索する物語「メロディ」『二匹目の金魚』(白泉社、2018年)所収©panpanya/「楽園」/白泉社

「懐かしがる」のが好きかもしれない

panpanya
実はテレビの旅番組が結構好きで。

飯田
自分で旅行しないのに(笑)

panpanya
よく旅番組で「さいころ振って出た目の分だけ先の駅に行く」とか「美味い◯◯の店を探せ」とかあるじゃないですか。ああいうのが好きなんですよね。ちょっとうらやましさがあるというか。
出演者の方々は仕事で旅に行くわけですよね。つまり、「義務」で自分と縁もゆかりもない場所を、何かの目的に則って一日歩かされたりする。そんなことでもなかったら一生歩くことなんてなさそうな道に一回だけ行かされて、何かを目指して歩いて、バスの時間を調べたりすることで、へんな記憶が自分の中に残るはずで。あとでふと思い出したりするんだろうなと思うと、勝手に羨ましくなってしまいます。そういう珍体験を共有させてもらえる感じが好きです。

主人公が突如降り立った場所を周りの状況から推理していく物語「ここはどこでしょうの旅③」『模型の町』(白泉社、2022年)所収©panpanya/「楽園」/白泉社

——NTT US総研でも色々なまちの人に話を聞くために色々なまちに行くわけですが、最初は人を目的にしていても、話の中に出てきた場所に行ったり、普段であれば絶対行かない場所に行くことがあります。訪れる機会はもうないのかなと思っていると、意外と別の機会に再び訪れたりすることもあるんですよね。

panpanya
そういう時に土地鑑がちょっとだけ残っているとなんか嬉しいですよね。

——変に懐かしい感じがしますね。初めて訪れた時と二回目は全然違う。さも地元の人のような気持ちになる(笑)

panpanya
「懐かしがる」のが好きなのかもしれない。

——「懐かしがる」も長い時間を過ごしたとかではなくて、一回行っただけでも、ということですね。

panpanya
むしろ「小中学校の頃の思い出」みたいな大物ではなくて、なんだったのか思い出せないくらい「どこで通ったんだっけあの道」くらいの、記憶を掠めるくらいの「小懐かし」が好きなのかもしれないです。だから「はじめて訪れる場所」には興味はないけど、一度訪れるといずれそれが小懐かしになる可能性が生まれる。
そういう気持ちもあって、縁あって訪れた場所はなるべくきょろきょろするようにしています。写真を撮りまくったり、パンフレットとかを集めることもそう。記憶や記録の断片があれば、後で懐かしがることができる。その布石としての旅行になる。

すべての風景には理由がある

飯田
panpanyaさんは「まち」と言っても、マンホールやブロック塀、電線などのディテールがすごく好きじゃないですか。それは人がいないと存在しないものですよね。panpanyaさんは、そういう「人の営み」が好きなのではないかと思っています。

——panpanyaさんが書かれた文章(「街路樹の世界」『おむすびの転がる町』(白泉社、2020年)収録)の中にも「人工的」というのは「人為的につくられたもの」と気づいたことで物事を見る解像度が上がったと綴られていましたね。

panpanya
そうですね。全部「どこかで誰かがつくったもの」と思うと、嬉しいですよね。
「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいに、あらゆるものがなんらかの力関係の連動の下に生まれたり、失われたりする。偶然も含めてすべてに理由があり、原因と結果の整合性があるというか。

飯田
「耐震性がないから建て替えられる」とか「商売が成りたたないから店を畳む」とか、建物がなくなるのに理由は色々ありますから。

panpanya
たとえば傷がついたガードレールがあったとして、それは10年前に誰かが睡眠不足でうとうとしながら運転してぶつけた傷で、その夜ふかしの原因になった面白いテレビ番組があって……とか。またガードレールが製造された工場や、ぶつかった車の工場もどこかにあり、それをつくった人がいて……。何気ない景色にも今のこの状態になるまでの根拠の重層が当然あり、かけがえがないような気がしてきます。同時に想像力が到底及ばないというか、途方に暮れる感じもします。

飯田
どんなにまちの細部を見ても、見きれない。

panpanya
ひとつひとつに関心を持っているときりがないし、身動きがとれなくなるので。
そういう営みに関して言うのならば「それについて調べている人が居ること」を知ることで安心できる気がしています。本が出てたりするとなお嬉しい。自分で壁穴(透かしブロック)を写真で撮って集めたりもしてるんですけど、インターネットで調べると自分よりはるかに膨大に集めている人がいて、それを見て安心したんですよね。自分一人では拾いきれなくても、だれかが見ているんだ、じゃあ大丈夫だ、と思って。

panpanyaさんがブログで公開している透かしブロックの写真

知識をつければつけるほどまちの深さが見えてくる

panpanya
壁穴に注目し始めた頃、探せば探すほどパターンが見つかって「うわーっ」てなりました。そこから壁穴のある景色の見え方も変わってきました。分布に地域差があることがうっすら見えてきたり、家をつくった人の趣味やこだわりに気づけたり。壁穴ひとつとってもこれだから、ちょっと視野を広げたら大変なことだぞと思いました。

——普通まちを見ていると「誰かがつくったもの」として見るというより「既にそこにあるもの」として見ている人の方が多数派だと思います。ただ、「誰かが意図を持ってつくったものだ」という見方をしていくとまちへの解像度が上がって、面白いですよね。

panpanya
そうした見方をしているのは、漫画を描いているせいもあるかもしれないですね。
漫画を描く時って、雨どい一本にしてもわざわざ手で描く必要があるので「どこに雨どいがあるのか、あるいはないのか」を考えることになる。

構想からラフの段階では、頭の中で考えた景色を描き出すような作業ですが、いざ細部を仕上げるときには資料を見ます。考えた景色と似た場所の写真を見ながら「こういう家があるな、庇はこういう形が多いのか、雨戸の戸袋はどうかな」みたいなのをひとつひとつ描きながら点検する感じになったりして、実際のまちや家をつくるのとは次元が違いますが「意図を持ってつくる」のを追体験しているような気分にも少しなります。

昔描いた漫画だと、その辺がいい加減なものも結構あって。
自分の作品のいい加減な部分について語るのも気が進まないですけど(笑)。例えば、東急線のホームなのにJRにしかない自販機があったりするとか。

飯田
そんな細かいところですか!

panpanya
JRがかつて運営していた「大清水」というブランドの自動販売機があって「駅のホームによくあった自販機」と記憶してたので、単純に駅の場面で描き込んだんですが、その駅は東急線の沿線の駅として描いたものだったんですね。後になってJRのブランドだから東急のホームにあるわけがないことを知りました。ぼんやりした個人的記憶に忠実に描いたので、作品としては別に間違いでないと思っていますが、その知識を得てしまった今は同じようには描けないですね。

——そういう知識が身につくのは偶然なんですか。

panpanya
好きなものについては結構調べてしまうので、辿り着くことがあります。大清水に関してはたまたまです。
建物の外壁についている金属製の丸い部品があります。最初は「なんだかよく分からないけど家の外壁についているもの」として住宅の壁に描き込んでいました。ある時ホームセンターに行くとそれが単品で売っていたので「あの謎の部品だ」と思って調べてみると「フード付きガラリ」という換気口のカバーであることがわかりました。

——調べて知識がつくことで、最初は形だけを描いていたものが、ある時から機能を持ったものとして描くようになる。

panpanya
壁の中の空気を換気するために設置されてるものなんだなあと思いながら丸い部品を描き込むようになるわけです。
べつに事実に則しているから良いとも限らないと思ってはいますし、描き込んでいる景色の断片すべてに関心を持って調べているかというとそんなこともないのですが、ひとたび正しい知識を得たらそれは無視できないものなので。

——panpanyaさんの作品の実際ある風景とそうではない風景が混ざっているというバランスを読者も共有していると言えそうですね。

panpanya
全部を意識的にコントロールしているわけではないですが、描く以上はどこまでいっても知識と眼差しのフィルターを通したものにはなるので、そういうことになりますね。

——知識がありすぎると、どこまで描き込めば良いのかということも考えなくてはいけなさそうですね。

panpanya
知識はあって困るものではないですが、知識がつくごとに無視できない情報が増えて、描くものを決めるのに時間がかかるようになっている気はします。技術的にはいくらか効率化されてるはずなんですけど、昔と今とで制作にかかる時間はあまり変わらないという……。

——知識がつくことで、現実のまちを観察する時の視点が変わってきたなと思うことはありますか。

panpanya
貼り紙とか、景色のなかでも儚い部類の人工物はよく写真に収めるようになりました。「次来たときにはないかもな」と思うものの優先度が上がったというか。あとはグーグルマップのストリートビューが好きでよく見るんですけど、道端の大まかな風景は後からでも見れるんですよね。なのでストリートビューからこぼれ落ちてしまう要素の大事さも上がっているかもしれないです。建物の中とか、足元の小さなものとか。

——建築・都市の分野では『小さな風景からの学びさまざまなサービスの表情』(乾久美子+東京藝術大学乾久美子研究室編著、TOTO出版、2014年)という建築家が「なんか良いな」という風景の写真をカタログ的に集め分析する本が出ていたり、「パタン」と呼ばれる基本単位を組みあわせた設計手法を示す『パタン・ランゲージ環境設計の手引』(クリストファー・アレグザンダーほか著、平田翰那訳、鹿島出版会、1984年)が再び注目を集めているように、風景を観察・分析しそこから得られた知見を建築・都市設計に活かす手法が試みられるようになっています。そこでは、panpanyaさんのようなまちへの観察の解像度が重要になってくるのではないかと思いました。panpanyaさんの作品が海外でも読まれているように見慣れた風景ではなくても何かがフックになるようなことはあるというわけで、そういう視点は街づくりのヒントになるのかもしれないなと感じました。

制約が情報量・解像度を高める

panpanya
あとは「自分が出会ったもの」の範囲に限定して、なるべく記録しておきたいなという思いがあります。

飯田
「記憶だけが町」という話もあります。

panpanya
あれはまさに今回の話と関連した内容です。特定の範囲の記憶だけを集めたもので、物語という物語はないのですが。

「記憶だけが町②」『枕魚』(白泉社、2015年)©panpanya/「楽園」/白泉社

飯田
まちへの解像度が上がれば上がるほど、100m歩くのにめちゃくちゃ時間がかかってしまいかねません。

panpanya
その辺は「自分の目に入った範囲で」ということに決め、それ以外の無限に広がる可能性については目をつぶることにしています。たまたま目が止まったものについては、縁があったということにして。壁穴の写真も、まだ見ぬ壁穴を求めて探し回ったりはせず、たまたま遭遇できた範囲で気楽に集めています。
とはいってもそんなに常日頃注意深くまちを観察してるというわけでもなく、ぼんやり歩いてることの方が断然多いですけども。

——以前、マニアによるツアーなどを企画する合同会社別視点の松澤茂信さんから伺った片手袋マニアの方の「落ちている片手袋を見つけたら記録するようにしているが、バスに乗っている時に見つけた時はどうしようもないので窓を見ないようにしている」というエピソードを思い出しました。

panpanya
その記事は読ませて頂いて、すごく共感しました。
こういうノートをつくっていて、生活のなかで出会ったラベルやシールなどを貼っているんですけど、これも「自分からは集めにいかないこと」にしています。際限なくなるので。たまたま遭遇したもので、そのままなら捨ててしまうところを捕獲するというものです。ノートに貼れないサイズや形式のものも、原則スルーすることにしています。今日のインタビューで出していただいた飲み物が丁度紙パックで、これは表面を剥がせばいけるので、有難く貼らせて頂きます。

左:生活の中で出会ったラベルやシールを貼るノート、右:今回のインタビューでお出しした飲み物のラベルが貼られた様子(2点写真提供:panpanya)

——そして、これを10年後くらいに見て、今日のことを思い出す、ということですね。自分で制約を定めることで物事を記憶するための解像度を上げる、というのはすごく面白いですね。

panpanya
制約を設けるのは個人的な行動規範といいますか、取り組み方の癖みたいなものだと思います。漫画も割とマイルールに則って作っているふしがありますし。

——「通学路」もある種のルールですよね。panpanyaさんの作品には、そういう風に制約によって範囲を絞ることで何かが生み出されているのだと感じました。

panpanya
見知らぬ場所に興味が向かないのも、自分の関心事の箱庭の外に意識がいかないようにするという、ある種の制約の現れかもしれません。

——最後にpanpanyaさんが住んでみたいまちはどのようなものなのでしょうか。

panpanya
「愛着のある特定の場所」というのを除くと、起伏が多くて見晴らしの良いところですね。繁華街や自然豊かな場所よりは住宅地や幹線道路が見える場所で、ビルの高い階とかよりは地面として高い場所のほうがいい。

飯田
ビルと違ってエレベーターがあるわけではないから上っていかなきゃいけないですよね。

panpanya
現実的に考えると「坂が辛い」とか「駅から遠い」とか、利便性とは真逆になるんですけど、条件に該当するような場所を訪れたとき「こんな場所で暮らすとしたら」みたいに考えることが結構あるんですよね。今回の話で出た「そのまちで頑張る」ということが地形に含まれていると考えるなら「記憶に残りやすいまち」とも言えるかもしれません。
単純に好きなタイプの景色の情報量が多いから、という理由な気もしますが。

——情報量が多ければ、そこからまた制約によって色々な解像度で物事を深掘りすることができますしね。
このメディアは、もともとは駅近で利便性が良いということが本当に土地の価値を決めてしまうのかという疑問からスタートしたので、まさにそこの興味とドンピシャです。もっとお話を聞いてみたいですが、今回はこのあたりで。今日はありがとうございました!
(2024年6月24日収録)


今回お話を伺ってあらためて「郷愁」ってなんだろう、という思いが強くなった。panpanyaさんの記憶を、漫画を通して読者が追体験する。多くの読者はその緻密な背景に郷愁を抱く。これが日本人だけならまだわからなくもないが、海外の人も何かを感じて評価している。それはミームの仕業。なんて言えば聞こえがいいかもしれないが、そういう短絡的なことでもないのだろう。

翻って、業務に近しいところで考えてみると「記憶だけが町」というのは興味深い。その時代、その場所が自分にとってのまちで、上(あるいは下)の世代とは深いところでは共有できない。同じ駄菓子屋があったとしても品揃えは違うし、値段も、もしかしたら店の人も違うかもしれない。記憶の風景にはその時の気持ちや考えたことが付随するから風景の意味合いが変わってくる。

こういった観点でまちをとらえると、まちに特徴をもたせて外部の人を招き入れる現在の街づくりのほかに、まちを出た人に向けた「戻りたくなる街づくり」もあるのではないか。時間によって熟成された記憶(それは郷愁ではなく、理想を追いかけている時の期待感みたいなもの)は人を動かすための動機になるのでは? 価値観が変わりつつある現在なら受け入れる人も一定数いるのでは?

そういった示唆を得られるとても有意義なお話を聞くことができたし、今でも考え続けている。panpanyaさん、飯田さん、新たな思考のきっかけをありがとうございます。毎日が少し楽しくなりました。(齊藤達郎)

聞き手:福田晃司、齊藤達郎(NTTアーバンソリューションズ総合研究所)
構成・編集:福田晃司
編集補助:小野寺諒朔、春口滉平
デザイン:綱島卓也