父について

 父を亡くした。2021年2月26日のことだった。父は20年の夏の時点で、余命数ヶ月の宣告を受けていた。食道癌ということだった。
 72歳だった。あと二ヶ月足らずで73歳になろうてしていた彼は、真夏の病院でー自分が仕事中にぶっ倒れて担ぎ込まれた病院の、自分の半分ほどしか生きていないであろう担当医からー残りの時間の告白を受けたとき、天井を見上げた。もしかしたら悲しかったのかもしれない。医師は数ヶ月という言葉を選び、半年という表現を選びはしなかった。

 感情に対して抑圧的に見えた父のその行動は、僕自身の面影を僕に見せた(こんなものはすべて、過去からの挨拶のようなもので、過ぎてからは、なんだって言える。)ここは主格が案外大切で、僕は確かに自分の面影を父に見た。卵/鶏論争なら、まあ当然父のDNAを僕が受け継いでいる訳だが、そういうことが言いたい訳じゃない。あくまで感覚的な話だ。その辺の理解は文学や音楽で感性を養うと分かる(僕を含んだ現代人が、どのようにどの程度、感性を養っているかについては甚だ疑問である)のかもしれない。

 僕たちは親子だったみたいだ。スピリチュアルじみていて繊細なことだけど、なかなか確かな強い実感をもてないものだと思う。だから僕は少しポジティブだった。(全然お母さんに似ていない、本当に親?子供?なのかしら、生まなければ/生まれなければよかった、などというのは、その気になればどこでも見られる)
 この世から出ていくときに、何の一言も交わさない僕らの間柄は、結構気の置けない友人になっていたんじゃないだろうか。なにが、「お母さんをよろしく頼む」だよ。いつまで遠慮してるんだよ。自信をもてよ、自分にさ。最後くらい自分のことを頼めばいいじゃないか。まあ生きてる最中は、すごい傍若無人かつ内弁慶な人間だったようだけどさ。要するに我がままだよな。

 彼は死ぬ1週間ほど前に、僕に電話をかけてきた。その電話も、自分の携帯から電話をかけても息子はでない、との思いにより、母の携帯から母によってかけられてきたものだった。そこで彼は言った。「俺はもう無理だ。お母さんを頼む。」
 父は俺のことをどう思っていたのだろう。人間は一枚岩じゃない。人称だってブレる。統一されている性質こそ、僕は浅薄さを感じる。僕らは今を確かに生きている存在じゃないか。

 おう、任せとけ。僕が半ば事務的に返したこの言葉が、僕と彼の最後の会話だ。自信はないけどそれより後に話した言葉を覚えていないから、きっとそうだ。父親が死に瀕しているという事実を理解はしていたものの、情緒として処理しきれていなかった僕の脳が、そう言ったのだと思う。明文化することに大した意味はなさそうだが、自分の理解を厳密に行いたいために、敢えてこのように書くことにしている。


 結局のところ、僕は父の死に目に会えなかった。彼が亡くなった26日。僕は前日に面倒なことを抱え、そして歌会に出ていた。
 かなりの怒りがあった。しようと思えばサラッと書いてしまえる怒りではあるのだが、誰かに手渡すためのアウトプットは難しい性質の怒りだった。明らかに、そして楽観的になされた僕の選択は、見るからに間違いであった。僕は当然、彼ともっと話したかった。それは親子の愛情のようなものもあるのだろうが、それ以上に僕はまだ彼という人間を知らなかった。彼の昔を知っている人間と深く話したこともなければ、彼の価値観を本質的に知ることのできるような時間や余裕もなく、僕は致命的に彼を理解することができていなかった。24歳の僕はいまだその理解の過程にいた。
 そのプロセスに、彼は余命宣告を受け、去っていった。2ヶ月あまり経ったいま、このことは何も変わらない事実だ。ただただ時の流れだけが、僕を社会の方に押し戻していく。心や脳が適正化されていく。そこここで言っているが、僕に何が起ころうとも、バイトはしなければならないし講義にも出なければならない。そういった義務が目の前にたくさん押し寄せてくれば、頭も心も、障害を忘れようとする。それが親の死だというだけだ、今回のケースは。父の死=社会の障壁


 僕はいま言ったような現象を受け入れたくない。数年前に兄が亡くなった時にも、こういった感情の萌芽はあった。今なら分かる。(やはり年齢、つまり経験の蓄積と時間の作用は大切だ)
 僕は起こってしまったかけがえのないことに、意味を見出したい。なぜ、彼らは死ななければならなかったのか。(この話は後でもう一度する)
 その点に関して僕は、まだなんの整理もつけていない。兄が死に、父が死に、母が植物状態になり、自分の生活は1ミリもずれないのか。僕は今まで通り、どこの誰がなんのために作ったのかも判然としない社会のために、そして人類共通の曖昧な目標である生きるということのために、日々を過ごしていくのか。果たしてそれは、僕の望んでいることなのだろうか。


どこの誰がなんのために作ったのかも判然としない社会のために

人類共通の曖昧な目標である生きるということのために














世の中は大変クソだ。何もかもをぶち壊したい。こんなに理不尽で不平等な世界はない。オワコンだ。頑張る意味もなければ、全部の行動に意味はない。時々得をして損をして、気がつく頃にはもう終わりそうになっている、まったくもって積み重ならないものだ。皆んなが皆んな、自分を優しく守りそう思おうとしている

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