【短編小説】滅紫の残光
古びた廃教会の地下に老いた影があった。魔法陣に立つ一人の男が、皺だらけの骨ばった手で次々と大釜へ投入していく。
出自不詳の皮、根、血……。いずれも禍々しく穢れている。
男は禁忌に触れようとしていた。代償など知ったことではなかった。すでに失うものはない。これまでの悉くが手のひらから零れ落ちていった。しかしただ一つ思い残しがあるならば――。
やがて滅紫の光が釜から放たれた。
鼻腔をくすぐる潮風に目を開けた。
子どもの姿になった男の視界に広がっていたのは、生まれ育った港町だった。
いくつかの船が停泊し、漁師と行商人が話している。通りには雑貨と果物の店が並び、どこからか海ねこの声が聞こえる。
郷愁に佇立していると、後頭部に軽い感触を覚えた。男が振り返ると小石が落ちていて、少し離れたところに少女がいた。
「こら、道の真ん中でぼうっとして」
悪戯っぽく笑い、つややかな赤毛をなびかせて近づいてくる。幾度夢で見たかわからない。十歳のラウラが目の前にいることで、男は泣きそうになった。
「どうしたのロイ……あっ、またダンたちでしょう。ちょっとそこで待ってなさい」
男はハッとして、勢いこむ彼女を止めた。
「ああ、違うんだ。これはそう、日の光が目に染みてさ。今日はよく晴れてるだろう? それで」
「ふうん、ならいいわ。でも何かあったらすぐ私に言うのよ」
「う、うん」
男は彼女の前に立つと、十三歳で魔法学院に入り、頭角を現すまでの気弱な自分に戻った。だがそのことを恥じはせず、むしろ懐かしい心地に身を委ねたくなった。
ラウラは、男にとって初恋の相手だった。
彼女はよく父の手紙の話をした。貿易商として海外を飛び回る父の旅の話を、いつも目を輝かせながら男に伝え聞かせた。
一方で彼は知っていた。ラウラが本当は母と三人で暮らしたいことを。
ゆえに先日の手紙を見て、彼女は跳ねるほど喜んだ。ようやく一つ処に居を構え、妻と娘を共和国に呼び寄せるというのだ。それはこの町からの旅立ちを意味していた。
明日の出発を前にして胸を高鳴らせるラウラに、過去の男は何も言えなかった。だが今は知りたくもないことを知っている。
数年後、共和国は戦火に包まれる。
北の国と当国の長い長い争いに巻き込まれるのだ。
さらには自分も高位の魔法兵として戦に参加していた。戦時下では赤と黒に視界が塗り潰され、何者に構う余裕もなかった。ラウラを思い出したのは一帯が焦土と化してからだ。懸命に彼女の行方を探そうが、数年も経てば生きている人間の方が稀だった。
男には今ならわかった。彼女に魔術の才はない。物を軽く飛ばすだけの魔法でこの先は生き抜けないと。
「ラウラ……行っちゃダメだ」
彼女は不思議そうに首を傾げた。
「何言ってるのよ。あっ、ロイったら淋しいのね。大丈夫よ心配しなくても」
「頼むから行かないでくれ」
事情を説明して信じてもらえるとは思えない。不器用な男にできるのは、ただ必死に懇願することだけだった。
「どうしたのロイ、あなた変よ。ねえ、何かあったんじゃない」
彼女が自分の手を取ろうとするのを、男はすかさず振り払った。
「あっ……」
男にとってラウラは眩しすぎた。家を焼き、人を殺し、幸福を奪い続けた自分の汚い身体になど触れさせたくない。咄嗟に出た行為だった。
「違うんだラウラ、今のは」
「もういい」
男の言葉を遮り、彼女は踵を返した。
「帰る。追いかけてこないで」
男は追えなかった。どの面下げて追えるのかと、いつまでも言い訳がましく自問していた。
一睡もできぬまま翌日になり、男はふらふらと港へ向かった。過去の自分は別れを悲しむあまりそれすらできなかったが、浅ましい未練が足を動かした。
今日も何隻か船が泊まっていて、ラウラがどこにいるかはわからなかった。乗船券のない男は行き交う人に彼女のことを訊ねたが、成果は得られない。時間だけが過ぎていった。
すでに出港した後なのではないか。疑念を抱くと、不安がまとわりついて離れなくなった。動悸と共に脂汗が額に溜まりだした。
都合よく過去に戻ったところで、一度汚れた手が浄化されるわけではない。
これは報いなのだと男は思った。理不尽に他人の時を奪ってきた自分にはお似合いの末路だと。
男は膝をつくと、そのまま座り込んだ。雑踏の中、彼を避けて人々の往来は続いた。
しばらくしてから、ふいに何かに触れられた気がして、うなだれていた首を持ち上げた。
目の前に丸めた紙くずが落ちていた。
風で流れてきたものだろうと思いながら、男はなんとなく拾って広げてみた。
そこに書かれていたものを見た途端、彼は立ち上がって辺りを見回した。
相変わらずラウラの姿は見えない。しかし間違いなく、彼女の字だった。
「手紙書くね」
たった一言だけが書かれた紙を抱きしめ、男はまた膝をついた。滂沱の涙を流しながら、後悔と希望に苛まれた。
その瞬間、男の身体は灰となって崩れ去り、地下の一室には微光だけが残った。
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