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ジェネレーター 学びと活動の生成|市川力+井庭崇 の世界を散策する③

こちらの本を、森を散策すように読み進めています。
あ!!と思った「雑」をここに記しております。

②はこちら。

では、続き!!

「中動態」という言葉は初めて知った。なるほどー。文中の例はとても分かりやすい。中動態が適した動詞「生まれる」「眠る」「想像する」などがあるという例、能動か?受動か?では表せない言葉から、中動態の理解が進んだ(と思う。)

生成の現場に入り込むと、自分が確かに関わってはいたが、「自分がジェネレートした」という自覚はなく、何をしたらそうなったのかということも明確には分からない。(中略)「誰かがジェネレートする」というように能動的な行為として捉えると、僕や市川さんは何をしているのか?という問いになってしまう。けれでもそういうものではなく、そもそもジェネレートという出来事が起きるのだ。そこに僕らは関わり、巻き込まれ、参加し、味わい、その一翼を担うということなのだ。
P155

僕は常々、「授業をつくる」と言うことがおこがましいというか、ちょっとした違和感を感じていた。授業というモノの「作り手」と「受けて」の関係を表し、つまりこれは能動、受動の関係になってしまう言葉なのだ。


ところが、例えば、紙コップ1万個のワーク(図工では造形遊びのという領域)のように、「作り手」と「受け手」の関係がない授業をこれまでたくさんやってきた。これはつまり、中動態であったのだと思うし、「僕がその場、雰囲気をつくった」とはまったく自覚はない。(材料が、題材が優秀だと思っている。)
僕は授業をつくっていない。僕はその場に関わり、巻き込まれ、参加し、味わい、その一翼を担っていた。この感覚はこういうことだったのか・・・と思う。

でも反対に、ジェネレートという出来事が起きない場合は何が原因なのだろう。いつもジェネレートという出来事が起こるわけじゃない。1つ自覚している原因は、自分がそもそも楽しいと思っていないと、それは起きないような気がしている。

表現系のワークでは同じことを何度もやると、子どもが違えばそれぞれ絶対違うはずなのに、どこかで見たような気になることが残念ながらある。これまでに2000回以上も授業をしているので、経験上それも当たり前なのかもしれない。想像もし得ないことに巻き込まれていくのが面白いし、僕もワクワクする。
「この展開、前にもあったなぁ」なんて思ってしまったら、心の底から「楽しい!」とは思えていないのだろう。楽しくないわけではない。ただ、やはりそういう場面では、ジェネレートという出来事が起きていないように思う。

だから僕は同じ授業はほとんどしたことがなかったし、放課後の子ども達の本気の「やってみたい!」の乗っかって活動をしていく方に魅力を感じているのだろう。
だから、僕は図工の先生を引退し、新しい刺激に手を伸ばそうとしているのだろう。

ともにつくるコラボレーションでは「誰が」は重要じゃない。アイデア・発見が連鎖することで、何かがつくられる。(中略)アイデアの良し悪しに、それを考えた人の立場や肩書きは関係ない。良いものはよいし、悪いものは悪いのだ。あるアイデアを学生が出したのか先生が出したのかを気にしている人は、そういう立場・肩書きを意識しすぎていると言えるだろう。そういう社会的な次元ではなく、創造的な次元で捉えるべきなのだ。
P147

そう、だから学校の授業では、子ども同士の共創は生まれても、子供と大人の共創はほとんど生まれていないと思う。(僕の知る限りで、だけども)たいがい、大人が子供の輪に入って、意見を言うことはしない。子供を見守る側になる。もしくはただ知識伝達者としての存在として、特別な大人が講義をして、それをもとに子供達が考える、活動するという座組みが多い。これは共創ではないと僕は思う。

「ジェネレーター」はつくっている主体である自分とつくられている客体としての対象というような区別をまったく意識していない。むしろ「ジェネレーター」はつくる対象や仲間と一体化している。
P158

僕も自分の授業において「場に溶ける」、「場から消える」という説明をすることがある。僕の授業において「先生」という存在感はいらない、と思っていたのである。僕もつくる対象や仲間(子ども達)と一体化してたのだ。そういえば、授業観察にきた管理職に「山内先生がどこにいるのか、しばらく分からなかった。」とよく言われたものだ。