愚民の大軍は、少数精鋭の選民に勝る

岡田斗司夫さんが「サピエンス全史」の解説動画を3月8日まで無料公開されておられます。とても面白いので皆さんもよかったら見てみてください。

私はまだ「サピエンス全史」を読んでいないのですが、この解説を見て思ったことを簡単に書いておきたいと思います。

・ネアンデルタール人は、ホモ・サピエンス(人間)よりも賢く、身体能力も高かったが、ホモ・サピエンスは「集団」でネアンデルタール人を滅ぼした。

・ホモ・サピエンスは狩猟生活から農耕生活に移行して、脳が退化し身体能力も落ちた。

・狩猟民は、戦争はしなかったが、劣った個体や、役に立たなくなった老人は殺した。農耕民は劣った個体でも大切にするが、戦争はする。

つまり、狩猟民というのは、エリートだけが生き残れる平和な社会で、農耕民は誰でも生き残れるけど戦争が起こる社会、なのだそうです。

なぜかというと、狩猟民は定住をしない。餌が無くなったら場所を移動するだけ。だから戦争をする理由がない。また、色んなものを食べるので栄養が偏らない。農耕民は定住するし、長い時間をかけて作物を育てる。だから、定住する場所を守るために戦争するし、長い時間をかけて育てた作物を奪われそうになったら戦争する。小麦ばかり食べてるから栄養が偏る。劣った個体であっても淘汰されないから生物学的な進化は止まる。

なんだか、現代の自由主義と共産主義の対立構図に似ているような気がしました。そう言われてみれば、エリートは平気で国を捨てます。ひろゆきは今やフランス在住ですし、Gacktはマレーシア在住。中田敦彦はシンガポールに移住。ホリエモンは日本にいますが自宅を持たずにホテル暮らしを続けてます。そういう意味では彼らは限りなく狩猟民に近いライフスタイルを選んでいる。

勘違いしてはいけないのは、彼らは愛国者でもない代わりに左翼でもありません。日本を捨てることに躊躇いがないのだから、日本をわざわざ作り変えたいと思う動機もない。左翼というのは日本を作り変えたいと考える人なので、彼らは本当の意味で、右でも左でもありません。しいて言うなら、ネオリベラリスト、あるいはグローバリストでしょうかね。

そして、個体としては狩猟民のほうが優れていたのに、結果的には農耕民が生き残ったこと、あるいは個体としてはネアンデルタール人のほうが優れていたのに、結果的にはホモ・サピエンスのほうが生き残ったのは、個人の能力の高さよりも集団による協力プレイのほうが生存戦略に有利だということを示していると思います。

今、日本や東アジアで少子化が進んでいるのは、国民の狩猟民化が進んでいるせいかもしれません。狩猟民は、あまり積極的に繁殖しないし、増えすぎた子供は間引く。人が増えすぎると餌が早くなくなってしまうから。一方、農耕民は、とにかく大勢の働き手が必要なので、積極的に繁殖して人口を増やそうとします。もちろん現代では農業は機械化が進んでいますので、人口を増やす必要は失われてきていると思います。

優生思想とエゴイズム

ここから先、ちょっとヤバイ話をしようかと思います。よく「人はなぜ人を殺してはいけないか?」という問題はよく語られたりしますが、実際には現代でも、戦争でより多くの敵を殺せば英雄ですし、死刑執行人は業務として粛々と人殺しを行っています。さらには一般人でも、正当防衛によるやむを得ない殺人は認められることがあります。つまり「人は人を殺してはいけない」というルールは絶対的なものではなく、例外事項が存在するわけです。

まあ、そもそも「人を最も多く殺している動物」の2位が人間、というデータもあるくらいですから、我々が思っている以上に、人が人を殺すということは結構普通に行われているわけですが。

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それでも一応、少なくともある程度、秩序が保たれている社会では「人殺しはダメ」というルールが機能しているわけで、じゃあそのルールは一体全体誰のためにあるんだぜ?って考えたら、そりゃ我々のためにあるのは自明なんじゃないでしょうかね。だって「人殺しオッケー」な社会では、自分が殺されるリスクも常に付きまとうわけです。でも人なんか殺したって個人的に得られるものはたかが知れてますよね。せいぜい一時の感情が満たされるとか、一時的にあぶく銭が手に入るとか、その程度。一方で殺される側が失うものはあまりに多すぎる。要するに加害者のメリットと被害者のデメリットが全然釣り合ってない。であるなら、加害者のデメリットを最大化しておくことが、他人に殺されるリスクを、完全にゼロにすることはできなくとも、限りなくゼロに近づけておくことが得策、という考え方から「人殺しはダメ」というルールが生まれたのではないでしょうか。

じゃあ、障害者の人権はどうして守らなきゃならないの?という疑問も湧いてくると思います。少なくとも狩猟採集の頃には、人は役に立たない人間は平気で殺してましたし、農耕に移ってからも障害者は労働力として役に立たないので「穀潰し」として排除されてきました。生まれてきた赤ん坊が障害者だったらその場でお産婆さんが首を絞めて殺してしまう、なんてことは、なんと昭和初期まで行われてきてたりします。

フランス人権宣言が1789年。もちろんそれ以前にも「人権」という考え方の雛形みたいなものはあったでしょうし、フランス人権宣言以降も人権に対する考え方は常にアップデートされてきているわけですが、とりあえず人権宣言を一応の起点として考えるなら、ホモ・サピエンスは人権を手に入れてからまだたったの230年程度しか経ってないわけです。何が「人権天賦説」だよ、笑っちゃうよね、我々ホモ・サピエンスが地球の覇者となって約3万年、その1%すらも、人類に人権が存在した時代なんて、なかったんだから。数年前、片山さつき議員が人権天賦説を否定したとかで軽く炎上したけど、科学的に考えれば人権天賦説なんてものは噴飯モノなのは否定しようがないと思う。

じゃあ、なんで障害者の人権を守らなければならないの?ってことですが、理由は3つあると思います。1つは、自分だっていつ障害者になるかわからないんだから、障害者の人権だって守っておいた方が自分も安心できるよね。それから、人間というのは動物に対してすら愛情を抱いてしまうほど共感性の高い動物なので、単純に「障害者が可哀想」っていう感情を満たすことができます。そして最後に、障害者のためにバリアフリーとか言って沢山お金を使わせることで、ビジネスが生まれますよね。要するに、障害者を殺す(間引く)のも人間のエゴだし、障害者を生かすのも人間のエゴってことです。

なんかこういうこと書いてると、おまえは植松聖か?みたいなこと言われそうですが、私は植松を肯定していません。そもそも、人間は個体としては弱いにも関わらず、大規模な共同体を作ることで生存競争に打ち勝ってきました。だから、共同体の掟に従わず個人プレイに走った植松聖が共同体から排除されるのは当たり前です。「障害者は穀潰し」という考え方は、別に植松に限らず割と多くの人が、大きい声では言えないでしょうが内心思っていることだと思います。だって少なくとも昭和初期までそういう考え方が主流だったんだし、20世紀末まで優生保護法が存在していたわけですから、人間の考え方なんてそんな急に変わるものじゃないです。でも、そう思っている人の全てが植松みたいな人間ではないし、植松はむしろ例外中の例外。まともな人間ならあんなことはしません。こういう言い方はアレですが、たかが20人や30人殺したところで、それで社会を変えることができると思いますか?絶対無理だよね。無血革命と言われた明治維新ですら、その何千倍もの血が流れている。ましてや今の日本で、しかも時計の針を逆転させる方向の革命を、今慌てて行う必要がどこにある?

さっき私は「人権天賦説なんて噴飯モノ」と言いましたが、それは「お金なんてただの紙切れ」だと言うのとほとんど同じことです。事実、お金はただの紙切れですし、最近は紙切れすら使わずただの電子データになりつつあります。そんなものが、我々の生死に関係あるとは、普通に考えたらありえないことですが、実際には、少なくとも現代を生きる我々にとっては死活問題です。お金のために人が殺されたり、自殺したり、しているわけです。明らかにお金は人間の生死を左右している。人権もそれと同じ。天賦ではないが(そもそも日本人は大半が無神論者なのに天賦説を信じろというほうが矛盾している)、少なくとも現代を生きる我々にとっては必要不可欠なものです。通貨、人権、法律、国家、これらは全てホモ・サピエンスだけが有する幻想であり叡智です。どれも、モノとして存在するわけではなく、ただ我々のイメージの中に存在するだけです。そして時に人間は、そのイメージを巡って争ったり、殺し合ったり、自ら命を断ったりすることもありますが、しかし、これらのイメージのおかげで守られる命や財産のほうが圧倒的に大きく、またこれらのイメージを理解する能力を人間だけが持てたからこそ、人間は厳しい自然淘汰から解放されて、食物連鎖の頂点に君臨することができているわけです。

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