エッセイ 川越喜多院周辺の古墳を見に行く 古墳の良さについて2

 民家の横に細い路地がある。細い路地が好きなのでなんだろうと思って見たら看板に「仙芳仙人塚」と書いてあり、こんなところに塚がと思う。

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いい細い路地

 私は民家のすぐ隣にある塚が大好きだ。
 民家のすぐ隣、というシチュエーションがいい。日常的なものと、非日常的なものが同居しているという環境がいい。で、ここもまさに民家の隣にある塚なのだ。たまらないと思ってすかさず行く。
 民家と民家の間の、幅二メートルもない細い路地。いい。狭ければ狭いほどいい。両隣の建物で視界が阻まれていて、物理的にも狭い空間を通っていく感じがいい。おそらく細い路地を通ることで感じる良さというのは「胎内くぐり」に似た良さなのだろう(胎内くぐりとは、社寺にたまにあるもので、洞窟や木の股をくぐることで死と再生の擬似体験をする装置のことである。くぐることで体験者は生まれ変わりを感じることができて、心身ともに清まりを得ることができるというものなのだ。ここもそんな塩梅ではないかと思う)。

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別のとこの例

 十メートルほどの路地を通って塚に着いた。まず広くて舗装されていない砂地がある。砂地からブロック塀で仕切られた向こう側に塚らしいものがある。塚は一メートルほど高くなっていて、その上に「仙芳○○入定塚」と書かれている石碑がある。

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 ものとしてはそれだけ。なにか美麗な彫刻や仏像があるわけでもない。少し地面が盛り上がっていて石碑が建っているだけ。しかしシンプルなその出で立ちが逆にわびさびの良さのような空間を立ち上げていると思う。いや、わびさびみたいな説明は逃げの説明なのでもう少し説明したい。
 先に言った、住宅地の真ん中にあるということがまず一点大きな良さのポイントだと思う。ほかの人々の生活が営まれている空間のただなかにそのような異質な空間、経済性の観点からいえば全く無意味なような空間が保存されているということが好ましい。喜多院はこのような広大な空き地は売り払ってしまって宅地にしてしまったほうが良いに決まっているが、そうしないで保存しようと考えて保存されているところが良い。
 それから空間が潤沢に使われているところも良い。おそらく現在の形になるまえに、土台の部分は相当削られてしまっているとは思うのだけれども、それでも広い空間が残されているように見えるところが良い。五百羅漢の囲いの話でも述べたけれども、囲いがあるからこそ空間の神秘性も高まるというもので、この残された潤沢な空間が古墳の良さを否が応でも高めているのではないか、と考えられる。
 塚には上ることができるので上まで上ってみた。空き地を見晴らすことができて気持ちがいい。たまらない。小さな段差に登ることはいつでも小さな良さを与えてくれると思う。
 古墳の良さは高いところから見晴らすことができる点にもあるのだなあと思う。昔の人も、人の墓を作るということにかこつけて、本当は高いところを作りたかったのではあるまいかと思う。高台には野火の監視という役目も持たせられるし、そんなに荒唐無稽な話ではないような気もする。
 なお、仙人についてはこういう伝説があるらしい。
 昔、喜多院のあたりは海が迫っていて湿地だった。そこで仙芳仙人という仙人が土地の神(龍神とのこと。水神の系譜だ)と交渉して、乾いた土地をもらってそこにお寺を建立したのが喜多院の始まり。その仙人の眠る塚がこことのことだ。
 「仙人」が出てくると歴史を感じられるので良いと思う。新しい寺社はともかく、古い寺社は仙人が関わっていることがある気がする(ex日金山)ので、仙人が出てくると得をした気分になるのがよい。みなさんも開創の縁起に仙人の出てくるお寺があったら得をしたと思ってください。

 それから南院跡地に行く。ここは前回訪問時に見つけてなんじゃこりゃと驚いたスポットだ。ぱっと見空き地にしか見えないところに、石碑や石仏のたぐいが並べられているような場所なのだ。

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南院跡地

 境内の一角にこんな場所があるのであれば分かるけれども、住宅地のただ中にあるということが驚きで良い場所だ(とはいえおそらくここも喜多院の境内地の一つであると思われる。かつて今の何倍もあった広大な境内地が少しずつ無くなっていって住宅に変わっていき、現在のような寺域になっているのであろう)。お地蔵さんや板碑、五輪塔や無縫塔が土の上に並べられている。
 そのさまは、言葉は悪いけれども寄せ集められているような状態である(そして実際にそうなのだという看板もあった)が、私は寄せ集められているものが大好きで(無縁塔好きの方にはご理解いただけるものと思うが)、寄せ集められることによって何らかの「場」を形成してしまっている状態のものにときめいてしまう。趣旨も願意も異なる石碑が集められることによって、なにかしらのパワー、なにかしらの統一感が出現してしまっている状況は、その状況そのものに良さを感じるのである。
 延べ石が敷いてあって、ちょっとだけ敷地の中にも入れるので、お地蔵さまの前まで行って手を合わせた。ちょっとだけ敷地の中に入れるのは良いと思う。もしかすると、全部入れるより良いかもしれない。お寺も、本堂の中に入れて、内陣の中までは入れないのは、なんだかいいと思う。これが全部入れてしまうとたぶん良さのうちのなにぶんかがなくなってしまうのだろうと思う。

 川越の喜多院の周辺には思ったよりもいいものがあって良かったという印象。とりあえず私の興味の対象として、古墳は間違いないということが改めて分かった。行った先でなにもなかったとしても古墳を探しておけばだいたいは楽しい。これからも古墳を探しておこうと思う。

終わり

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