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エッセイ 川越喜多院周辺の古墳を見に行く 古墳の良さについて

 川越に行った。
 川越へ行くのは三回目だ。一番最初に行ったのは小学校の遠足のときで、芋アイスを食べたことを覚えている。芋アイスは固くてかみ切れなかった。血が出たような気もする。
 目的は喜多院の周辺だ。そのあたりをうろちょろして、なにか面白いものがあればよいなと思ってバスに乗った。
 バスに乗りながらスマホでグーグルマップを見る。私は交通機関に乗りながらグーグルマップが動いていくのを見るのが好きだ。車窓にある景色とマップにある史跡の情報とがリンクすると気持ちよさを感じる。
 途中で「貝塚」と記された史跡のマークが通り過ぎるのを見つける。「あるじゃん」と思う。全く予備知識なしに来たのだが、貝塚は私の好きなスポットの一つなのだ。バスが近づいてきたので車窓から道路をじっと見つめていると、ポケットパークぐらいの小さな空き地が見えてきた。どうやらそこのようである。ぱっと見、貝が散らばっているような光景は見られなさそうで、おそらく見た目の面白さはないだろう。けれども、最近ではそうした場所が残っているということそのものがうれしく思えるようになってきた。
 しかしそこでバスを降りるわけにも行かないので、あとでいけたらいこうと思って通り過ぎる。
 喜多院に着いた。あんまり久しぶりなので、降りたところと記憶の中の喜多院が結びつかない。こんなところだったかなーと思う。
 バス停のそばに明星の杉跡という祠があった。喜多院とは駐車場で隔たっていてぽつんとある感じだ(隔たっていてぽつんとあるものは良いと思う)。

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 看板を読む。明星の杉跡とは、喜多院中興の祖がこの場所が霊地であると確信した奇瑞があった場所であるらしい。なんでも池から光が出てきて、杉の梢に止まってきらきらと光り始めたとか。クリスマスツリーみたいだ。“光がありがたい”系統の伝説だ。誰だったかは忘れたけれども昔の偉い人も光る星を飲んで生まれたというような伝説もあったはずである。喜多院もそうした光るもの伝説に連なる場所なんだなあと思う。
 そばに喜多院全景のマップが掲示されていた。道路を挟んですぐそばの日枝神社が実は古墳であるという情報が記載されている。

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古墳情報 手作り感がすばらしい

 古墳!
 古墳は私の大好きなものの一つなのだ。以前川越に来た時はまだ古墳に目覚める前のことだったので古墳を探そうとも思っていなかった。思ってもいなかったものと遭遇できてうれしくなる。
 案内板によると、昔は喜多院と日枝神社にまたがるような大きな古墳があったそうだ。道路工事の際に切り崩されてしまって、いまは日枝神社の中にその古墳の名残がかろうじて残っているという。振り返って見ると確かに道路に面した一画が高くなっており、そこが古墳だなーということが一目で分かる感じになっている。

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古墳感がある

 とてもいい。
 なぜ地面が盛り上がっているとてもいいのだろう? なぜかは分からない。ほかの宅地と地盤の高さが違うと、でこぼこ感があっていいのだろうか。部屋の一部が盛り上がっていたら使いにくくてしょうがないだろうと思うが。でもロフト(中二階)はぱっと見で面白みがあってよいから、そういうことなのかもしれない。
「このあたりの空間に昔は古墳の山があったんだなあ」と、今の道路が走っているあたりに幻の古墳の墳丘を脳内で描いて悦に入る。
 さっそく道路を渡って古墳を見に行く。仙波山古墳という名前らしい。草が生えていて手入れがされているとは言いがたいが、そのあたりも野趣があって良いと思う。古墳は「築造当時の姿を再現!」とかではなくて、ほったらかしにされて草が生えているほうが趣があってよいと思う。
 舗装もされていないのでふかふかの土を踏みながら上っていく。

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野趣あふれる

全高は五メートルくらい。頂上には案内板があって、ここが古墳であるという文章が丁寧に記されている。さっきから散見する看板は、どうも教育委員会的なところが作ったオフィシャルな案内板ではなくて、私的な手作り感あふれる案内板のようだ。そこもいいと思う。作った方の熱気が感じられる。
 神社の中には底なしの井戸という井戸の跡もあった。今は涸れていて柵で囲まれているだけになっているが、かつてこの井戸にお札を流したら一キロ離れた池まで流れていったという伝説があるらしい。地下水脈がつながっているのだろう。

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 たぶんこれが井戸

 底なしの洞窟とか、底なし沼とか、底がないのは薄気味が悪くて良い。仮にその中に落ちてしまって、流されていってしまったらとても心細いだろうなと思う。
 つづいて喜多院へ向った。喜多院の中にも古墳があって、「慈眼堂古墳」という名前だった。境内の中に小高い丘があって、そこが古墳だという。見ると確かに盛り上がっているところがあって、その上にお堂が建っている。
 古墳に上る途中の階段に看板が立っていて、「この山の上夜間通行禁止」と書いてある。

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街路灯が立っているので、暗いから危険というわけでもなさそうだ。なぜだろう? なんとなく、夜は古墳のたたりがあるのじゃないかという気がしてわくわくする。古墳の神秘的な魅力ゆえの危険なのだろう。
 それから境内にある五百羅漢を見る。五百羅漢は喜多院の境内にあって、五百人の仏弟子の像があるスポットだ。ここは前回川越へ行った時にも見たけれどもとりあえず定番スポットだから見に来たという感じで、それほど印象には残っていなかった。今回もまあそんな感じだろうと思って見に行ったが、これが意外と良かったのだ。
 売店の横の狭い小道を入っていった先に門があって、塀で境内の他の区画とは区切られている空間がある。そこが五百羅漢である。「境内の他の区画から区切られた空間である」というところが良い。区切られた空間の良さなのだろうか? これが、境内の一角に五百羅漢の像がただ並んでいるだけだったらこうもよくはならないだろうと思う。塀で囲うというその行為によって、御利益というか、神秘感がいやますような気がする。やはり囲いは重要なのだ。もしかすると中身よりも囲いの方が重要なのだろう(ロランバルトもそんなことを言っていたような気がする)。
 中へ入る。像がずらっと並んでいる。

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なんとなく豊川稲荷の霊狐塚のことを思い出す。

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参考:豊川稲荷の霊狐塚

霊狐塚は塚そのものもいいけれども、端の方に、現役を退いた古いお狐様の像が並べられているところがあって、そこがまた良いのだ。お狐様の像なども往々にしてずらっと並べられがちだが、豊川稲荷のそれは古い貫禄のあるお狐様がずらっと並んでいたので、ただごとではない感じがしている。そこを思い出した。
 ここにも古い五百羅漢像などが隅っこに並べられていないだろうか、などと思って探すけれども、もちろんそんなものはない。残念だ。ここの五百羅漢像はかつて壊されて首だけ持って行かれてしまうというような惨事にも見舞われていたとのことなので、そういう像が残っていてもよさそうなものだが残念(残念がることではない)。
 ここの五百羅漢像にはこんな伝説もある。五百羅漢のうちのどれか一つの像の頭が、深夜に触ると生温かいというのだ。そしてその生温かい像は、触れた人の亡くなった親の顔に似ているという。
 いまは夜は五百羅漢の区画には入れないのでこの伝説は確かめようもない。けれどもそうしたちょっと不気味な伝説が残っているあたりもとても良いと思う。夜に喜多院に来て頭を触って、生温かい像を見つけてくるという、その人もなんだか不気味だ。なにをしてるんだ。でも亡くなった親の顔、ということから、切実なんだろうな。五百羅漢像にはたいてい、誰かと似ているというような話がついて回るものだけれども、死んだ人に似ているというのは、喜多院周辺でかつて死者と会えるみたいな信仰があったということなのだろうか? 興味深い気がする。
 羅睺羅尊者の像も見つけた。羅睺羅尊者は、十大弟子、十六羅漢にもエントリーしている、お釈迦様の実子でもある有名な方だ。その像容はなんと自分の胸を両手で物理的に左右に開いて、そこにお釈迦様の頭がビルトインしているという像なのだ。

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参考:万福寺の羅睺羅尊者

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いらっしゃる

「私の中には常にお釈迦様がいます!」という意味らしい。しかし、体の真ん中にお釈迦様の顔があるというインパクトのある像であることが多く、羅漢マニアの人はだいたいこの写真を撮るので有名だ。
 そのほか、すてきな像がたくさんあって良かった。こういう大量にある系の像は往々にしてひとつひとつ見ていくのがおっくうになってしまうものだが、今回は結局全部見てしまった。笑顔がいい像や、

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すごくいい

世をはかなんでいる像などたくさんあり、

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もうだめだ~という感じ、いやたぶんそんな状況ではないのだろうが

いちいち写真を撮ってしまう。ここはなかなかよいスポットだなと思い直した。

次回へ続きます