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変な修行論

ほんの5年前、と言うと今現在の自分との違い、その大きさに驚く。5年前というと、高校を半年で中退し鬱と薬で塗り固められまくっとるまさに真っ最中の時期で、当時の手記を見てもぶっ飛びすぎていて何を言っているのか全然分からないことが多々ある。それは当時の行動に対しても同じであり、何でやんのそれ?みたいなことを日常的にしていた。特に今ちょっと説明したいのは4年前の2014年の夏、「眠れない夜に山奥の公会堂まで歩き、何もせずに帰ってくる」という行為についてである。当時16歳の、骨オンリーみたいな男がですよ。一度も補導されなかったのがほんとに不思議である。
その公会堂は子供時代にペン習字を教わるために通っていた場所であり、当時はそこまで車で送迎してもらっていた。送迎ってそれは当たり前の話であり、なぜならとにかくすげー山奥で、2014年の俺、そいつが歩いたところ片道90分かかったからである。90分つっても往路はそれなりの上り坂、復路はそれなりの下り坂で普段使わない変な筋肉を使うのであり往復に要するは180分 つまり3時間、午前2時に家を出れば帰ってくる頃にはすっかり夜も白み始めており足は棒も棒、ああ足が棒になるってこういうことをいうのねよく分かりました、みたいな状態である。なんだろうな、その燃え尽きる感じを味わいたかったのかな。いや他にも目的があったんでしょう、と感じるのは当然のことだろうと思う。なんか写真とか撮ったり、夜を歩く爽快感を得たかったんじゃないですか、と思われるかもしれませんが、歩き始めた当時の手記を見る限り、歩く以外の目的が「ない」のである。それどころか「歩くこと」以外の目的、つまり写真撮影だとか菓子を買うだとか、そういう行為を意図的に排除しようとしているのである。それはあたかも歩くことを極限まで退屈に、味気ないものにしようとしているかのようである。なんで?
さらに呆れるのはその軽装ぶりで、家の鍵以外の例えばカメラや薬、財布などは一切持たずに外出していたということだ。それが「大切なものは持たない」という考えから来ていたらしいことは手記から読み取れるのだが、その考えをなんで深夜徘徊を持ち込んだんだろうか。徘徊、というよりはもう修行じゃないですか。いやほんとまさにその通りだと思う、修行にしようとしてたんじゃないかと思う。手記には歩いている「今」だけを痛感しろと書いてある。ゴールの公会堂を目指すこと、家に戻ることさえも考えずに、ただしんどい今、今、ずっと変わらない足元だけを見て歩けと書いてある。なんか今の自分よりずっと深いし、禁欲的だな。でも相当思いつめてたからこんなことになってたんだと思う。この変な修行は2014年の夏の間続き、たしか20回くらい行ったと思う。意外とそんなもんでした。でもキツかったのよ

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