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『無法松の一生』を見て驚いたこと

 録画しておいた「無法松の一生」(戦前版)を見る。驚いたのは、無法松、こと人力車夫の松五郎が、道で泣いている男の子を自宅に送り届けると、泣き虫で困りますと美しい母親が言う。その夫の吉岡という陸軍大尉がある日、急死してしまう。その後、松五郎は若くして未亡人になった吉岡夫人の泣き虫息子に、自分は一度しか泣いたことがないぞ、と言って、貧しかった子供時代の話を言って聞かせる。何か用事をいいつかって、父親が得体の知れない仲間たちと飲んだくれているお化け屋敷のような家(ヒッチコックの「サイコ」の家に似ている)にたどり着く。ガキが来たぞと言われ、出てきた親父の前で大泣きしている松五郎少年の泥だらけの裸足がうるつ。それは近所の親切な老夫婦から食事と一緒にもらった草鞋も、なにもかも失くしてしまった、という意味だが、息子に言って聞かせるが――イメージショットだからというばかりでなく――、息子にその意味が通じるわけはない。司会、その後、吉岡夫人と息子と三人で、観戦しているうち、徒競走に飛び入り参加することになり、見事、一着になる。母親と一緒に松五郎を必死に応援していた息子は、これから前向きに生きることができるような気がすると言う。松五郎は一着の賞品としてカバンをもらうが、こんなものは文字も読めない私には不要だ、学問をして立派になる息子さんにあげてください、と言う。その息子もやがて大学に進み、恩師と一緒に故郷に帰ってくるが、折しも博多名物の祭りの真っ最中で、若者が山車の上で太鼓を叩いている。あれが有名なナントカ太鼓だね、と息子の恩師の先生が言うと、あんなのは本物ではない、わっしが見せてやりましょうと言って、山車によじ登り、太鼓を披露するというのがクライマックスで、その後、松五郎は、親父と同じように心臓麻痺で死んでしまうんだと言いながら続けていた暴飲暴食がたたり、奥さんが松五郎に払った車代から、何から、すべて息子名義の預金通帳を残して死んでしまう――という話で、制作は1937年、つまり昭和十七年で、吉岡夫人に自分の思いを告げようとするが「自分の心は汚れてしまっている」と言って断念する(らしい……)場面はカットされている。それを復活させたのが戦後の「無法松の一生」で、カンヌで金賞を取るけど……私は見ていないけど……戦前の「無法松の一生」の方がいいのではないか。そもそも「自分の心は汚れてしまっている」という意味がよくわからない。ただ「役に立てばいい」というセリフがあって、ヴェルイマンの「魔術師」の、これも飲んだくれの役者の最後のセリフ「役に立ちたかった」と同じだ。ここはそう思えば思える程度だが、は映画というメディアは、世界的な言語なんだと思った。
 なお、余談ということになるが、「無法松の一生」が検閲を受けた昭和十七年に徳田秋聲の「縮図」が検閲を受け、作品は未完で終わったが、その「縮図」の冒頭に銀座の資生堂バーラーで、人力車が並んでいるのを見て、明治の遺物が復活していると皮肉っている(レイワの時代にも復活しているけど……)。そう、「無法松の一生」は明治時代の話なんだ。運動会のシーンもいかにも明治時代を偲ばせる風俗だ。少なくとも昭和十七年ではない。ここら辺りの時代感覚を稲垣浩が戦後も維持しているかどうか……戦後版の「無法松の一生」に食指がのびないのは、その辺に不信があるからだ。ちなみに写真の吉岡少年は長門裕之だそうだ。この少年は半分、主人公みたいなものだが、さすがにうまい……のだろうな。いかにも弱虫だと思ったし。その右奥が、吉岡夫人。戦後版は高峰秀子だそうだが……悪くはないけど……。
 書き残していた。松五郎の回顧シーンは、十五分か、それくらいだけれど、前衛映画みたいな構成で、稲垣浩がなんでこんなことをと思った。でも、考えると「鴛鴦歌合戦」をつくった伊丹万作のシナリオなので、こういう場面もあり得るのかもしれない……と思ったら「鴛鴦歌合戦」はマキノ雅弘でした。ちなみに伊丹万作がシナリオを書いたが、病気になったので代わりに稲垣浩が監督をしたそうで、実質的に伊丹万作の映画と言っていいだろう。その伊丹万作の息子は伊丹十三で、伊丹十三ならつくりそうな画面だと言うのは、ちょっと強引すぎるかな。

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