炎と雨 第7章(全7章)

 結局、京子は藤田とアネモネのなにをわかったと言うのでしょうか。どんなに親密になろうと、人の心なんて全部はわかりません。でも、わかろうとする努力を人は愛と呼ぶのかも知れませんね。
 炎と雨の最終章、ごく短いですがこれでフィナーレです。


「煙草、吸っていいですか?」
 京子は教授の隣に座っていた。
 明日から雪が降るという予報だ。京子も教授も、来年の雪解けまでこの白糠海浜には来られなくなる。少なくとも、京子は来るつもりはなかった。
「…結構ですよ、別に、煙草は嫌いじゃないですから」
 教授は意外そうな顔をしてみせたが、京子の神妙な面持ちを瞬時に察して許した。だがやはり気になるのか、京子の手つきをじっと見ている。
 京子はライダースーツの胸ポケットから半分折れ曲がったソフトパックのピースを取り出し、巻紙が少しよれた一本を取りだして、マッチで火を着けた。ただ風が強く、一度つけては不完全燃焼を起こし、都合三本目でやっと火が着いた。
「マッチで吸うの、慣れてなさそうですね」
 教授が京子の目を見ながら訪ねてくる。
「そう、そうですね…。慣れてはいないかも知れないです」
 言われてから京子は、教授が皮肉を言っているのではないかと思った。
「あ、ごめんなさい。隣で煙草を吸われるのって嫌ですよね。臭いですよね」
「煙草臭いのは両親が吸っていますから慣れています」
「…お気遣いありがとうございます」
「しかし…」
 教授は一息、言い淀んだ。
「しかし、なんですか?」
「煙草は美味しいのですか?両親が吸っているのを昔から近くで観てきましたし、煙草を美味しそうに吸う学友もいましたが、僕にはどうも、ただの煙のような気がして…」
「うーん、美味しくは、ないですよ。ただの煙ですから。私の吸っている煙草はピース・オリジナルと言って甘いバニラのような香りがするのが特徴の煙草ですけれど、バニラアイスのような濃厚な味はしません」
「ではなぜ、吸うのですか?」
「なぜでしょうね…。自分でもよくわかりません。私が吸い始めたのは友人の影響ですし、薬物の作用だっていうのが本当の所だと思います。ただ、理由を付けようとするならば、そうですね、弔いですね」
「弔い?煙草を線香に見立てているのですか?」
 教授は珍しく驚いた顔をしてみせた。
「うふふ、そうですね、ちょっと滑稽ですよね」
 京子は自嘲的に笑う。
「前に、死生観の話をしたじゃないですか。自殺がどうとか、私の友人がなんとかって。その時に考えさせられたんです。私、友人が死んだのに葬儀にも行って居なければ、お墓参りすらしていなかったんです。それで、本当はお墓ぐらい行けば良かったんですけど、どうしても行く気になれなくて。いえ、その友人は本当に掛け替えのない友人でした。だから、いや、だけど本当の本当にその友人の死を受け入れらていなくて。それで、これなんです」
 京子は煙草を少し傾けて見せた。
「これ、ですか」
 教授は訝しげに煙草を繁々と見つめた。
「…二階堂先生、一本ください。僕も吸ってみます」
 京子は目を見開いた。呆然とした。そして目を下に伏せて、薄らと笑いながら俯いた。
「教授も、私とおんなじことを言うんですね」
「二階堂先生と?」
 京子は口紅の付いた煙草を教授の口に押し当てた。教授は一瞬目を丸くしたが、大人しくそれを口に咥えた。
「ストローを吸うように、口の中に煙が入ったらそれを深呼吸するように…」
 教授は京子の話を聞きながら煙草を吸う。
「ゲッホ、ゲホオエ!」
 煙と唾液を同時に吹きだした。
「美味しくないですよ、これ、どうしてこんなものを二階堂先生が吸うのですか?先生が信じられませんよ」
「うふふ、私、グレーだからね」
「グレー?」
 なにが、と目で訴えかける教授に京子は答えた。
「そう、グレーなの」

 一時間ほど二人で海を見つめていただろうか。
 その間にも京子の煙草は、ハカが進み、黙々と吸殻が携帯灰皿に溜まって行った。まだ煙草の件を引きずっているのか、教授は黙ったままだった。
対して京子は何か少し、微笑んでいるような柔和な表情をしていた。
「ねぇ、教授。教授なら、炎と雨と言われて、何て答えますか?」
「なんですか、それは。何かのメタファーですか?」
「いえ、心理テストです。炎と雨、から連想するものを答えてください」
「そういう観念的なものは苦手です。
「いいから、答えてみてください」
 教授はうーん、と小首をかしげて腕を組んだまま悩んだ。
「炎は、そうですね。先ほど先生が煙草を吸うときに使ったマッチ。あれがしっくりきます。ガスコンロやライターのような強火では無くて、ゆっくりと、けれどしっかりと燃える、いや、燃ゆると言った方が抒情的ですね、それです。雨は、明日から降りそうですよね、雪が。でもまだ季節的に、雨の可能性もありますし、雨は、雨しかありません。今この場に居る事が、雨を感じます」
「それじゃあその二つから連想するものは?」
 京子が急かす。
「その…何というか…」
 教授は迷ってから答えた。
「愛、ではないでしょうか」
 そして直ぐに付け加えるように言った。
「いえ、その、男女のそれではなくて…。いえ、先生が女性として魅力に欠けると言ったそういったことではありません。その、純粋な愛です。僕は先生が煙草に火を着ける姿を美しいと思いました。そして、雨が降りそうなこの場で、もう少し先生と海を眺め続けていたいと思いました」
「それが、愛だと?」
「はい」
「教授の考える愛って、なんですか?」
「愛は…繋がりです。僕が居て、隣に先生がいて、海があって、きっとその先に、ここから先だとオーストラリアになるでしょうが、そこにも人が居て、同時にたくさんの人々が僕の前には広がっていて、そしてそれが繋がっていて…」
「それが愛」
「はい…すみません。やはり観念的なものは苦手です」
「やっぱり愛かぁ」
 京子は中腰の姿勢からすくと立ち上がり、そしてバイクの方へと足を運んだ。
 後ろの方で「すみません先生、もしかして気分を害しましたか?」と教授が何か話しているが、そういう訳では無かった。
 炎と雨。
 それが愛であると言うならば、京子の取る行動は一つしかなかった。
 バイクのエンジンを始動させる。燃える思いを加速させ、京子はヘルメットを被らずにアクセルを回した。
 急発進したGSX―R400は後輪を滑らせ、京子の身体を揺さぶる。
 8年間、この車体と行動を共にしてきた。この車体だからこそ、自分のこのどこまでも突き動かす衝動を受け入れてくれるはずだ。
 バイクのヘッドライトを海へ向けて発進した。

 この車体と共にどこまでも、どこまでも突き動かす衝動を…。
 そうして京子は、助かっていく。

「ところで…藤田さんはアネモネを愛していたんですか」
「ああ、そうだね」
「愛ってなんですか?」
「京子さん、恋したことは?」
「ありますけど、振られたり、自然消滅したり…」
「そうだね、それが恋だ」
「愛も恋も変わらないのでは?」
「互いに両手を取り合い、目と目を見つめ合うのが恋。」
「それじゃあ愛は?」
「手を取り合い、共に明日を見るのが愛。」
「藤田さんは手を取りあえたんですか?」
「うん、手は取り合えていたんじゃないかな。
ただ、アネモネが見ていたのは明日じゃなく、昨日だった…そう、思うんだ」

「バハッ!」
 海に目がけて突き進んだバイクは砂浜にタイヤを取られ、途中で横転した。そのまま京子は自分の身体だけ海中へ放り出された。
「アブッ、ブハッ、ウエ!」
 海水を飲む。塩辛い。そして何よりも11月の水温は肌を刺すように痛かった。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
 水深は浅く、京子は海中に放り出されたと言うよりも、ただ海辺で転んだだけのようではあったが、溺れかけた。何とか地に足が着き、濡れた身体のまま砂浜へ上がり、そして大の字で横になった。
「先生、何しているんですか?」
 京子に教授が駆け寄る。
 京子はまだ海水が胃の中に残っている様な異物感を覚えて気持ち悪くなったが、何とか言葉を紡ぐことができた。
「殺してやりました、自分を」
「そうです!あれは自殺行為です!」
 教授の声が怒気を孕んでいる。
「ははは、げほっ…。でも、生きていますよ」
「そうではなくその行為自体が…本当に、先生は…」
 教授は今になって気が緩んだのか、その場にへたり込んだ。
 京子は笑って叫んだ。
「藤田さんのバーカ!ざまぁみろ!愛してやったよ、この世界丸ごと」
 そう言いながら、寒さに身を震えた。

炎と雨 完

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?