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「知る」だけでいいんです。

 僕は医師ではないけれど、元心理士ではあるので、ほんのちょっとだけ精神疾患についてお話することができます。できます、というか今回はさせて欲しいのです。自分には関係ないよ、という方こそぜひ読んで欲しい。なぜなら、最近「関係ない人に間違った知識を与える」危険性があるお話をする人が(主にツイッター上に)増えているからです。あなたが知らない内に間違った知識を吸収して、いつの間にか偏見だらけの偏屈マンになって欲しくない。そんな思いで今日は書き綴っていきます。

 さて「精神疾患」と一口に言ってもこれは広い使い方をされている言葉です。代表的なものに「うつ病」「双極性障害(躁うつ病)」「統合失調症」などが挙げられます。例えば「精神病」と言うと、これはほとんどの場合「統合失調症」を指す言葉でして、少し意味が違ってきます。これの違いなど細かいことは置いておいて、今日は脳の働きの変化によって症状が現れるという意味での「精神疾患」を広く浅い意味で使っていきます。

 精神疾患はとても身近な病気です。例えばうつ病は日本において生涯有病率が(低く見積もっても)約3%くらいと言われております。100人の内3人。約分すると33人の内1人。つまり学校でたとえるならクラスメイトの一人は生涯でうつ病を患う可能性があると言うことです。精神疾患はとても遠いように思いますが、ごく身近な存在なのです。これからの人生、そのクラスメイトの一人が「あなたである」可能性だってもちろんある訳です。

 そんなごく身近なはずの精神疾患は社会では全く目立ちません。なぜなら「目に見えない」病気だからです。たとえば身体障害は目に見えて理解できます。車いすや白杖、補聴器などを見かけると、すぐに「どこが悪いのか、自分はどう配慮できるのか」がわかります。階段で困っている車いすの方には手を差し伸べられますし、白杖をついた方にはそっと道を空けます。補聴器をつけた方には声を大きくゆっくり話すか、伝言板を使うなどの配慮が誰だって想像がつきます。
 しかし精神疾患は見た目だけでは判別できません。近年になってヘルプマークが誕生し、それをつけてやっと「どこかが悪い方なんだな」という想像がつくくらいで、それでも精神疾患であるとはすぐにわかりません。わからないので、どう配慮しようともできません。今日、電車で隣に座った人が実は精神疾患でとても困っていた、と言われても「全くそうは思えなかった」とみなさん思うでしょう。実は同僚の一人が薬を飲みながら働いている精神疾患かも知れません。しかし、あなたは言われるまで気づかないでしょう。

 これらの例えは決してあなたを否定したり無理解だと諫めている訳ではありません。これはそのようなことが現実として起きており、精神疾患は目立たないがゆえに周囲が「どう配慮して良いかわからない」という問題をずっと棚上げにしてきたというお話です。
 では実際に精神疾患についてどう配慮すべきか、というお話になりますが、これは本当に現代でも答えがはっきり出ていないものになります。と言うのは、精神疾患は個人によってどのような症状が頻出するのかかなり異なりますし、体調の上下もありますし、配慮の方法が基本的に直接的なアプローチ(階段をリードするとか道を空けるとか)は少ないので、人によって配慮の仕方が細やかに異なっているからです。
 「見た目で判別できない、どう配慮して良いのかわからない、個人によって配慮の方法が異なる。それじゃあ、私たちにできることはなにもないじゃないか」と思われるでしょう。確かに、それはひとつの側面としてあります。
 「関わらない」というのもひとつの配慮だと、私は思います。配慮というのは、なにも一方向だけの問題ではないと思うのです。よく配慮は「思いやり」だとか「気遣い」という言葉に変換されますが、私は配慮は「みんなが幸せになる方法」だと思っています。「みんな」です。健康な人もそうでない人も等しく幸せになる方法です。配慮しようと関わることで、配慮する側が不幸になるのであれば、最初から関わらないことが配慮であると私は思います。
 しかし家族が、友人が、同僚が、あるいは身近に関わった人が、精神疾患になった時、関われないでいられるでしょうか。助けを求めてきたときに無視することで幸せと言えるでしょうか。社会生活を送る上で、配慮できなければいけないことはたくさんあります。

 それでは結局、私たちは精神疾患とどう付き合えば良いのか。これは先ほど言ったとおりに絶対のモノはありません。しかし、最低限のものはあります。それは「知識」です。
 知識と言っても、なにも精神医学の専門書を読めという話ではありません。世の中に売っている、あるいはネットにある情報で、うつ病や統合失調症について調べるのです。そうすることで「目に見えなかった」精神疾患が「目に見えてきます」。ドパミン受容体があーだこーだで~、なんて知識は必要ありません(興味があるなら別ですが)。どのような症状が出て、どのように苦しんだり困ったりするのかを「知る」だけでいいのです。目に見えず、どのように接すれば良いかわからなかったことを知ると、どのように自分が行動すべきかがわかります。理解すれば行動はできるのです。
 精神疾患については「知ること」が「配慮」です。無駄な知識をつけたくない? いいじゃありませんか。荷物にはなりませんよ。雑学くらいに思っていただけても良いのです。
 急に同僚がうつ病になって薬を飲みながら働いているとしましょう。「知らなければ」どのように声をかけてよいのか、傷つけてしまわないか、あるいは無神経に扱ってしまわないかとビクビクしてしまいます。しかし、うつ病にはどのような症状が出て、どのように苦しみ困っているかを知れば、おのずと自分の行動が決まります。急かさないだとか、大声を出さないだとか、そういった最低限のことすら知らなければ、なかなか行動に移せないものです。そして、自分の行動に迷いが無ければ、自分も楽です。ビクビクしながら話さなくて良くなります。自分も相手も幸せ。これが配慮だと、私は思うんです。

 しかし、そして、ここから本題になるのですが。
 世の中、間違った知識があります。
 特に精神疾患の多くは原因がはっきりしていないため、確実に「そうだと」断定できる部分と、「そうとははっきり言えない」としか言えない部分があります。その部分の隙を突いて金儲けしよう(と思っているのか思っていないのかわかりませんが)としている輩が結構います。

 例えばトンデモ医療本。
 どこかの国のよくわからん大学のはっきりしない実験で「うつ病にはこの食品が有効だ!」と一を百にして声高々にして、生姜汁を飲ませたりヨーグルトを食わせようとします。特にお子さんが精神疾患であるお母さまたちに絶大な影響があります。藁にもすがる思いなのでしょう。私も母にひたすらヨーグルトを食べさせられた記憶があります。母を責めることはできません。
 しかし特定の食品に優れた薬効があるならば、とっくに医師から処方されるか摂取を推奨されています。特にうつ病や双極性障害のうつ状態の時に「これを食え、あれをしろ」と強制されると、本当に心の底からさめざめとしてきて惨めになるので、これは本当にやめていただきたいと切に願っております。
 けれど、まだトンデモ医療本はかわいいものです。本当に気を付けていただきたいのは、次の二点です。

「断薬」
「完治」

 このふたつの言葉は魔法です。そして、魔物でもあります。
 先ずは「断薬」について。
 治療が功を奏し、医師から「薬物治療は終了です」と言われることはあります。しかしそれは「医師の判断」です。医学的にそう判断したから薬を飲まなくてもいいというお話です。勝手にお薬やめていいという話ではありません。
 特に精神疾患に関わる薬は副作用が強くでることがあります。私も初期は強い倦怠感や吐き気、膀胱が硬くなっておしっこが出にくいなどがありました。しかし飲まなければもっとつらいので、嫌だな~と思いつつ飲んでいました。今では、薬も変わってほとんど副作用も出ず楽に過ごしていますけれどね。
 その副作用がつらいとか、あるいは「薬を飲み続けなければならない自分」に嫌気がさして、薬を飲みたがらない人は一定数います。そしてその一定数に「断薬」という魔法で魔物の言葉が魅惑的に映るのです。
 私が大学の頃に習った知識(10年前)なので、最新の知識とは異なると思いますが、「勝手な断薬」によってどのような効果が出るのかお話します。
 うつ病で勝手な断薬をすると、いったん症状が治まっても(寛解(かんかい)と言います)30~50%は再発すると言われます。そして、再発を繰り返すとその再発率はどんどん上昇していき、90%再発するようになってしまいます。そしてその後はどんなに薬を飲みなおしても再発率は下がらないというのです。
 勝手な断薬は一瞬だけ「気分よく」なりますが、後に地獄をみます。農業に従事して断薬したら治った!とか、高級なカウンセリングをして断薬したら治った!というのは、後々「ほとんど再発して」ずっと苦しむのです。もちろん再発がなく生涯を終える方もいらっしゃいます。ですがほんの数%の話です。そしてそう言った方々が「断薬して治った!」と声高々に叫ぶのです。それが「自分だけ、偶然、特別、まれに」だとは思いもしないで、人を地獄に招き入れてしまうのです。

 「完治」のお話です。
 現代の医学では精神疾患に「完治」はありません。その代わり「寛解」(いったん症状が落ち着くこと)という言葉を使っています。精神疾患は再発率が高い病気なので「治ったんじゃなくて再発してないだけと考える方が妥当」だと考えられているからです。実際に何十年経ってから再発することもあるので、やはり完治という言葉は使われないのでしょう。
 しかし「完治」は本当に魅力的な言葉です。もし私が1000万円手に入った瞬間に「その病気1000万円で完治してあげる」と言われたら迷わず支払うと思います。5000兆円だったら病気と付き合います。
 それほど精神疾患にとって完治とは喉から手がでるほど欲しいものです。しかし「断薬」同様、「完治」も無理な話です。
 完治したという方は、基本的に勘違いをしている方が多いです。勘違いは二通りあります。
 まず「再発してない期間が長いだけ」の人。特に「薬を飲んでいない」とセットの方が多いです。治療が上手くいって、薬を飲み終え、数年、あるいは十数年経つと人は喉元の熱さを忘れるようです。「自分は完治した!」と思ってしまいます。でもそれは絶妙なバランスの上に経っているだけのことで、根本から病気が無くなった訳ではありません。
 次に、これが本当にありがちなのですが「調子が良い=完治と考える方」。特に双極性障害の躁状態時に多いです。基本的に精神疾患は体調・精神面の両方で不調です。しかし人間ですから、調子の良い日も悪い日もあります。そして調子が良い日が長く続くこともあります。さらにさらにその調子の良さが全て病気のせいだったりすることもあります。それが双極性障害の躁状態であることが多かったりします。「調子がいい気分がいい→病気が改善された→長く続いた→完治した!」と、思ってしまいます。
 それが悪いとは思えません。誰だって精神疾患は治りたいと思っています。私だって常に思っています。そしてもし治るなら!その経験を分かち合いたい!苦しんでいる仲間を救いたい!と思います。

 その間違いを知ってもらいたい。

 今日、みなさんに知ってもらいたいのはコレです。

 「断薬」「完治」という言葉を使って「他人を巻き込む」人に注意して欲しいということです。
 放ってはおきたくないですが、その人の人生です。勝手に断薬しようが、完治だと思い込みたがろうが、その人の人生です。口出しできません。
 ですが、その勝手な思い込みで「他人を巻き込もう」とするのは全く許せません。
 「高級なカウンセリングで断薬しながら完治した!みんなも薬や病院は辞めてカウンセリングを受けよう!」このようなツイートやブログの記事が千も二千も評価されているのが私は悲しくて仕方ありません。
 薬は苦しい、完治したい、そういう気持ちは痛いほどわかります。わかるからこそ、そういった間違った方法に引き寄せられてしまうのです。治るはずだったものが再発をどんどん繰り返してしまうのです。あなたの真似をして再発がどんどん進んで繰り返す人が出たら、どうすんの?と。

 もう言っちゃいますけど、その話が仮にね?本当だったとしてね?それはあなたが偶然たまたま特別まれにそうなっただけの話でね?その期間が長いだけって話でね?っていうか、そもそも「精神疾患ですらなかったんじゃないの?」と、口にださずにおきたかったけど出しちゃった。

 みなさん、お願いします。
 ほんのワンクリック。精神科病院のゆる~いコラム程度でもいいんです。ちょっと検索するだけでいいんです。「知る」だけでいいんです。そうすればそれだけでかわいそうな人が減るんです。みなさんも知識がつくんです。「目立たない」から「配慮」されなかった精神疾患に、どうか陽の目を。

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