炎と雨 第6章(全7章)

 誰かを殺したいほど憎んだことはありませんか?それが過去の話だった時、その「憎しみ」はどこへいくのでしょうか。消えてしまったのか、それともまだどこかに漂っていて、いつかまた自分に戻ってくるのか。
 それは誰にもわかりません。「憎しみはどこへいくの?」という問いに、あなたはどう答えますか?



 

 京子は通夜も葬儀も参加しなかった。
 薄情な心では無く、単に何もする気が起きなかった。
 会社も2週間近く休んでいる。総務部の林がアパートまで様子を見に来てくれたが、髪も服もボロ、咥え煙草で応対した京子に呆れて帰ってしまった。
 ここ2週間、煙草ばかり吸っている。3カートンまとめて買っておいた。
 空腹は、デリバリーピザやチキンを頼み、それを何食かに分けて食べるので外出することも無い。ブラジャーすらめんどうで、暖房を最大にしてショーツとTシャツだけ着てただ窓辺に座って煙草を吸う。そんな日々が続いている。
「会社、辞めよっかな…」
 もし窓から見える道路に、GSX―1100Sが横切れば、直ぐにでも退職の電話をかけようと思った。しかし、もうそろそろ雪が降りそうな季節に、ましてやそんなレアなバイクをこんな住宅街で、乗る人間は皆無だった。
「煙草、うめぇ…」
 きっと髪も肌も煙草臭いのだろうとぼんやり思うのだが、誰と会う約束も無いので風呂もいつ入ったかおぼろげだ。その内、会社の方から解雇通知を送ってくるのだろうか、京子はその辺の頓着がなく、知らなかった。知ろうとも思わなかった。知ったところで、今はどうしようもなかった。
 ただただ、窓辺で煙草を吹かす日々。

 ただただ、窓辺で時間を潰していた。
 喫茶エルシドのコーヒーカップは少し小さい。私はもう3杯目を頼むつもりだった。味自体は良いのだから、この上なく勿体ない。
 釧路市のメインストリートである北大通りから一本外れ、線路の上を覆う大きな陸橋が中心となる通りに喫茶店、エルシド、があった。
 愛国町の周囲と飲み街である末広しか店を知らなかった私は、この小さい店にどれだけ深い歴史があるかは知らない。しかし、その佇まいから、初めて入る「純喫茶店」を体験し、昭和時代にタイムスリップしたかのような装飾の数々と、メニューの少なさに確かな年季を感じた。
(結構、落ち着く店かも…)
 一人で居酒屋に入るには躊躇わない口だったが、見知らぬ喫茶店で一人コーヒーをすするには抵抗があった私には、いてらく以来、落ち着ける店だった。
 窓辺と言っても、とても小さな丸い窓で、ガラス自体が厚いのか店の向かいに面している道路に何があるのか、はっきり見えない。けれど、全くつまらないという訳では無く、時折動く何か、人物なのか乗り物なのか判別が着かないけれど、を想像して当てようとする独りだけのゲームは新鮮だった。
 世の中、不便な方が楽しいこともある。
 しかし、待ち人は時間通りに現れなかった。30分は遅刻している。ガセネタだったのか、それとも手の込んだイタズラだったのか、私は判断がつかなかったが、どちらでも良い様な気がしていた。なぜなら、久しぶりに「アネモネ」という単語を聞いたからだ。花の名前では無く、彼ははっきりと「人物」であると明示した。アネモネを知っている人物が、私の待ち人だった。

 ただ、アネモネが死んだことは知っていた。
 どうやら自殺であることも、分かっていた。
 新聞社に勤めていると、地域のニュースはどんな些細な事でも入って来る。若い女性が死体で発見されて、なおかつ珍しい苗字であれば、新入社員の私でも目が着く。そしておぼろげながら、その名前が、アネモネの本名だったと遅蒔きながら気づき、もう一度取材メモをじっくり読んで、確信した。
 なぜアネモネが釧路に…
 疑問はそれしか浮かばなかった。
 一昨年の暮れからふつりと連絡が取れなくなり、それから1年近く経っていた。私は臨床心理士から新聞記者に鞍替えし、新人研修を受けた直後くらいの時期だった。取材メモという新聞社独特な様式で自殺の記事が目に飛び込んできたのは、アネモネが初めてだった。
 どうして、死ぬ前に連絡をくれなかったのだろうか。
 そのように思ったのは、ずいぶん後になってからだったと思う。とにかくその時は、どうして釧路にいたのか不思議でたまらなかった。だから現実味が無いと言うか、死んだことは知っていても、理解する事が難しかったのだと思う。

 果たして待ち人は、40分遅れてやってきた。
 店内をゆっくり見回している。
 30代くらいの、顔はそれなりに整っているが、どこか自信を置き去りにしたような不安定な容姿の男性だった。黒いジャケットにワイシャツ、灰色のスラックスを着ている。
 他に客はいないから、私だとすぐにわかるようなものだが、なかなかその男は私に気付かなかった。マスターと何やら話し込み、そして思い出したかのように私の下へやってきた。
「二階堂、京子さん…ですね?」
「はい」
「連絡を差し上げた藤田護と申します」
「よろしくお願いします…」
「こちらこそ…」
 お互いに目礼をして同じ席に座った。
 藤田さんはウインナーコーヒーを頼んだ。私は甘党の男性に少し偏見を持っていて、最初に振られた男が甘党だったからという至極私的な理由だったのだけれど、藤田さんに対する最初の印象はあまり良くなかった。
「それで、アネモネに関する話って言うのは…」
 良い気分では無かったので、話題を早めに切りだした。
「話を始める前に、大変失礼だとは思いますが、二階堂さんのことを、京子さんとお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「は?」
 全く予想外の申し出に、私は素っ頓狂な声を出してしまった。
「アネモネは二階堂さんの話題をするたびにいつも京子、と呼んでいました。私の中では二階堂さんではなく、京子さんという印象しか残っていないのです」
「そう、いうことですか…」
「どうか、受け入れて頂けるでしょうか?」
「…そういうことなら」
「ありがとうございます」
 京子さん、と呼ばれるのは悪い気がしなかった。社会人になってから下の名前で呼ばれることなんてほとんど無かったから、なんだか懐かしい香りにそのまま飛び込む様な、そんな錯覚を覚えた。
「藤田さん、ですよね。あの、アネモネとはどういった関係だったんですか?」
 当然の疑問を私はぶつけた。
「アネモネとは婚約していました」
「婚約、ですか」
 これには本当に驚いた。アネモネには友人はおろか、知り合いにすら男性が居ないものだと思い込んでいたからだ。それにそんな大事な話、どうして私に報告すらしてくれないのだろうと、少し惨めにも思えてきた。だから、すぐに話題を変えてしまった。
「その、なぜ釧路に…」
「札幌で少し、めんどうなことがありました…。それで、アネモネが桜木志乃の小説が好きで、どうせ移り住むのなら釧路で、と…」
「意外に俗っぽい所があったんですね、アネモネって」
「そう、なんですよね」
 そこに遅れてウインナーコーヒーがやってきた。藤田さんは一口すすり、「美味しい」とだけ呟いた。しばらく、二人で黙った。
 私はまた窓を見た。赤い斑点が左から右へ移動している。
 郵便局の車だろうか、いや、それにしては小さいようにも見える。小学生のランドセルだろうか…。また独りで想像するゲームを楽しんだ。
 その間、藤田さんはどうしていたのだろうか。ちらと見えた視線では、私をじっくり観察しているようにも見えた。けれどそう思うのは私の自意識過剰なのだろうと思い、窓の外に強く意識を向けた。
「京子さんは、カラオケなど行きますか?」
 突然、藤田さんが口を開いた。
「カラオケ…いえ、もう何年も行っていませんけれど」
 そして藤田さんはまたウインナーコーヒーをすすって、私に提案した。
「エルシドは落ち着きますが…。その、歌いませんか、カラオケで」
「あ…はい」
 私はなぜか頷いてしまった。

 私はバスに乗ってきていたので、藤田さんの車に乗せてもらってカラオケに行くことになった。自分でもなぜその時に了解したのかはわからない。今思い返しても、特に理由なんてなかったのかも知れない。
 もしかしたら単に私も、歌いたかっただけなのかも…。
 スマートフォンで検索して、近くのカラオケ店へ向かう。色々な場所があったが、結局私の家の近くにある居酒屋カラオケ店に行くことにした。
 個室に入ってから、しばらくは二人でなんの曲目も選ばなかった。
「歌わないんですか、藤田さん?」
 私のその一言で、自分から提案しておきながら歌わない、ということに気付いただろう藤田が先ず歌い始めることにした。
 曲目は、イギリスのロックバンドで有名なQUEENのSomebody to love だった。フレディ・マーキュリーのハイトーンでワイルドな声質と、他メンバーの美しいハーモニーが醍醐味のとても難しい歌だ。
 けれど藤田さんはおくびにも出さず、その曲を選択し歌い始めた。

 僕は毎朝起きる度に、少しずつ死んでいくんだ
 足元がブレて辛うじて立っている
 そして鏡をちらと見ると涙が出てくるんだ
 神様、僕が何をしたって言うんですか
 僕はあなたを信じ切って生きてきた
 でも、安らぎは一向に訪れない
 あぁ、神様!
 誰か、誰でもいい
 お願いです、愛をください

 藤田さんは、上手だった。並みの素人では無い事を感じ取れた。
 だがそれ以上に、その歌詞と旋律がとても悲しいように思えた。
 私は、レベッカのフレンズを歌った。
 我ながら無意識の選択だったと思う。
 
 その日、私たちは深夜2時まで歌い尽くした。

 たん、たん。
 そんな音で目が覚めた。どうやら窓ガラスに身体を預けたまま眠っていたらしい。外は雨が降っていて、ガラス戸に当たる度に雨粒が、たん、たんと鳴らしていた。自分自身は濡れていないのに、何かしっとりとした感覚を京子は覚えた。
 床に転がっている煙草の箱を拾う。一本咥え、マッチで火をつける。今ではライターも持っているが、これは藤田に倣った。また、一口目だけは、燐の香りが煙草に伝わって、美味しく感じる。吸いたい時に吸える方が良い。
 これは誰かに倣ったと言う訳では無いが、京子は煙草の吸い口を人差し指と親指でつまみ、煙草全体を手で包み込むように持つのが癖となっていた。その方がなんだか煙草をしっかりと抱きしめられるように思われて、京子は好んでそのように持った。
 ピース・オリジナルは吸い口が甘い。甘いと言っても、国産フィルター煙草の中で最もタールmgが多い。煙草の世代である年配者ならともかく、若者向けの煙草では無いかも知れない。
 それでも京子は他の煙草に浮気する気にはなれなかった。
 たん、たたん、たたん、たたたん
 雨脚が強くなってきたように感じた。今年最後の雨かも知れない。
 もう10月も明日で終るのだ。バイクも冬支度をしなければならない。タンクにはガソリンを満タンにして、キャブレターからはガソリンを抜いて、毛布でくるんでからカバーをかける。タイヤが土で劣化しないよう、安い脚立を下に轢く。
 手間はかかるが、長く乗るためにはこうしなければならない。
「炎と雨か…」
 藤田が言っていた言葉を思い出す。
 雨は今、目の前で振っている雨のことだろうか。それとも何かの比喩、メタファーだったら想像もつかない。
 泣いている?涙?
 炎とはなんだろうか。燃え盛る情熱?それとも焚き火か何か?
 …憶測でしかない。
 藤田は肝心の、アネモネがなぜ自殺したのかということを、言わないでこの世を去った。故人を悪くは思いたくないが、少し、恨む。
 しかし直ぐに思い直して、藤田のことを悲しく思った。墓まで持っていく話だったと言っていた。自分に話す前に、やはり辛くなってしまって自殺を選んだのだろうと、京子はそう思うより無かった。
 しかし、藤田が自殺をした本当の理由はなんだろうか。
 警察から幾度も聴取を試みたが、遺書めいたものは何ら残っていなかったという。ただ、睡眠薬や向精神薬の摂取量が尋常では無かったということは聞くことができた。いてらくで飲んだデュロキセチン塩酸塩だけではなく、十数種類の薬物を摂取していたそうだ。決して違法な薬物は1つも無かったが、処方に問題があるとして、一人の医師が釧路地検に書類送検されている。
 そういえば藤田は、元々、自殺する事ばかり考えていたという。うつ病は死んでしまう病気だ。生きる意味を見いだせなくなり、あるいは生きていることが極端に辛くなってしまい、思考を死に結び付けてしまう。一歩間違えば、死に至る病だ。
 よく考えてもみれば、自分は親しい人間を二人も自殺で亡くしている。そう思うと余計に、ハカがすすむ。釧路の年配者が使う「煙草がすすむ」という意味だそうだ。
 可愛そうな人間だとは思わないが、珍しい人間だとは思う。
 ただ今は、煙草がうまい。それしか考えられなかった。

 3カートン目に手を伸ばして改めて部屋を見回すと、汚かった。
 服は、正直な所ほとんど着替えていないので、それほど乱雑では無いが、食べかけのピザやビールの空き缶の散乱が酷かった。京子はそこでやっと、自分が酷く、病的なまでに疲れていることを自覚した。このままでは煙草臭い体だけでは無く、精神的にも腐ってしまう。
 大きなゴミ袋に乱雑にゴミを放り投げていると、インターホンが鳴った。
 女の独り暮らしだ。すぐに返事をして開ける事はない。居留守を装いながら静かにドアに近づき、のぞき穴を覗いた。
 郵便局員の制服を着た男が立っている。
 荷物を何も頼んだ覚えはなかったが、もしかすると実家から何かが送られてきているのかも知れない。ただ今はブラジャーもしていないし、下も履いていない。急いでカーディガンを羽織、床に打ち棄てられていたジーンズを履いて応対した。
「二階堂京子さん、ですね。レターボックスが届いています。こちらにハンコかサインをお願いできますか?」
 病院に勤めていた頃はよく書類関係をレターボックスでやり取りしていたが、それ以来、久しぶりに見た。二階堂と素早くサインをして受け取る。郵便局員は忙しそうにすぐに出て行った。
 送り主は、藤田護だった。
 京子はそれを確認するとすぐに開いた。
 中には、皺くちゃになったH新聞と、USBメモリが一つだけ入っていた。
 H新聞には付箋が張ってある。そこを広げると、緑の蛍光ペンで火事の事故に線が引かれていた。札幌市あいの里…。
 焼死は1人。雲母タミ子。
 雲母はキララと読み、アネモネの苗字だ。日本でも数少ない苗字で、東北と北海道の一部の世帯しか存在しない。だから京子はアネモネが自殺したことをすぐに理解した。タミ子、古い名前だ。この方がもしかするとアネモネの祖母なのかも知れない。
 途端、京子の頭の中ではごうごうと燃え盛る家のイメージが浮かんだ。
 炎。
 炎とは火事の事ではないだろうか。
 新聞には事故の被害者、つまりは雲母タミ子さんが焼死したこと。どうやら仏間が火災の発生源で、放火の可能性は極めて低い事が書かれていた。
 だが、それ以上の情報は無かった。
 京子は急いでパソコンを起動させ、USBメモリを指した。
 中にはテキストファイルが一つ、入っていた。
 タイトルは「京子さんへ」
 これこそ藤田の遺書なのではないだろうか。
 静かに、そして確かに心臓の早鐘を感じながら、京子はファイルを開いた。

僕の話
 僕が屑であったことは、以前しっかり話しただろうから、詳しい言及はしないでおきます。どうしてこのようなテキストファイルを残したかも、今の京子さんならばわかると思います。
 新聞記者ならば、もう調べは着いているだろうと思います。佐々木という医師が、きっと書類送検されたでしょう。あれは僕の友人です。彼の弱みに付け込み、僕は通常では在り得ない量と組み合わせの睡眠薬と向精神薬を、処方してもらっていました。そのため、いつか必ず自ら死んでいたと思います。死ぬ前に京子さんに出会えて本当に良かったです。ただ、アネモネのことをこんな形で伝える事は少し残念です。本当ならばきっと、もっとちゃんと時間をかけて、京子さんに話してあげる事ができたのでしょう。
 でも、僕はそれが怖かった。
 なぜならば、僕は屑だからです。
 ギリギリになって、逃げてしまう。そんな人間だからです。
 こうやってたぶん僕が居なくなってしまった後に、文章として伝えるのは残念ですが、僕としては随分と楽をさせていただいています。
 そろそろアネモネの話をします。
 僕が大学を中退して5年くらい経って、それから偶然、本当に偶然にもアネモネに再会しました。ただ、あまり良い出会い方では無かったです。彼女は泥酔していて僕は家まで送りました。アネモネの家へ5年ぶりに行くと、大きく歯車がズレていました。僕の家庭と同じように、しかし僕の場合は自分が原因なのですが、家庭が崩壊していました。
 いえ、あれはもう、家庭とは呼べなかったと思います。
 京子さんは元々、臨床心理士だということですが…。
 重度の認知症患者のことをどう考えますか?もう言葉も通じず、理解不能の言動を行います。アネモネは、果たして「それが」人間なのか、という問いに立たされていました。苦しい人生だったのだと思います。だからこそ、あの炎がアネモネを救いました。まるで浄化です。キリスト教では炎が悪魔を浄化すると言いますが、アネモネにとって祖母は悪魔そのものだったのでしょうか。
 今もまだ、答えは出ません。
 僕はアネモネに何をしてやれたのでしょうか。
 
アネモネの家族の話
 アネモネの話をする前には、先ずアネモネの家族の話をしなければなりません。なぜならば、僕と同様に、彼女の家庭はボロボロに崩れていたからです。その話が無ければ、どうしてアネモネが自殺を選んだのか、本当に苦渋の選択だったことが何とはなしにわかるような気がすると思います。
 僕がアネモネと5年ぶりに再会した時、アネモネの両親は交通事故で亡くなっていました。母は即死で、父は身体に重度の障害を抱えてしまったそうです。
 アネモネの祖母は、実の息子、つまりアネモネの父を溺愛していました。
 アネモネの家は、会社を経営していました。アネモネの祖父が一代で創業した卸問屋です。祖父が亡くなってからは祖母が引き継ぎ、祖母は息子がその後を引き継ぐことを期待していました。
 それが、突然の事故で両手と右脚、声帯を失うという大きな障害を抱えてしまったのです
 当時はデイケアのような施設も少なく、アネモネの父は家で介護をするようになりました。アネモネの家は正直に言って、お金は有り余るほどありました。しかし祖母は、決して介護士を使おうとはせず、全て自分で世話をしたそうです。
 しかし、祖母の溺愛は、愛憎入り混じったものに変化していったそうです
 アネモネは夜中に父のくぐもった、痛苦の声を幾度も耳にしたそうです。最初は幻肢痛に悩む父の嗚咽だと思っていた、しかしそれが祖母の折檻だと気付いたのはしばらく経ってからだったそうです。
 そしてアネモネは聞いてしまったのです。
 祖母が父に「もう、人間では無い」と語りかける所を…。
 それから父は縄を結って縊死しました。
 父が死んで少したってから祖母の言動がおかしくなり始め、掛かりつけの医師に診断を受けたところアルツハイマー型認知症だと判明したそうです。
 そうしてアネモネの介護生活が始まりました。それはちょうど、京子さんが大学院へ進学する頃です。京子さんがアネモネと幾度か会ったとき、アネモネは介護生活で疲れていたと思います。
 気づかなかった京子さんが悪いのではありません。気どられないように振る舞ったアネモネが上手なのです。そして、どうしてアネモネが介護士も雇わずに祖母を介護し続けたのか…。
 それはアネモネの、復讐の季節でした。

アネモネの話
 ここから先は、アネモネが話したことを僕なりにまとめて書いたものです。
 決してすべてが真実ではありません。
 そして読むにはそれなりの覚悟が必要です。
 なぜなら…僕と京子さんが好きだったアネモネを、壊さなくてはならないからです。アネモネは、一度だけ、人の形をした鬼に成り下がってしまったのです。
 だから彼女は、人間を保つために死ぬしか無かったのではないか…。
 僕はそう思ってやみません。
 だから僕は彼女の死を、正当化しようとしているのです…。
 遅くなりました。アネモネの話を続けます。
 
 アネモネの祖母はアルツハイマーと診断されてから直ぐに自分の会社を処分しました。そうして結構な資産をアネモネに残しました。全てはアネモネを思ってのことだったのでしょう。
 しかし、残した資産を自由にできるはずのアネモネは、祖母を施設へ預けるようなことはしませんでした。徐々に脳が蝕まれていく祖母に対して、アネモネは献身的でした。風呂介助やトイレの世話など、介護の負担がぞくぞくと圧し掛かっていきました。それでもアネモネはがんばりました。
祖母が「もう、人間では無い」水準にまで障害が進むことを期待して…。

 しかし、さすがにアネモネは疲れたのでしょう。度々アルコールに逃げるようになりました。京子さんは大学院へ入ってからアネモネと会う機会が減ったかと思いますが、それはアネモネが大学を留年し、ほぼ飲み会のサークルへ入会して、大勢で騒ぎながら飲み耽り、現実から逃げていたからです。
だから、アネモネは京子さんに引け目を感じていて、とても会いづらかったと語っていました。
 ある日、いつものような飲み会でアネモネはあまりに飲みすぎてしまい、他のメンバーは二次会に流れたいという事で置き去りにされてしまいました。そんな時、僕がアネモネを発見しました。
 僕は僕で、家庭へ戻れない事情があったため、アネモネの家へ転がり込むような形で、居候させえてもらえることになりました。アネモネが、ぜひ家へ来てほしいということも言っていたので…。
 そこで僕はアネモネの祖母のことを知り、施設へと預けるように説得しました。
 しかしアネモネは祖母を施設へ入居させることは絶対にしないと拒みました。なぜなら…アネモネは頑なに、祖母が父を殺したと思い込んでいたからです。
 手が残っていない父が、どうやって縄を結って天井の梁にかけ、縊死したのか…。それは祖母が行ったからに違いないと言うのです。
 もちろん、父が自殺した時には警察が家へ入ったそうです。ただ、縄に唾液が残っていたことがわかり、アネモネの父は歯でロープを結んで首を吊ったと結論付けられました。自殺に関して、警察は関与したがらないのだそうです。
 復讐を果たすまで、祖母がもう自分でものを考えられなくなり、自由に動けなくなるまで、献身的に介護を重ねて、その上で殺すのだ、とアネモネは語りました。
「もう、人間では無い」
 それは、アネモネにも言えるのかも知れませんでした。

 ところが、僕が家へ転がり込んでからと言うものアネモネはその衝動がまるで無くなったかのように、殺意が鎮まってしまいました。
というのも、祖母は僕の前ではどういう訳か、素直に言う事を聞くのです。時折、僕に「貞夫」と声をかけてきました。貞夫、というのはアネモネの父の名前で、祖母は僕のことを息子だと錯覚していました。だから、大人しかったのでしょう。
 介護に苦労することが少なくなり、アネモネの負担がかなり減りました。
僕はそれまで夜警や季節労働など、その日暮らしでの労働しかしてきませんでしたが、就職活動を行って、介護用品を訪問販売する企業に就職しました。祖母が残したお金はありましたが、僕は自分自身でアネモネと、その祖母の面倒を見たいと思ったからです。
 しかしアネモネは単位が足りずに卒業が延びに延びていました。僕と同じように中退すると言いましたが、僕は反対しました。留年して、卒業はすることを決めてもらいました
 その頃になると、ついに祖母は寝たきりになり、胃瘻なども始まり、あまり手がかからなくなってきました。アネモネはこの頃になって、祖母を安らかに看取るという発言をするようになりました。
僕は安心して、仕事に専念することができました。

 しかし、しばらくしてアネモネはまたアルコールに逃避するようになります。大学も通わなくなっていました。僕は仕事が忙しく、なかなかアネモネと話す機会が取れませんでした。朝からアルコール臭いアネモネに僕は危機感を覚え、有給を取ってアネモネと話し合う事にしました。
 丁度、12月25日のことです。
 ここから先はアネモネと僕の会話を、覚えている限り逐語的にまとめたものです。

「どうしてまた、アルコールに逃げるようになったんだい?」
「父を想い出すの…」
「それは、タミ子さんが貞夫さんを殺したという勘違いかい?」
「違う、勘違いなんかじゃない! …私、先生と一緒に暮らし始めてから楽しくて、その気持ちを不意にしたくなかったから、だから、必死に考えないようにしていたの。でも、今の祖母を看ていると、また、じわじわと、父の幻影が浮かんでくる。父は、両手も左足も無かった。声も出せなかった。だけど、私は父が何を言っているか全てわかった。目がね、私に話しかけてくるの。手がね、私に語りかけてくるの。それじゃあ、なにも知らない、なにもわからないおばあちゃんは、何なの?『もう、人間では無い』って、どういうこと?どこからどこまでが人間なの?もう、おばあちゃんは、人間の欠片も残ってないじゃない!」
「アルツハイマーは、君のおばあちゃんは、もう人間では無いのかい?」
わからない、わからないわ…。わかるまで待とうって思って居たけれど…待てば待つほどわからなくなる。ねぇ、先生。人間って…何?」
 アネモネはそう話し終えると、階段の下にあった倉庫に行き、そこから荷造りヒモを手にとって、祖母の寝室へ向かった。
 僕はもちろんそれを止めようとした。
「おばあちゃんは、もう人間では無い…」
「それでも、アネモネ。それを決めることは、君にはできない」
「おばあちゃんは決めてしまったのに?」
「それは…そうしたら君も、人間では無くなってしまう…」
 そうやって祖母のベッド近くで押し問答をしたけれど、アネモネの意思は固い様だった。荷造りヒモを祖母の首にかけた。
 僕はアネモネを力いっぱい叩いた。
 その場に倒れ込み、アネモネは泣いた。
「どうして、先生…。どうして…」
 すると、もう言葉を発する事ができなくなったはずの祖母が、力強く叫びだした。それはまるで、泣き叫ぶ赤子のような声だった。
「貞夫、やめろ!死ぬな!」
 ヒモが首に掛かった状態で、タミ子さんは叫びます。
 そこで僕は気づきました。
 祖母が父に手を懸けたのではない。
 父、自らが、祖母に自殺の手伝いをさせたのではないかと…。
 そう話すと、アネモネは言葉を発することができないはずの祖母に尋ねました。
「本当なの?おばあちゃん?」
 祖母は先ほどの言葉をもう忘れたのか、目を見開いたまま黙りました。

 アネモネはその後、精神を目いっぱい使ったのか、疲れ果てて寝てしまいました。僕はアネモネを寝室まで運んで、夕飯の買い物に向かいました。その日はクリスマスです。ケーキやチキンを買って、アネモネを元気づけようと思いました。
 そして、アネモネに婚約を申し込もうと思いました。
 さすがにまだ、僕の給料で指輪は買えませんでした。だから、せめて言葉だけでも贈ろうと、帰りの車の中でプロポーズの言葉を必死に考えました。

 消防車のサイレンが鳴り響いた家に帰ったのは、プロポーズの言葉がちょうど浮かんでからです。
 アネモネは呆然と玄関に佇んでいました。
「憎しみは、どこへ行くの?」
 力の無い笑顔で、彼女は囁きました。
 もう、人間では無かったのかも知れません。
 発火源は祖母の部屋にあった仏壇でした。ロウソクが危険だったので、火を着けないようにしていましたが、なぜか出火元はそこなのです。明らかにアネモネの仕業でした。ロウソクに火をつけ、そのまま祖母を引きずり込み、倒した。
 事故であるように見せかけ、祖母を殺してしまったのです。
 炎が、燃え盛っていました。

 やがて鎮火しました。消防隊の活躍もありましたが、雪が炎の熱で溶け、雨になったのです。だから全焼することはありませんでした。
 ただ、祖母の部屋はほぼ焼けてしまい、祖母は焼死する以前に一酸化炭素中毒で亡くなったと推定されました。
 病院でひとしきり検査を受けたアネモネは帰り道にまた僕に尋ねました。
「先生、憎しみは、どこへ行くの?」
 僕はこう答えました。
「憎しみはどこにも行けない。行かせられないんだ」
 僕は、アネモネと一緒に買い物をしていたと嘘をつき、不幸な事故として終わらせました。警察も消防も、特に不信に思わなかったようでした。防犯カメラの映像を視ればすぐにわかるようなことなのに、疑いもしませんでした。

 それから釧路に引っ越しました。
 アネモネが釧路に移り住みたいと言ったのです。京子さんが釧路に居たからからも知れませんね。
 新居に引っ越し、二人で暮らし始めました。しばらくアネモネは籠りきりの生活を続けていましたが、徐々に元気になっていきました。
 アネモネはもうH大学は中退していましたが、釧路のK大学に編入して大学を卒業したいと言うようにまでなりました。
 そこで僕はアネモネにやっと、愛していることを伝えられました。
大学を卒業したら結婚して欲しいと、プロポーズしました。
 アネモネは久しぶりに笑顔になって「はい」とだけ答えてくれました。

 次の日、僕が会社から帰宅すると、アネモネが縊死していました。
 遺書にはこう書かれていました。

もう人間では無い、私。
自分自身を憎む炎が燃え盛り、貴方を愛そうとする雨が降ります。
ごめんなさい、先生。愛しています。

 僕は会社を辞めて、アネモネの残した資産で酒浸りになりました。
 精神科病棟から退院して、やっとアネモネの遺品を処理している内に、京子さんの連絡先が書かれた手帳を発見したのです。

僕の話2
 もし、可能であれば佐々木には悪かった、と伝えてください。
 彼は善人ではありませんが、悪い奴ではありませんでした。
 そして京子さん、僕の口から直接伝えられずに申し訳ありませんでした。
苦しかった。
 こうして文章にして、貴方に伝えられて、僕は楽になりました。
 最期まで見て下さってありがとうございます。
 さようなら。

第6章 終

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