次回作は駄作だろうか?

 元上司の精神科医曰く「常人の著作は三作までが限界。過去・現在・未来の展望でしか、即ち、人間は自分の体験を元にしか物語を書けないのだから」ということだった。

 それには大いに頷けるところがあった。
 僕の次回作はすでに完成しており、現在は三作目を書いて遊んでいるが、四作目の展望はない。全くない、という訳ではないのだけれど、普段だったら「序章から最終章まで一気に」思いつくところが、なかなか頭に浮かんでこない。序章で主人公が~……。と、止まってしまう。

 そういう意味では拙著「悪を与えよう」は僕の現在を映し出した著作かも知れない。本来は良くないことなのだけれど、自分の言いたいことや考えていることを小説の中で無理やり言い切った感がある。それがおもしろいと感じていただいた方には幸いだが、無理やり僕の思想をぶつけられた方にとっては交通事故にも等しい。

 「次回作は駄作」という言葉もある。
 これは必ずしもそうとは思えないのだが、僕の次回作に限って言えばそうかも知れない。拙著「悪を与えよう」があまりにもインパクトが強すぎてしまい、陽気なエンターテイメントを描いた次回作は平凡の凡のように思えるのだ。試読してもらった身内からは「一作目よりおもしろい」と評判なのだが、それはただ「おもしろい」だけであって、さて人の心に刺さっていくかと言えば、甚だ疑問ではある。

 なぜ「次回作は駄作」になるのだろうか。
 色々と理由を考えた。
 一つ目の理由として「一作目で作者の作風が決まってしまうから」というのがある。特に拙著「悪を与えよう」では、まともな登場人物がほとんどいない。みな、どこかしら狂気を帯びていて、それがまた魅力だと自分自身で自負しているのだが「狂気を描くのがこの作者の醍醐味」となってしまうと、例えば純愛を売りにする恋愛小説だとか、複雑なトリックを読ませるミステリ小説だとか、そういうのが書きにくくなる。
 確かに、太宰治が「陽気でハッピーで心底楽しくなる冒険活劇」を描いたら「……なんか違う」となる。そういう意味でいえば、作家は俳優業に近いものがあるかも知れない。阿部寛と言えばどうしても上田次郎のイメージが付きまとってしまうのは僕だけだろうか?

 二つ目の理由としては「過去性」にあるかも知れないと思う。
 比較的、自分の「現在」を描く小説は書きやすい。いま思っていること、考えていること、好きな男性像や女性像、どんな気持ちなのか、どういったものに興味があるのか、いくらでも書き出すことができる。
 なのでだいたい初回作は「現在」をモチーフにした作品を描くことが多い。となると、次回作は「過去」か「未来」を描くことになる。
 そしてまた、未来の展望を自分の体験を元に書くのも難しい。そうすると「過去」の経験・体験を元に小説を書くのが二番目に簡単となる。

 しかし「過去性」は時としてとてもつまらない。なぜならそれらの思いはすでに過去のもので、下手をすると「ただの昔ばなし」になりさがってしまう。それをおもしろく書けるのが本当の才能だろうが、常人には難しい。

 特に僕の次回作は「幽霊モノ」なのだが、それは僕の過去のお話が元になっている。僕が幽霊を見える体質と言う訳ではない(幽霊「らしき」物は何度も見たことがあるが)。ほぼ故祖母の昔ばなしだ。故祖母はばっちり「みえる人」だった。そのため僕は幼い頃から「あそこの廃屋はイタズラでも絶対にはいっちゃいけないよ」「あの森は不気味だけど安全だからたくさん遊んでおいで」などと言われたことがある。
 その経験を元に「幽霊モノ」を書いたのだが、どうにも、故祖母との昔ばなしに成り下がってやいなしないかなどと思うのだ。
 そこに「狂気」を挟む余地は少ししかなく、ほんの少ししかなく、ほーんのちょっとしかなく。「頭おかしい登場人物」を描くのを売りにしている訳ではないですが、それを期待する皆さんには物足りないだろうなぁ、と思うのであります。

 だから次回作は駄作というのは、あるんじゃないだろうか。

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