夏の終わりの夜明けの星に

夏の終わりの、ひとりごとです。


小学生の頃、私はいじめに遭っていました。

小学校に入ってすぐ、10代になる前から始まったいじめ。自分の人生にそれが落とした影の濃さは、大人になった今も、いや、今だからこそ実感しています。

私はいつも一人でした。口を開けば何もかも否定されるから、本当はとてもお喋りなのに、親が「生きているのか死んでいるのかわからないから時々確認しなきゃいけない」と嘆くくらいおとなしかった。

それでも私は学校を休みませんでした。勉強しないと親に怒られるからです。育った家庭は貧しく、生活苦のため見たくないもの、聞きたくないことが溢れていた。勉強して立派になって、親に楽をさせないと生きている価値はないと思っていた。周囲は田舎で本屋すらなく、インターネットもまだ発達していない頃。勉強するには学校に行くしかなかった。

世界中の何処にも、私の居場所は無かったのです。

あの頃の自分を、私はよく思い出せません。まるで自分じゃない誰かのことのように感じてしまう自分が居るのです。
私はそのうち、人生を諦めて闇に飲み込まれ、ぷっつり消えてしまうのだと思っていました。夢も希望も持たなかった。自分が未来の世界で生きているとは思えなかったのです。

そんな私の人生を変えた人がいました。小学校5年生の時に、遠くから転勤してきて担任になった先生でした。クラス替えがなく、四年間いじめられ続けていた私は、先生が敢行してくれた改革のおかげで、クラスメイトとも大笑いしながら喋れるようになり、楽しく学校に通えるようになりました。

今振り返ると、奇跡だったのでしょう。言ってしまえば、先生は自分の仕事をきちんと行っただけなのです。でもそれは、自分の周囲にあんなにたくさんいた大人が、誰も出来なかった、やろうとしなかったことだった。

大人になっても、平気でいじめが行われているから。自分の立場を、生活を守るために誰かを犠牲にすることが、当たり前のように行われているからなのでしょう。もちろん、それは当たり前などではない。少し考えたらわかることなのに、皆考えることすら放棄して見て見ぬ振りをしようとするのです。

その悩みは、苦しみは、行き場の無い思いは、もしかしたら、そんな大人になってしまわないために、もしかしたら神様と呼ばれるのかもしれない誰かが与えた痛みなのかもしれません。人間は、負ったことのない傷の痛みを理解するのがなかなか難しいようです。
一度も大人になったことがないからわかりづらいかもしれないけど、きっとこれからみんな大人になります。嫌でもなってしまいます。その時に、その痛みや傷を他人に背負わせない選択ができる人が一体どれだけいるでしょうか。


だから、学校に行かなくていいとは私には言えません。それはひとつの方法だとしか言えません。学校以外に安心できる場所があるのなら、としか。
私は学校で苦しんだけれど、そこから救ってくれたのもまた学校でした。

逃げてもいいんです。それは本当に大事なことです。けど、残念だけど、ドロップアウトした人間に日本の社会は非常に冷たいです。
そして何より、勉強するということは、「自分とは違う考え方が世の中にはこれだけたくさんある」ということを体系的に学べる絶好の機会です。大人と呼ばれるようになった時点で、生活費を稼ぐことが人生の主目的になります。勉強する時間は取ろうと思えば取れる。しかし、それには強い意思が必要になります。子供の頃のように、勉強だけに打ち込める環境を用意して貰える可能性は、残念ながら低くなります。

必ず勉強しなければいけないわけではなく、それ以外に道はいくらでもある。そんな方法がもっともっと増えたらいいと思ってる。だけど、その悩みに、苦しみに向き合う手段を知るひとつの方法が読書や勉強であることも確かだと思います。

人間はみんな、ひとりひとり違う。いじめの苦しみは本当につらい。でも、自分もまた誰も傷付けずに生きてきたと言えるでしょうか。誰も傷付けずに生きてはいけないけど、少しでも傷付けずに生きていくにはどうしたらいいのか。傷付けてしまったらどうしたらいいのか。間違ってしまったら、どうしたらいいのか。間違った者を、間違えられた者を、遠巻きに過剰にさらに傷付けてはいないか。
それを知るために、人間というものが何かを知るために、その基礎を作るために、我々は学ぶのだと思います。
罪を憎んで人を憎まず、という言葉があります。この言葉は正しかったのかもな、と今は思っています。いじめの苦しみは忘れないけど、それはいつまでも憎み続けることとは違う。人間を知らなければ、罪と人の区別もつけられないかもしれない。

学校に行かないのならじゃあどうしたらいいのか、というところまで考えて「学校に行かなくていい」と言っている人ばかりじゃない、ということは覚えていて欲しいと思います。もしそこまで考えていないのなら、それはただの無責任だと私は思っています。
もちろん、どうしても無理なら、今すぐ逃げてください。壊れてしまったら、意味がない。本当は、逃げる以外方法が無いなんておかしいはずなのですけどね。つらい想いをしている人に周囲が寄り添わなければならないのに…。

これはひとつの考え方でしかありません。私のような考え方をする人間もいるというだけです。正解などというものはほとんどこの世界に存在していないのだと思います。正解をひとつに決める必要はなく、よほど他者の尊厳を傷付けるものでなければ、正解はいくつあってもいい。どれが正解かは、色々な考え方や人の優しさに触れながら、自分で選べばいいんじゃないでしょうか。そして、誰かの選んだ正解も、ひとつの道として眺めることができたなら、きっとそれでいいんです。


偉そうに書いたところで、私も結局、行き場の無い気持ちに毎日苦しみ、出口が見えなくなっている、どうしようもない大人でしかありません。ただ年を重ねただけで、大人とはとても呼べない。それでも年を重ねたら、強制的に大人になってしまうのです、人間は。

私は自分が今、5歳くらいの子供なんだと思って暮らしています。当たり前に貰えるはずだった愛情が自分には足りていなかったのだと気付いた私は、それを自覚して自分で自分に愛情を与えることを始め、人生を1からやり直しているような気がしているのです。

大人は悩みを抱いてもすぐに解決できて、何でも知っていてわかっていて、子供より自分は偉いんだ、って威張ってもいい存在なんだと思ってました。大人になったら心が強くなって、図々しく図太くなって、楽に生きていけるのだと思ってました。
いざ大人になってみたら、全然違いました。大人も子供も、結局何も変わらなかった。子供は大人が思っているほど子供じゃないけど、大人も子供が思ってるのほど大人じゃないみたいです。

今はインターネットという便利なものがあります。とても怖いものでもあるけれど、上手に使えば様々な考え方を知ったり、自分の考え方を知ってもらうこともできます。その中に、わかってくれる人がいるかもしれません。

大好きなものを見つけるのもいいと思います。私は羽生結弦選手の大ファンですけど、彼がシニアデビューした頃からずっとその演技を見続けているうちに、初めて「誰かを信じる」ということの意味が理解できました。大好きだと思える人や作品や物は、人生を変えることがあります。それが、行き場の無い気持ちに、出口を見つけて来てくれるかもしれません。何より、楽しいですからね。ただし、無理矢理何かを好きになる必要はないですよ。


私のように、大人になってからやっと、自分の心の悲鳴や傷に気付くことがないようにと、すべての若い魂に祈りたい。
夜の闇は真っ暗だけど、目を凝らせば星の光が見えるかもしれないし、夜が明けた時には、きっと太陽の明るさが嬉しいから。それに夜が夜と呼ばれるから、朝が朝だと呼ばれるのだもの。どんなに無駄に見えても、人生に無駄なことなんて、たぶん何も無いんじゃないかな。
私も私の夜明けを探して歩いていきます。こんな駄目な大人が居るってわかったら、ちょっとは気が楽にならないかな?駄目かな?いつかまたどこかで、会えたらいいですね。それまで、元気でね。


「8月31日の夜に」で投稿しようと思った記事なんですけど、何書いても嫌味になっちゃうな、と思ってハッシュタグつけるの止めました。悩んでる最中はね、何言われても腹が立つものですよ。寄り添ってるふりした偉そうな大人の言い分なんて、たぶん聞きたかないだろうさ、と思ったし。
でもせっかく書いたので、そっと置いておくことにいたします。なかなかこの記事が書けなくて、今日も1日遅れの更新でごめんなさい。


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主にフィギュアスケートの話題を熱く語り続けるブログ「うさぎパイナップル」をはてなブログにて更新しております。2016年9月より1000日間毎日更新しておりましたが、現在は週5回ペースで更新中。体験記やイベントレポート、マニアな趣味の話などは基本的にこちらに掲載する予定です。お気軽に遊びに来てくださいね。

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