ただ、止まらない時間がそう呼び始めるだけのこと

大人になりたくない、とずっと思っていた。


小学校入学前に、関西から引っ越した。入った学校で、いじめに遭った。クラス全員から存在を否定される系統のいじめだった。
何か言うと嫌がられた。方言を笑われた。滑舌が良くないため、話をよく聞き返される。揚げ足を取られては馬鹿にされ、生意気だと罵られた。教室の中は、「私」と「私以外」に、くっきりと分かれていた。
先生も学校もきっとその状況は知っていたはずだけど、何か対策を取ってくれていたのかどうか、今となっては記憶がなくてもうわからない。ただ、いじめが止まなかったことだけは事実だった。

家に帰っても、家族は味方じゃなかった。抑揚のない喋り方をするな、親に逆らうなと叱られた。どうしてテストが100点じゃないのと怒られた。インターネットもない時代、本屋もない田舎では、勉強するためには学校へ行くしかなかった。いじめられてもいじめられても、私は学校を休まなかった。家にも、学校にも、世界のどこにも私の居場所はなかった。


私を救ってくれたのは、小学校高学年の担任だった。四年以上にわたるいじめは、ようやく終わった。あの先生がいなければ、とっくの昔に人生をこの世から投げ捨てていたかもしれない。

その先生の存在は、薄々感じていた私の疑問を明確にした。
「クラスにいじめや仲間外れがあることを認めて、向き合う」。学校の先生なのに、たったそれだけのことができない人がなんであんなにいたんだろう。先生たちのことはちっとも嫌いじゃなかったけど、その疑問はずっと私の心を去らなかった。

家の家計はどんどん傾いて、生活苦の日々は親の心を蝕んだ。お前たちのために頑張ってるんだ、と言われると辛くて仕方なかった。両親は不仲で、いつもお互いの悪口を言っていた。母が他人という他人を罵る度に、耳を塞ぎたかった。自分の心が踏みにじられるようだった。

大人に対する憧れや信頼の気持ちが、子供の私にはまったく湧かなかった。大人のくせに、あんなに威張っているくせに、小学生ひとり救えないじゃないか。何のために大人がいるのか、本気でわからなかった。

助けてもらえなかった。その気持ちは、たぶん生涯自分の心に影を落とすだろう。

まったく知らない人から外見に罵声を浴びせられる。そのくせ、痴漢には何度も遭った。一度友達が顔を確認してくれたけど、ごく普通のサラリーマンだったそうだ。

大人になりたくないと思った。あんなつまらない、下衆な人間になりたくないと思った。
子供になら許されることが大人になれば許されなくなることにも気付いていた。結局大人に守られている側の子供には自由なんか無いように見えるけど、本当に自由じゃないのは大人の方だと思った。若さは一過性で、その消失は時に非常に残酷であることにも、薄々勘付いていた。

子供が未来にたどり着くということは、すなわち大人になるということだ。その未来が、希望あるものに私には思えなかった。社会は不景気の波に揺られ、絶望しか待っていないように感じた。
「変わった子供」だった私は、不自由で理不尽で威張ってばかりの、当たり前で普通の大人になれる気がまったくしなかった。自分の未来が想像できなかった。


それでも私は大人になった。家の電話を取った私の年齢を聞いた相手が、それならもう大人ねと私にこう言った。家賃を払え。大家だったらしい。
私の人生を大人と子供で区切る瞬間があるとしたら、きっとあの時だ。もう、子供だから、は通じないんだと思った。

私は成人式にも行かなかった。大人になることの何がめでたいのか、本気で全然わからなかったから。今でも行かなかったことを後悔してはいない。


気がついたら、もう間違いなく子供とは呼べない年齢になっていた。私の世界を取り囲んでいた子供たちも、皆大人と呼ばれる年齢になっていった。

容赦ない子供だけの世界と時代から脱すると、外見をあからさまに罵る人も、痴漢も、激減した。少し安心して外を歩けるようになった。
滑舌の悪さは今も治っていないけど、他人が怖くてスーパーの店員に質問すらできなかったのに、「この商品はどこにありますか」と聞けるようになった。

親元を離れたことで、「親の意見は絶対」という思想の呪縛からも解き放たれた。いちいち親に伺いを立てなくても、自分の意思で決められる。生きていける。

子供時代の特権を失っても、子供の世界の外に広がっている可能性の方が断然無限だった。あんなに大人になるのが嫌だったのに、今は子供に戻りたいとは思わない。
大人がこんなに自由だなんて、知らなかった。


けど、狭い世界になると、大人のくせに相変わらずいじめを続ける人間と、その人間に迎合する人々が掃いて捨てるほどいた。子供でもわかるはずのことが、大人になってもわからない人で世界は溢れかえっていた。誰も何も、変わっちゃいない。

子供と大人を隔てるものは、ただ単に自分自身に経過した時間だけなのだと思う。生まれて20年も経てば、人間は強制的に大人になるのだ。ただ、それだけ。大人と呼ばれるにふさわしいか、大人らしい振る舞いができるか、そんなことは関係ない。

大人と子供の区別をつけたがるのはたぶん人間だけで、人間が文化的な存在だからこそ生まれる観念なだけなのではなかろうか。だが人間は人間である以前に生物である。それは絶対である。生物には誕生から死までの段階があり、その中に幼児期と成人期があるだけだ。それは自分自身で主観的に判断するものではないような気がする。

年齢以外の要素で、私を大人だと呼ぶ人間は地球上にひとりもいないだろう。私は時が来たから大人と呼ばれるようになっただけ。けれど、もう子供と呼ばれることもない。もう絶対に子供に戻ることはできない。子供じゃないのなら、それは大人である。
私は大人になったとも言えるし、なっていないとも言える。時の概念からすればそれは絶対で、けれどそれ以外の要素からすればそこに絶対など存在しないのだ。


大人になった、としみじみと振り返ることができるのは、しっかりとした子供時代という土台があるからじゃなかろうか。強制的に大人になってしまうまでの季節にそれを築けなかった者は、もがいてももがいても崩れ落ちる足元から動けずに、永遠に「子供」を彷徨うことになるんじゃないだろうか。

たぶん、本当の意味で大人になることができない私が、自分と同じ、将来永遠に子供を彷徨う大人を再生産しないでいられるか、自信がない。大嫌いだった、今も世界に溢れる「大人のくせに何もしない大人」と自分が同じじゃないと言える自信がまったくない。

私には永遠に、大人になった、と振り返る日は来ないかもしれない。

それでも、私はもう大人なのだ。私は、生物だから。


大人になりたくなかったのに、大人になってしまった。

でも、大人は楽しい。そんなに絶望しなくても、意外と楽しくて驚くと思う。時が来たら勝手に、私のようなクズでも大人と呼ばれるようになるのだから、大人にはどうしたってなってしまうのだ。大人か子供かの基準に絶対はないけど、時間だけは絶対だ。受け入れた方が楽になれる。どんなに拒絶しても、生物であるという運命からは決して逃れることはできないのだから。
でも子供にはもう絶対に戻れないから、今子供でいることを目一杯楽しんで欲しい。子供の頃の私には、そう伝えてやりたい。

せめて、自分が出会う子供にだけは、大人なんてくだらなくてつまらないなんて思わせずに、未来に希望を抱きながら楽しく子供時代を過ごしてもらいたいと思ってしまう。まあ、成長の過程でそういう時期は訪れるかもしれないけど、それはそれでいいのだ、たぶん。そして私はそんな理想的な大人の姿として子供の目に映ることはないだろうから、考えるだけ無駄なのだけど。

そうやって、もう子供とは呼ばれない自分を自覚する瞬間だけを「大人になった」と呼んでいいのじゃないかと、ふと思った。



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