銀のソナチネ:2

間もなく帰宅した母親に押し切られて、京一は渋々リビングのテーブルに腰を下ろした。
あまり食べ物にこだわらない京一が唯一目を輝かせる程絶品のケーキなのに、後で食べると力なく答える様子が、逆に心配になったらしい。
母に説明する言葉を何も持たない京一には、従う以外に術はなかった。

梓は京一のはす向かいに座っていた。白のリボンを結んだ黒いセーラー服。薄紅をほんのりと雪に混ぜたような白い首筋に、ほつれた黒髪が数本かかる。細い指でフォークを動かし、ふっくらとした唇にチーズケーキを運ぶ梓を、京一は夜空に明星を見つけた時のように、じっと見つめた。じっと見つめてしまった自分に気付いて、慌てて手元のケーキに視線を落とした。

梓は、自分が出会ったどんな人間よりも、綺麗だった。

急いでケーキを食べ終わると、京一は席を立つ。瑶介や母に内心の動揺を気付かれるのが恐ろしかった。
「ごめん、どうしても読み終えてしまいたい本があるんだ。ゆっくりしていってください」
四人で過ごしたかったのか、少し残念そうな表情を見せる母と弟に謝ると、梓にも一声かける。普段からぼそぼそと喋る京一の声がこわばっていたことに気付いた人間は、幸いなことに居ないようだった。
梓はきらきらとした笑顔を京一に向ける。瑶介君、いつも自慢してるんですよ、すっごく頭のいいお兄さんだって。屈託なく笑う少女の素直な賞賛に、それはありがとう、と小声で返事をすると、京一は三人に背中を向けてリビングを出た。


瑶介は、京一の3歳下の弟だ。

運動が苦手で大人しく、地味な京一と対称的に、瑶介は活発でスポーツ万能で、いつも仲間の輪の中心にいるような少年だった。京一ほどではなかったが学校の成績もトップクラスで、はっきりした顔立ちは女生徒の憧れの的だったという。弟さんに渡してくれ、と同級生から手紙を言付かったこともあったほどだ。

瑶介のことはもちろん兄弟として大切に思っているが、同時に自分とは違う世界の存在なのだとも思っていた。瑶介への手紙を渡されても、悔しいとも、瑶介が羨ましいともあまり思わなかった。京一は自分の空想の中だけで生きられる少年だった。宇宙の果てや元素記号の響きに思いを巡らせている方が、ずっと楽しいという少年だった。

高校生になった瑶介に綺麗な恋人が出来たのだと聞かされても、京一は特に何も感じなかった。そのうち会わせてくれよとは言ったけれど、瑶介が嬉しそうに話す存在がどんな色や形をしているのか、少し興味があっただけだった。弟の話でなければ、関心すら持たなかっただろう。
梓っていう子だよ、と照れながら瑶介が告げたその名前も、京一はとりあえず記憶の倉庫にしまっておいただけで、わざわざ取り出すこともしていなかった。

それなのに。

梓が街で評判の美少女だったことを、京一は瑶介が梓を家に連れてくるようになってから初めて知った。梓ちゃんが笑うと、不思議と何でも許しちゃうのよねえ、昨日もドーナツひとつオマケしちゃったわ、と近所のパン屋の主人が楽しそうに語るのを、京一は母に持たされた買い物メモを片手にぼんやりと聞いていた。
しょっちゅう遊びに来た梓とは何度も顔を合わせて言葉も交わしたけれど、梓はいつも、薔薇の花が薫るように笑うのだった。その笑顔は、ブラックホールに落ちた凍てついた心までも溶かすのではないかと京一は思った。

こんな優しい感情は、知らなかった。

梓の笑顔が、小鳥がさえずるような声が、京一の心に鳴り響くピアノの音色を叩き付けるような音に変える。
京一はその音に、耐えられなかった。

梓は、瑶介の恋人なのだから。




第3回に続く
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(全7回予定)


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