青少年のための正しい性教育

 6時間目の授業を終えると、ため息が漏れた。歩くたびに胃のきしむような音が鳴る体育館の床を踏みしめながら、重い足取りで体育教員室へと向かう。 

 明日はいよいよあの授業を行わなければならない。しかし講義計画は遅々として進まず、いまだにほぼ白紙のままだ。昨夜は参考資料として、インターネットの動画サイトでポルノグラフィをダウンロードした。けれども教師とはいえ27歳、心身ともに健全な成人男性である俺にとって、それはいたずらに性欲を刺激するばかりで何の参考にもならなかった。 

 近年、インターネットの普及にともない性に関する雑多な情報が氾濫し、特に10代の若者の間で様々なリスクが急増している。事態を重く見た政府は、青少年の健全な性的発達を促進するため、性教育の抜本的改革を緊急課題として挙げた。その結果、改定された学習指導要領において性教育の新機軸がうち出されたのである。 

 従来の性教育では、青少年の性行為は適切でないとする理想論に則して指導計画が策定された。当然ながら避妊方法などの具体的な指導は敬遠され、男女がたがいの価値を尊重し相手を思いやること、などといった極めて観念的な美辞麗句が読み上げられるにとどまり、性教育というものは事実上、単に教師が生計を立てるためだけにこなす形骸化した作業に成り下がっていた。 

 そういった旧弊を打破するため、新学習指導要領では青少年の性行為を前提とした上で、全国の中学校および高等学校において「健全な性生活を営む上で不可欠な正しい性行為の知識を授ける」ことが明確に義務づけられている。これにより、従来は曖昧にされてきた性行為の方法そのものが必須の学習単元となったわけである。 

 しかし、いきなり「正しい性行為の知識を授け」ろと言われても、現場の教師は困惑するしかない。そもそも「正しい性行為」とは何なのか、今まで自分がやってきた方法は正しいのか、それさえも判断がつかず、大半の教師は途方に暮れていた。 

 かくいう俺もまた、そんな悩める教師のひとりである。俺の勤務する高校は都内で最も学力水準の低い学校であり、仮に「正しい性行為の知識を授け」たところで、それを生徒が真面目に聴くとは思えなかった。 

 体育教員室に入ると、同僚の川津留美(かわつるみ)が俺と同じジャージ姿でソファーに座っていた。 

 俺より3つ年下の留美は、体育大学を出て教員免許を取得した後、産休に入った女性教員の代理として今月からうちの高校で働き始めた。学生時代はライフセーバーだったというだけあり、水泳で鍛え上げられた筋肉質な体は170センチはありそうな長身で、豊かな胸と引き締まった腰に重量感のある臀部(でんぶ)を持ち、たくましさと女性らしさを兼ね備えている。くりくりとした二重まぶたの目は垂れ気味で、少々ふくよかな頬と相まって可愛らしい。笑うと見える白い歯が、健康的に焼けた小麦色の肌やポニーテールに結わえた焦茶色の髪と絶妙の対比をなし、美しい。 

「おつかれさまです」 

 俺に気づいた留美はにこりと微笑んで会釈をした。 

「……大丈夫ですか先生?」 

 留美がそう訊ねるまで、俺は自分の口が半開きになっていることに気づかなかった。明日に控えた憂鬱な授業に頭を悩ませ、気が沈んでいるからこそ彼女の魅力に心を奪われ、その容姿に見とれてしまったのだ。 

「ああ、だいじょぶだいじょぶ」 

 そう答えると、俺は留美の座っているソファーの前を横切りデスクに着いた。体育教員室は12帖で、デスクの前にソファーと小テーブルが置かれ、ソファーの向かい側にメダルやトロフィーの並べられた棚がある。窓から夕日が差し込み、棚がキラキラと輝いている。

「はあ、もう、どうしよ……」 

 そうつぶやくと、留美は困り顔でこちらを一瞥した。俺はデスクに身を乗り出した。

「どうしたの川津さん」 

「明日、保健の授業があるじゃないですか」 

「ああ、あの授業ね」 

「そうなんですよー」 

 口元に苦笑を浮かべ甘えるような声を出す留美に情欲を覚えつつ、俺はそれを悟られぬよう平静を装った。「あの授業」については教員同士で気軽に相談できるものではなく、まして男女間では口にするのもはばかられた。にもかかわらず、無邪気なのか何なのか、彼女は俺の前で堂々と愚痴をこぼしている。 

 俺は男扱いされていないのだろうか。たぶんそうだろう。留美がこの学校に着任した初日から、俺は先輩教師として何かと彼女の面倒を見てきたが、それは必ずしも彼女の色気に迷ったからというわけではない。もちろんそれも多少はあったけれど、男女を問わず後輩に対して親切にするのが俺の数少ない長所なのだ。だからこそ彼女は俺の親切に下心を感じることなく、俺を慕って普通なら言えないようなことまで言ってくるのだろう。 

「実は俺も困っててさあ」 

 デスクの上にあったバスケットボールのルールブックをすばやく手に取り、意味もなくページを繰りつつ俺は言った。 

「いくら男女別だからって、生徒たちの前で話すには勇気のいる内容だよね」 

「ですよね。しかもあたし経験ないから余計不安なんです」 

「え?」 

 俺は思わず震える声で聞き返した。 

「川津さん、けい、経験、ないの?」 

「はい」 

 数秒のあいだ無言で見つめあっていると、徐々に留美の顔が赤くなってきた。 

「……あっ、いえあの、あたし明日が初めてなんです、黒板の前で授業するのは」 

 ようやく自分の誤解に気づき、俺は慌ててまくしたてた。 

「ああ、そういや今までソフトボールの授業しかやってなかったもんね。はは……」 

 俺は焦った。この失言が原因で万一セクハラの嫌疑でもかけられたりしたら、せっかくつかみ取ったこの職を手放すことになってしまう。 

 わざとらしく咳払いをしてから、俺はルールブックに視線を戻し、考えた。一刻も早くこの場から立ち去らなければ。不自然さを感じさせない程度の間を置いて、おもむろに席を立とう。 

「先生」 

 不意に声をかけられ、俺はぎょっとして留美を見た。風邪でも引いたようにまっ赤な顔で、今にも泣きだしそうなほど目を潤ませている。

「あの、あたし、その、性的な実体験もあんまり、あんまりないんです。今まで付き合ったのはひとりだけだし、その人と別れてからもう、1年以上何もなくて。だから先生、もし先生さえよかったら、あたしに、正しい性行為の知識を直接、教えてもらえませんか?」 

 もはやほとんど使いものにならない思考力をめいっぱい働かせ、俺は先人の遺してくれた知識を思い出した。 

 据え膳食わぬは男の恥、と。

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