『コリオレイナス』の血は我々に降り注ぐ

 主演がトム・ヒドルストンでなかったら、わたしはまず間違いなく『コリオレイナス』を観に行っていなかった。
 まあまあシェイクスピア好きの方だと思っているわたしですら、「コリオレイナスって何?」という感じだったのだ。
 悲劇か喜劇かも知らなかったし、好きな俳優と好きな作家が組むなら行くか、みたいなノリで観に行った。

 こういう流れでトムヒに興味のない人が『コリオレイナス』をスルーしようとしているのなら、非常にもったいない。
 とても、とても、もったいない。


 大半のシェイクスピア劇がそうであるように、『コリオレイナス』も話の本筋は非常に簡潔だ。
 物語は、喜劇と悲劇、庶民と貴族、平等と不平等、信念と移り気、といった二項対立を軸としており、その中心にいる主人公ケイアス・マーシアスが斃れるまでを描く。
 彼はその軍神のごとき働きを評してコリオレイナスの称号を冠している軍人なのだが、いかんせん貴族の出であるがばかりに民衆を馬鹿にしている。
 選挙権は平民などに与えるべきではない、とまで言うレベルだ。

 しかし、コリオレイナスは同時に非常に高潔な人物でもある。
 彼が軍人をやっているのはローマやそこに住む人たちを守るためだし、基本的には慈悲深い。コリオレイナスが憎んでいるのは、貴族たちの嘘やおべっかにすぐ騙され、コロコロと意見を変える「民衆」なのだ。
 これが上手く伝わらないと、一般人が大半だろう観客はコリオレイナスに感情移入できないままである。


 ジョシー・ローク監督の『コリオレイナス』がすごいのは、アンサンブルに複数の民衆役をやらせたところだ。
 普通に考えれば経費削減の一環だが、例えばコリオレイナスの妻ヴァージリアも劇中ではほんの少ししか登場しないのに、アンサンブルには加わらない。
 それに、いくらただの市民Aでも、同じ人が何度も出てきて前のシーンと全く正反対の意見を言い出すとかなり混乱する。大抵の人は、特にアンサンブルとなると、鑑賞前に誰がどの役かなど覚えようとはしないものだ。
 単に観ている内に慣れていってしまうのである。これがコリオレイナスの言っていたあれか、と文字で読むよりもだいぶ分かりやすい構造となっているわけだ。
 

 その間コリオレイナスであるトムヒは、舞台の後ろでずっと一人立ったままである。
 公演が行われたドンマー・ウェアハウスは比較的小さめの劇場であり、キャストは出演していないシーンでも舞台の背後に置かれた椅子に座っていて、袖にはハケない。
 その中でもコリオレイナスは周りが小道具を片付けていようが、座って休んでいようが、一度たりとも座らず動かず、胸を張ってまっすぐ前を見つめている。
 舞台に上がっていない時でも観客に威圧感を与える様は、もはや神的な印象すら醸し出す。


 従来このコリオレイナスには、上演当時32歳だったトムヒよりも年上の俳優がキャスティングされることが多かった。

 例えば2012年に公開された現代版コリオレイナスの『英雄の証明』では、ヴォルデモートで有名なレイフ・ファインズが当てられている。ちなみに『英雄の証明』の原題はそのまま“Coriolanus”なので、日本における同作品の知名度の低さが伺われる。
 威厳のある役だから年配の役者が起用されがちなのかもしれないが、コリオレイナスも数あるシェイクスピア劇の例に漏れず、気の強い女性キャラクターに押される役だ。

 特に母親にはめっぽう弱く、劇中には「これ以上叱らないでください」(第三幕第二場)とまで言うシーンもある。
 4・50歳の男性がそんなことを言っていたら少々、いやかなりマザコン気味に見えると思う。でも、未だ青年の粋を出ない、いかにもいいとこの坊ちゃんみたいな見た目のトムヒだと、何だか説得力があって、身の回りにいそうな親子に見えるのだ。
 ファン目線から言わせてもらうと、とてもかわいい。
 

 第二幕第三場でコリオレイナスが民衆からの票集めにボロを身に纏うシーンでは、恐らく意図的に背後から当てられたライトがトムヒのしなやかな体の線をくっきりと浮かび上がらせ、それまでの猛々しい軍人とは思えない繊細さを感じさせる。
 コリオレイナスが頑ななまでに嫌がっていたのも納得できるような、もはや滑稽と言ってもいいその姿は、近寄りがたい神ではなく、コリオレイナスをただの葛藤する若者として描く演出だ。
 けれど、トムヒがコリオレイナス役に選ばれたのは、彼の実力と若さだけではないと思う。


 原作でコリオレイナスは戦友となったかつての宿敵オーフィディアスの部下に殺害され、偉大な戦士としての丁重な葬儀が行われる。
 これが本公演だと、鎖で足から逆さに吊り下げられたコリオレイナスが、オーフィディアス本人の手によって腹を切り裂かれる。
 葬儀は行われず、その降り注ぐ血を、下に立ったオーフィディアスが浴びながら顔に塗りたくって幕が降りてしまう。
 映像で見てもらうと分かりやすいが、本当に大量の血糊を使っており、非常に暴力的でカニバリズムさえ連想させる終わり方だ。


 戯曲では明記されていなかったはずのコリオレイナスとオーフィディアスのキスシーンを入れるくらいだから、ローク監督が二人の関係をただのライバル同士ではなく、よりブロマンス的なものにしたかったのは間違いないと思う。
 コリオレイナスには妻も子どももいるが、オーフィディアスにはそのような存在はない。
 最終的に自分ではなく妻子とローマを選んだコリオレイナスに対し、オーフィディアスが憎悪を爆発させる様は、ある種コリオレイナスに対する恋愛的な嫉妬や恨みを感じさせる。キスを仕掛けたのもオーフィディアスの方だ。
 対して、コリオレイナスがオーフィディアスに向けて好敵手以上の感情を向けた場面は思いつかない。二人の関係は一方通行だと言って良いように思う。


 そう、コリオレイナスの息の根を止めたのはオーフィディアスだが、彼を敵陣を頼るまでに追い詰めたのは民衆である。
 英雄だと讃えたその口で、次はローマを追放せよと嘯く。
 そういう無責任な気紛れさはわたしたちにとって身に覚えのあるもののはずだ。


 トムヒはその素晴らしい例である。

 何年も「インターネットの恋人」とファンから神様のように崇め奉られていたのに、テイラー・スウィフトと付き合った瞬間、多くの人たちが瞬時に掌を返した。
 数年前のゴールデン・グローブの授賞式では、あれだけ完璧だ完璧だと言われていたのが嘘のように、シシニアスとブルータスが如きメディアの扇動を受けて急に批判が殺到した。

 晒し者にされ、意思などない肉塊のような扱いを受けるコリオレイナスへの移り気な民衆の仕打ちは、我々が有名人に接している態度そのものだ。


 気分が向いているときは褒め称え、それでもすぐに飽きて、何かあれば相手をおもちゃみたいに扱って罵詈雑言を投げかけ、「こっちの力を見せつけてやった」(第四幕第二場)と満足するわたしたちの姿は、『コリオレイナス』の時から何も変わっていない。


 コリオレイナスは劇中で「この世で生きてゆくには高潔すぎる」(第三幕第一場)と評される。
 でも、神は存在しない。
 ならば、そういう世を作っているのはコリオレイナスと同じ、人間であるわたしたちである。

 シェイクスピア最後の悲劇と言われる本作が書かれた時代から、400年以上経った。
 これからも舞台上でコリオレイナスは繰り返し繰り返し、わたしたちに殺され続けていく。




参考文献:
シェイクスピア(2007)『コリオレイナス』松岡佑子訳、ちくま文庫

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