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八神マキノ、青森四姉妹を調査する(前)


序、あるいは但書


 あらかじめ注記。この文書は情報の種別として「情報提供者・Pが花見の酔いに任せてまくしたてた話」etc. を私自身が随時録音、あるいはメモしたものに過ぎない。
 しかしその中には、アイドルグループ『青森四姉妹』所属メンバーに関する独自の内容を含んでいる。

 これがファタ・モルガーナの浅利七海を知る手がかりになれば、とは思うのだけれど……。同じくユニットメンバーの大石泉に関しても、その置かれた状況など、面と向かって問い質しにくい事項は少なくない。
 ひとまずは静観すること。そしてとにかく、揃って歌ってみること。

                ――八神マキノのメモより

――――――――――――――――――――――――――――――――

1、横笛と割符


「水本家の成立は、奥州合戦の直後まで遡る」と情報提供者・Pは言った。
 その一族は、水本を名乗る以前から八戸周辺(糠部郡)の有力者であったと目されるが、とりわけ奥州合戦や大河兼任の乱の決着がついた頃、ターニングポイントと呼べる出来事に遭遇したらしい。
 具体的には1191年、この一族は二人の武将を饗応したのだと――そういう風に、私は聞かされた。

 一人は山伏風の男――客観性を保つために名はあえて伏せるが、いわば敗者の側だった。
 水本家の初代にあたる人物は、この一行をしばらく匿って感謝され、源(みなもと)を名乗ることを許されたという。しかしこれを畏れ多いことと憚って、以後は水本(みずもと)を称したのだとか。

 源姓を持ち出すあたりは、源九郎狐の伝説を思わせるエピソードといえるかもしれない。源九郎狐は稲荷神の御使いであり、伏見稲荷で窮地の義経を救うなどして、その鎧と源九郎の名を授かったと謳われている。

 ところで流浪の山伏は、水本家に己が笛の技術とある楽曲とを伝えた。
 それは偶然か必然か、五条大橋で牛若丸が弁慶を前に奏でたものと同じであると噂され、云々。旧い書簡には「子守がてら」とも記されてあるらしく、つまりごっこ遊び中の設定ともとれる。現代においては、この説明の方がすんなり受け入れられることだろう。


 そしてもう一人は、南部光行――この当時にあって、彼は勝者の側に名を連ねていた。
 光行は奥州合戦で武勲をたてて頼朝に賞され、糠部郡の一部を所領として安堵されたという。彼はその領地の様子を知っておくためと称し、家臣数十人を率いて八戸を訪れ、やはり水本家の世話を受けた。

 光行は結局この地に移り住むことなく、本拠地の甲斐に戻っている。……しかし水本家の者たちと光行は、後の世の再会を約して《割符》を用意しておいたそうだ(少なくともPの話によると)。

 彼らのいわゆる《割符》は、横笛の旋律を用いて「山!」「川!」のようなやり取りを実現するものであったと推測される。
 後に両家の者が再びめぐりあったとしたら、ふたりが笛を奏でるだけで当時の出会いが証明されることになる仕組みである。
 嘘か真か、水本家と南部氏はこの時の友誼を重んじて、たとえ戦場で敵同士になっても決して刃を交えることはないという。

 戦場に笛を持ち込むとは、雅なことだ。あるいは、口笛で代用するのだろうか。それなら無理筋ではない。

 実を言うと、光行の母は和田義盛の妹である。
 この和田義盛は三浦義明の庶孫にして初代侍所別当、また梶原景時とともに源九郎義経の首検分を務めた男でもあった。
 Pの口振りによると、どうも光行が八戸を訪れた真の目的は、新たな領地の視察だけではなかったようだ。
 義盛は石橋山からともに戦ってきた甥っ子・光行を信頼し、とある人物――すなわち例の山伏の消息をつきとめるよう依頼したものと見られる。

* * *

 Pは花見酒に酔って、以上のような内容を語った。にわかには信じがたい話ではあるものの、「追う者と追われる者」という構図は、水本家に立て続けの賓客があったことの説明という点において、有効に機能している。
 そして「もしも私自身が光行と同じ立場で、その調査を行うなら――」という観点から眺めても、評価できる隠蔽策だ。山伏側と交戦する可能性を考慮に入れて家臣数十人を伴ったことも、適切な規模といえるだろう。

* * *

 光行は水本家の当主に探りを入れたが、のらりくらりとかわされた。
 光行が困惑したのは、この水本という人物が何者かに忠義立てした結果としての仕官や栄達を望んでいる節がないところだったという。その一方で、梃子でも動かないのである。

 水本家の当主がこのように振る舞った理由には、「主客の義は守らなければならぬ」という以上のものがなかったそうだ。
 すなわち水本は主(=host)であり、山伏は客(=guest)だった。そして光行もまた、水本の客である。

道理は権威に優越するというのが鎌倉武家の法だった。少なくとも御成敗式目の起請文にはそう書いてある。この時代でいう道理とはつまり、それぞれの家の慣わしだな。思うにあの時代の水本家においては、主客の義もそういった道理のひとつだったらしい」とP。

 『鉢木』という有名な話がある。
 主人が大切にしていた盆栽を火にくべてまで、客に暖を取らせたという美談だ(ただし『鉢木』における客の正体は北条時頼で、時代はやや下る)。
 これを東北にあてはめると、奥州藤原氏三代・秀衡と九郎義経の関係はもちろん、大光寺合戦で津軽曽我氏が北条氏残党を匿った理由も、根は同じだったのではないだろうか――というのが、Pの見解だった。

 私から見ると当時の水本家をめぐる状況はむしろ、前田利家が氏郷と政宗を饗応した件に似たケースのように思えるのだが……。遥か過去の出来事なので、そういった交渉の場の雰囲気というものが想像しにくい。Pの話を否定する材料もなく、言われてみればそうかもしれないという程度の距離感を私は採る。

 Pの方では珍しいことに「そのような人物が、どんな世のどんな場所にも、一人はいた方がよい」といった勢いで、有無を言わせず話を押し切った――いや、それどころか重ねて、一人二役の小芝居まで打つのだった。


「主客の義、なあ。では、私もそのように扱ってくれるかね」と南部。
「いかにも」と水本。
「では、私とその山伏はどちらも貴方の客だが、双方が戦を始めたら、貴方はどうするのか」
「無論、止めましょう」
「なんということをおっしゃる。ご主人、貴方は貴方でこの家を守らなくてはならぬ。そのような軽はずみから、ご自身が二人から矛を向けられることになったとして、一族に対してどんな面目が立つか」
「……そうですな。それはなかなかに、難しい問題です」
「さよう。心がけは立派であっても、実行するのは難しいこと。そんな話は世の中には五万とある」
「しかし、私は客と争うのも嫌なら、客同士が争うのも嫌でしてな」
「嫌で済むなら、そもそも人の世に争いなど起きはせぬ。そういうものではござらんか」
「そういうもの、ですか。いかにも仰せの通りですが、しかしそれは困りました。私としては……」
「さぞやお困りでしょう。とはいえ、私も退けぬ」
「困りに困って、退くにも退けぬ、さてはて……おお。今、鳥の啼く声を聴いて、ちょうどよい案が浮かびました。笛です」
「ほう? それはいかなる謎かけで?」
 南部も水本も、無類の笛好きであった。
「いつか私とあなたが戦場で顔を合わせることがあっても、その時は弓や矛ではなく、笛を手に取ればよろしい」
「うむ、するとどうなりますか」
「笛では誰も戦えない。だからなぜ戦わぬのか、などと余人に問われても『そういうものじゃ』で済んでしまう」
「そういうものですかなあ……」
「そういうことにしましょう。とりあえずは、私と貴方がそうであればよろしいのです。さても我々が笛を奏しているその一時に、弓を取って分け入る者が現れたとして、それが貴方の探し求める当の人物であるはずがありましょうか」
「……む」
「やはり、彼も笛を取るように思われますがの」
「……待たれい、ご主人、それではやはりあの男は」
「いや、私は彼の素性について何も知らぬのです。訊ねてみようと思ったこともない。ただ我々に武と礼の双方が備わっておりさえすれば、必ずや貴方の役目は果たされ、戦が終わるだけのこと」
「なるほど。武と礼が」
「できれば、我らの裔もそうあってほしいものですが」
「なるほどなるほど」
「試しに一曲、ここで吹いてみましょうか」
「吹けますか、ご主人」
「よろしければ貴方も」
「やろう」
「やりましょう」
 そういうことになった。

「彼らは、親兄弟で殺し合うことさえ珍しくないあの時代に吹いた、一陣の涼やかな風だったのだ」などと、情報提供者Pはなぜかしみじみと語る。

 また、彼はこうも述べた。「水本家が弓ではなく笛を手に取るに至ったこの経緯こそ、水本ゆかりがヴァイオリン・チェロなどの弓を用いる楽器ではなく、フルートを習うことになった理由なのかもしれない」と――

 私自身の感情として全てが嘘だと決めつけたいわけではないものの、後にこの小芝居には夢枕獏作品のパロディらしきところがあることを突き止めた。そういえば声色も、野村萬斎のものまねだったような気がする(巧くはない)。

 今のところ彼の話の信憑性はフィフティ・フィフティかそれ以下と見積もるべきなのだろう。にもかかわらず私は、この件に関する調査は続行――という判断を下してしまったことになる。まったく、度し難いな。


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2、飛車を落とす


 水本と南部が出会った世からおよそ百四十年後、光行の子孫は八戸に自らの前途を賭けた。そして築かれたのが「根城」であり、これがいわゆる根城南部氏の本拠地であった。それは1334年、建武の新政がはじまって間もなく築城されたものという。

 歴史に永遠の勝者はない。奥州合戦の勝者についても同じことがいえる。
 この百四十年における南部氏の歩みは、薄氷の上を歩むようなものだったといえるかもしれない。
 それはたとえば、比企一族滅亡や鎌倉二代将軍・頼家の死、そして和田合戦と同じ原因から導かれる必然である。

 南部氏のうち、後に主流となる三戸氏(盛岡藩主の家系)は時勢を読んで北条氏に接近したものの、光行の孫のひとりである南部(波木井)実継は、和田氏が滅ぼされた恨みを忘れることができなかった――あるいは「波木井は日蓮宗だから北条を敵視したのでは?」という受け取り方も、ないわけではないが――ねぷたの題材にしばしば和田義盛の三男・朝比奈三郎義秀が取り上げられるところをみると、どうやら必ずしも日蓮宗とは関わりなく、和田氏への親近感が、どこからか青森に持ち込まれているような気もするのである。


 護良親王を奉じて楠木正成の麾下に入った実継が、ついに赤坂城陥落によって屈した時、その老齢六十余とか七十とかいう。彼は六条磧で斬首に処せられた。おそらく時期的には、再起した正成を怯ませるため――あるいは単なる景気づけのためにである。
 その無念については、およそ記すべき言葉もない。
 そしてこのような一部始終を見ていた一族の者たちの中から、新たな烈士が現れても不思議はないことになる。

 1333年、彼らは鎌倉幕府を滅ぼした。
 この事件が東北に及ぼした影響がどんなものだったかというと、たとえば北畠顕家が義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて、陸奥国多賀城へと下向している。この時、顕家とともにあった有名な武将が、結城宗広や伊達行朝(伊達政宗は彼の子孫)である。
 そして今回の件に関わる顔ぶれとしては、南部師行・政長兄弟工藤貞行という名前もみつかる。南部の兄弟は新田義貞に加勢して鎌倉幕府を滅ぼし、はたまた東北では顕家のもとで軍馬育成や北条の残党狩り等に励んで、八戸根城の所領を安堵されることになった。

 このあたりまでの調べをつけた私は、ひとつの疑問点について、Pに訊ねてみることにした。スケジュール表によると、他の所属アイドル達はレッスン・あるいは仕事中で、彼と一対一になるのもそう難しいことではない。

「この工藤氏は? 工藤忍と関係あるのかしら」
「うん。津軽黒石の人でな。忍のご先祖さまにあたるはずだ」
「あっさり重要なことを……けれど、忍のプロモーションにその手の情報が差し挟まれたことはなかったように思うわ。確かな話なの?」
「そのへんはいろいろ、デリケートな問題があってな。詳しく知りたければ説明してもいいが――おれはおれ自身の判断よりも、マキノ自身の判断に興味がある。材料になりそうなことは話すから、後は自分で考えてみてくれ」

* * *

 南部の中でも、根城南部氏は頼朝に親近感を持つ。そして北条嫌いの南朝びいきだ。
 三戸南部氏は北条氏に懐柔された――あるいはマキャベリ風にいえば、逆に「北条を利用した」ともいえるかもしれない。
 東北一帯に広がる工藤氏にも、こういう政治力学が働いていたものと思えば、大きな間違いはないのだろう。
 そして南朝方についた一人が、黒石工藤氏の貞行だったものらしい。

 しかし時代の趨勢か、既に人心は朝廷の政から離れていた。一度は九州まで退けたはずの尊氏が再び京を目指すことができた時点で、彼らはなにかを悟ってしまったともいえる。「三木一草」と呼ばれた後醍醐帝の忠臣たちも、既に世にない。
 顕家は親王を奉じて二度、京を目指した。一度目は勝機が十分見込めたが二度目は決死行で、その軍勢の中には、南部師行や工藤貞行の姿もある。彼らは足利義詮を退け、斯波家長や上杉憲藤を討ち果たしてなおも進んだ。しかしその行き着く果てには、主従揃って高師直と戦い、壮絶な死を遂げる運命が待っているのだった。

 ただしどういう資料に基づいたものか、「最期の瞬間にあっても、師行の心に不確かなものはなかった」とまで、Pは述べている。
 なんでも「師行には忠義を尽くすべき主と、後を託すに足る弟がいたが、加えて一族の歴史が奥州に根を下ろし始めていると実感したことも大きかった」のだそうだ。
 それは師行が《とある人物》と奏でた笛の一曲のうちに象徴されよう――というのがPの言い分である。貞行は鼓でこれにあわせ、顕家は舞い、わずかに親王の心を慰めたという。
 Pの言葉の真実性を確かめる術を、私は持ち合わせていない。

* * *

 Pは以上のように語り終えた後、さらにひとつ個人的な感想を付け加えた。いわく「ろくでもないことだが言わせてくれ。《彼ら》は、犬死にしたわけではない」と。

「意地悪なようだけれども、尋ねてみたいものね。彼らによって救われたものとはなんだったのかを――武士の魂? 天の下の大義? 血筋の正統性? そのようなものかしら」
「そういう幻想を見るのも悪くはないかもしれない。だが、現在に続く命だって救ってはいるさ。たとえば、西園寺家とか」
「えっ」
「西園寺公経は頼朝の姪・全子を妻に迎えた人物だ。4代将軍・頼経はふたりの孫にあたる。頼経の実父・九条道家は北条氏の力を削いで三浦氏と組むべしと目論んだわけだが、この計画が宮騒動からの宝治合戦で頓挫してしまうと、京と鎌倉の調整役にあたる関東申次が九条では不適任ということで、代々西園寺の世襲になった。しかしそれもよしあしでな」
「……というと?」
「その頃の西園寺家は、まだ政治ゲームの手駒も少なく、陰謀劇に勘がはたらくとはとてもいえないポジションだった。それがよりにもよってこういう時代に、前に出てくるようになったんだよ。危険だとは思わないか」
「役職が人を作るともいうわ。その危険を制したからこそ、西園寺は関東申次を世襲できたのではなくて?」
「うん。できるやつだと見込まれた時こそが、一番あやういんだよ。そしてそのトラブルから、西園寺は逃れられない。なにしろ北朝も南朝も、元をたどれば単なる『ふたりの兄弟』だ。その兄弟の母が大宮院――関東申次や太政大臣という実績を評価された西園寺家から中宮に入った女性なんだぜ」
「……よりにもよって、という感じがするわね」
「ああ。南北朝分裂にあたって、西園寺家もふたつに割れた。関東申次としてつきあっていた北条と組んで後醍醐帝を暗殺しようとした公宗と、それを止めようとした異母弟・公重だな。
 公重の密告によって暗殺は未然に防がれ、公宗は誅された。これがいわゆる中先代の乱とその後の尊氏離反に繋がるわけだが、それはともかく密告した側の公重にしたって立場はないわけだ。彼はなにひとつ諦めはしなかったが、次第に公の場から締め出され、所領を没収されてゆく。
 もしも義貞が叡山に籠って正成や顕家たちと暴れていなかったら、本当に命そのものが危なかったぐらいだ」
「……つまり、西園寺琴歌の先祖にあたる人物が、その時に救われていたということ……?」
「抽象的な話になるが、彼はね、武家から身をもって学んだのさ。ふたつのものはひとつのもので、ひとつのものを永らえるためにふたつにわかれるのだということを。その推測の材料としては、公宗・公重それぞれの嫡子がともに洞院家の女性を妻に迎えたことを挙げてみようか……まあ、こういう話は、西園寺家に限るわけでもないと考えてもらいたい。上杉氏あたりに注目すれば、幾分わかりやすいかもしれないな」

 私は相槌を打つに留めた――しかし、気がかりな点は山積している。
 たとえば、なぜ情報提供者は、歴史上の出来事を見てきたように喋るのか。そして、《彼ら》とは一体、誰々のことなのか?
 訊きただしたとしても「師行とか貞行とか、顕家のことだよ」と言い訳されたら、それ以上の詮索はできない。
 しかしそこにはなぜか、叙述トリックを用いたミステリによくあるような違和感が漂っている。

「それにその、なんだ。北条への恨み節の果てに西上しただけだったなら、南部師行も工藤貞行も、おれには羨ましい存在ではないよ。中先代の乱の後にその首謀者だった北条時行が南朝方についたことは、彼らに心境の変化を与えた――と言えるのかもしれない。なんにせよ一面的な見方というのは、できないものだな」
「けれど多角的な視野をとるには一面が大事、ということもあるかもしれないわね。たとえば貴方から見た足利尊氏は、琴歌のご先祖様の仇敵ということになりはしないかしら」
「いや。彼は彼で、望まず歴史の表舞台に引っ張り出された傑物だよ。惜しむらくは、生まれるのが数世紀早かったんだ。現代に生まれていれば、愉快な社長さんで済んだろうに――そうじゃないから、骨肉相食んだのさ」

 Pは一体、私に何を物語ろうとしているのだろう?
 私は現代に生きる西園寺姉弟の関係を想像してみて、ふたりともに幸あれと思った。

* * *

「八戸に残った政長父子のうち、子の信政は貞行の娘たちのひとり・加伊寿御前を室に迎えた後、やはり四条畷の戦いで散った――まるで、楠木正行と共鳴してしまったかのようにな。
 だがこの夫妻は二男をもうけて、1360年頃になると嫡男の信光が根城南部氏の家督を継いでいる。貞行には男子の跡継ぎがなくて娘ばかりだったから、こちらからも遺領の大部分を任されたらしい」
「ふうん」
「なんだかよくわからんが、意味ありげな吐息だ」
「つまり貞行以降の黒石工藤というのは、根城南部に遺領のほとんどを託した後の、自活できる程度の力を残した工藤氏ということね。……でも黒石藩はたしか、南部氏ではなく大浦氏だったと記憶しているのだけれど」
「そのへんはまあ、根城南部も貞行の遺領をまるごと抱え続けたわけじゃないから。……たとえば南北朝が合一すると、いくら南朝遺臣でもそろそろ北畠氏を支え続けるのが難しくなってくるだろう? そのタイミングで主君筋の北畠を浪岡城まで案内して、周辺の安東氏あたりに『よろしうおたのもうします』とやって自活してもらったんだそうだ。これがいわゆる北畠浪岡氏らしいんだが――つまりどういうことかわかる?」
「黒石工藤氏は、かつての一族の本拠地近くに浪岡氏を招いて、根城南部に代わって北畠氏の末裔に仕え続けた……のかしら?」
「うん。そういえば貞行は安東氏のお家騒動に関わっていて顔が利いたし、後に陸奥鉄道の敷設に関わった工藤氏の中には、北畠氏と関わり深い伊勢方面に出て行った人もいるという話だ。考え合わせるといろいろ納得だな。
 しかし黒石に近い弘前を任されていた石川氏(三戸南部氏当主の弟の家系)は、もともと田子(馬淵川上流)を本拠地として、岩手の厨川工藤氏を従えた後に津軽にやってきたそうだ。だから我々が津軽の工藤さんを任意に掴まえて、少ない情報から黒石工藤と厨川工藤を見分けるのは至難といっていい」
「でしょうね……悪戦苦闘レベルで資料を掘り返して、それでも五分と見たわ」
「まあね。浪岡氏・石川氏のいずれとも、16世紀末に至って大浦為信に城を落とされてしまうんだが、それぞれ当主の生死すら文献によってまちまちといったような有様だから、家臣にしてみたっていわずもがなだ。……とにかく、為信は津軽統一の一手として黒石を抑えた。黒石藩が大浦氏の傍流である理由も、領内における旧南部勢力を抑える必要があったからだろう」

 忠義立てをしたところで、現実というのは厳しいものだ。しかし、Pは忍の家系が厨川工藤氏か黒石工藤氏かを特定しておきながら、なぜあえてこのような発言をするのだろう?

「……釈然としないところもあるわ。たとえば為信の浪岡城への進撃は、根城南部からの救援も間に合わないほどの電撃作戦だった……?」
「状況が許せば援軍を出して間に合ったかもしれんが――本来できることをできない状況に持っていくのが謀略というもんだよ」

 この頃、南部氏当主は三戸南部の晴政で、その跡目争いが本格化していたのだとPは言う。「嫡子がいないので弟あるいは甥っ子を養子を迎えてみたけれど、後に嫡男が産まれました」というパターンは応仁の乱の前後あたりから目立って武家によくあることだが、三戸南部氏もこれを全く地で行ったらしい。
 晴政の場合は従弟の信直(叔父・石川高信の子)を婿養子に迎えた後に、嫡男・晴継が生まれた。名前を見ればわかる通り、晴政は晴継に家督を譲りたくて仕方がない。信直はあっさり全面的に引き下がったものの、潔すぎて猜疑の目で見られ、北信愛(後に伊達政宗の謀略を破った名将)や根城南部氏の政栄に匿われていた。
 この状況で、信直の実家である石川氏だけでなく、かつての主君筋であった浪岡氏まで矢継
「動きたい気持ちはわかるが、そこをなんとか抑えて、ともに信直公を支えようじゃないか」と彼らを説得したのが、北信愛ということになる。

「根城南部は当主・八戸氏の血筋と、その弟など傍系の血筋である新田氏・七戸氏が姻戚関係でも結ばれ、補い合う形で成立していた。八戸氏嫡流が絶えれば新田氏か七戸氏の適任者が娘婿や養子になって八戸氏を継ぐ、といったような形でな。元は師行・政長兄弟の関係に範を仰いだものかと思うが、政栄もまさにこれに該当する人物だ。なにしろ新田氏から入って八戸氏の家督を継いだんだから、他に表現のしようがない」
「……そうか。だからこそ政栄は『三戸南部氏の嫡流は信直である』という立場を取って、強力に支持したのね。信直は自分と同じ立場だったから」
「マキノもそう思う?」
「ええ。そして大浦為信は彼らのそういった気質・傾向を分析しきって、利用したようね。政栄が信直を置いて八戸を留守にすれば、自身が嫡流と認めた信直は八戸ごと討たれてしまう。信直を伴って浪岡城や石川城に向かえば、南部は完全に二枚に割れてしまう。
 そうなるといくら南部領が広大でも、北の根城南部はいずれ為信に追い詰められ、南の三戸南部は伊達氏あたりに滅ぼされる――ということか。たとえるなら王手飛車取り……」

 晴政と為信は連携していたに違いない。しかしどれだけ実子に跡を継がせたかったとはいえ、これが肉を切らせて骨を断つどころの話で済むものだろうか。Pは私の言葉を引き取って、後を続けた。

「この苦境を越えた時には、三戸南部も根城南部も相当消耗していたようだな。重ねて、信直が当主になって間もなく秀吉が台頭してくる。奥州仕置きはあるわ、九戸政実の乱は起きるわで、改めて考えてみてもおっそろしい話だ……よく生き残ったよ、南部も工藤も」
「とはいえ工藤800年というらしいし、その時代の工藤氏から忍に繋がるまで、まだ400年ほどかかるわね。ちなみに実家がそういう血筋から出てるって、忍自身が言ったことなのかしら」
「忍自身はなんにも言わないさ。つまり結局はおれの調査能力に信頼がおけるかどうかって話に過ぎなくなってしまうんだが、そうだな……判断の決め手は、やっぱりアレか……」

 Pは腕組みして少し考えた後、デリカシーなどどこ吹く風といった音量で、腹の虫を鳴らした。

「……続きはまた今度ということにしないか。話の内容が内容だけに、飯でも食いながら――とは行かないからな」
「外ではできない、秘密の話もあるでしょうからね」


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3、口を封じるということ


 戦乱の世の常として、根城南部氏は水本家以外の者とも手を結び、八戸における影響力を高めようとしていた。
 その具体的な例を挙げると、八戸(名久井)工藤氏や津軽(黒石)工藤氏になると、Pは言う。

 レッスンルーム前、自販機まわりでの立ち話である。誰そ彼時といってもよい時刻で、私以外にくつろぐアイドルがいてもおかしくはないはずだが、不思議と周囲に人影はなかった――まるで人払いの結界でも張られてあったかのようだと私は言いたいが、その言葉が誇張にならないかどうかについては、おそらく現代的手法では確かめることができない。

「南部氏は他に鹿角郡の成田氏ともつきあっていたようだが、その理由についての話をするのは難しい。源平合戦や奥州合戦の頃から顔見知りだったといえばそれも間違いではないだろうし、『成田氏は武蔵七党の横山党から出た』という説が正しければ、同じ派閥の同僚みたいな付き合いだったのかもしれないが、そこから先はさてはてという感じでもある」
「南部光行は和田義盛の甥だったから、その依頼で彼らは八戸に来た――というのが貴方の持論だったわね。これにくわえて横山党も義盛の信頼する人材集団だったと」
「酔っ払いの話までよく覚えてるよな、マキノは……。しかし成田氏がその件で動いたという話は聞かないね。葛西清重が奥州総奉行になったのと同じく、成田七郎助綱は奥州合戦での功績を評価されて武蔵から鹿角に出向いたと受け取っていいだろう。葛西氏や成田氏が御家人として活躍した場面といえば、他に大河兼任の乱というのがあるな」
「ふむ」
雪乃さんの実家の相原家も、おそらくはこの戦と関わったことがある」
「……そうなの? 初耳といえば初耳だわ」
「大河兼任は奥州藤原氏の家臣で、奥州合戦以前は八郎潟の東側を任されていたそうだ。主君を喪った兼任が義経や木曾義高を騙って幕府に反旗を翻すと、まあ奥州新体制は当然、頼朝にいいところをみせなきゃならなくなる。成田氏も相原(=粟飯原/藍原)氏も、元は同じ横山党から分かれた一族だから、連携してこれに当たったというのがおれの考えだ。どちらも山岳での軍事行動に騎馬を用いることができたわけで、お強いったらない」
「ふうん。義経と鵯越をご一緒していてもおかしくないような猛者揃いという感じかしら。だからこそ乱の鎮圧にも向くんでしょうけど」
「……それはそれとして、雪乃さんの実家が成田氏を手助けして以降ずっと秋田に残っていたのか、和田合戦の後で成田氏を頼って東北に向かったのかは、おれ自身ちょっと掴みきれてないところがある。雪乃さん本人に訊ねるのもアレな感じがするし」

 私もPも、しばらく歴史の流れを追うのを中断して、アイドル・相原雪乃の最近の仕事について、それぞれの感想を述べ合った。要はSSR[いっぱいの感謝]相原雪乃+が今後のアイドル界に及ぼす影響力や存在感を、あれこれ指摘しあったのである。豪奢なMV用セットが好評を博す昨今、ノーブルセレブリティや櫻井桃華と同等以上の存在感を、彼女も発揮することだろう――といった観点において、二人の見解は一致をみた。

 ちなみに横山党の嫡流それ自体は、和田合戦で和田氏に味方して衰退してしまった。関東における横山党成田氏の跡をうけたのは安保氏で、たとえば『のぼうの城』に登場する成田氏は、安保氏系の子孫なのだそうだ。これについては、下手につっつくとまたもや野村萬斎のものまねを披露されてしまうような予感がするので、そっとしておきたい。


*  *  *

「面白い話ではあるけれど、話が本筋から脱線してしまったわね。今日は工藤氏のことを訊ねに来たのに、どうやら雪乃さんに夢中になってしまっているというか」
「うーん、いわれてみれば、予定になかった情報まで引きだされている気がするぞ。しかし何から説明すれば効率がいいか、難しいところだ。……えーっと、一口に工藤氏といっても立場はいろいろあって、この成田氏や南部氏と同じく南朝方についたのが黒石工藤の貞行だっていうところまでは、共通認識のはずだな。一方で、名久井工藤の中には日和見に入った者もいて、厨川工藤は北朝方に期待する者が多かった」
「当時の奥州にいた工藤氏は、少なくとも三派に分かれるわけね」
「そんな感じだ。奥州に来たのが一番早かったのは、厨川工藤だろうな。彼らは時政の腹心といわれる工藤景光の裔で、奥州合戦の功で安堵された岩手郡(岩手山以南の盛岡市あたり)を拠点にして東北に広まった。だから全員がそうだと決まっているわけではないが、基本的に北条得宗家と関わりが深い。厨川工藤に南朝方と矛を交える機会が多かったのもそのためだ」
「滅亡はしなかったはずね? たしか三戸南部庶流の石川氏に従ったと」
「うん。石川高信がそれをやったあと、津軽に赴いて為信に敗れたという話を、前回したんだっけか。
 南部氏の中でも三戸南部は、北条に接近していたグループだ。恩讐よりも利害を秤にかけるところがあって、たとえば南朝方についたようでいても北朝方への目配りを忘れずにいた。後に南北朝合一の時には三戸守行が、根城南部の信光を説得して隠居を勧めている。信光は弟の政光に家督を譲って隠居することで、やけくその戦で命を落とすことなく、かつまた『二君に仕えず』というポリシーも枉げずに済んだわけだ。
 そういうポジション取りの巧みさを一族で保ったからこそ、三戸南部は盛岡藩主になったといえるかな。厨川工藤も根城南部も、江戸時代にはその家臣団に組み込まれていた」
「盛岡周辺の一族の力関係も、その時には半ば決定していた――という感じね」
「決定打は、あくまでも秀吉の《奥州仕置き》だぞ」
「ええ、一大イベントだったようね。それで、東北に現れる工藤の二番手は? 黒石工藤? それとも名久井工藤?」
「うーん。同時かな。彼らは顕家が東北に来る数十年前に、既に東北に落ち延びてきたらしい」
「どういうご用件でかしら」
「そうだな……《曽我兄弟の仇討》って、知ってるかい。さっきの工藤景光も関わってくる話になるんだが」
「ええ、多少は。けれど、あれはあくまでも脚色された物語でしょう?」
「忠臣蔵の真実が云々って話もあるし、構えたくなる気持ちもわかるけどね……とりあえずは筋書きをなぞってみよう。どこが脚色かは、気になった時に調べてくれればいいさ」

*  *  *

 初期の鎌倉幕府は安定したものではなく、むしろ坂東武者の反骨精神によって危地に瀕したこともある――そのようなエピソードの典型例が、曽我兄弟の仇討ちなのだという。
 八戸工藤も津軽工藤も、ルーツはそこにあるらしい。

 伊東祐親は流罪で伊豆にやってきた頼朝の面倒をみていた人物だ。彼の身辺で起きた諍いが、この事件の発端であるとされている。
 正確なソースもない話なので詳細を省くと、要するに彼は家督をめぐって、従兄弟であり娘婿でもある工藤祐経ともめた。
 平重盛に仕えていた工藤祐経の上洛中に、邸の運営を買って出たはいいが、その際に横領その他、無茶苦茶なことをした――というのである。

 祐親にしてみれば、婿のものは娘のものだし、そもそも自分こそが一族を率いる者であると考えていた。そしてそれは、あながち間違ってもいない。事の起こりは祐親・祐経に共通する祖父が後妻の連れてきた娘を溺愛し、彼女が産んだ子に家督を継がせるという失策にあったのだから。先妻と嫡子が早く世を去ったためそうなったのだが、これが嫡孫にあたる祐親にとって、面白かろうはずがない。

 若き日の頼朝はこのような一族に監視され、生殺与奪を握られていたのだった。推理小説に出てくる旧家さながらの、こみいった因縁である。

 平重盛は工藤祐経に頼まれて、この一族の争いを仲裁した。伊東祐親には本来の所領を継がせ、工藤祐経にも別の所領(宇佐美荘)をあてがっておいた。温情ともいえるだろう。現代人から見て、誰の力を削ごうという意図もなさそうに思われる。
 しかし祐経はこれを恨んで、正面切って伊東の家に討ち入ろうとさえした。今度は頼朝が間に入って仲裁するものの、もはや祐親の側でも激怒している――取り返した娘・万劫御前を、即座に土肥遠平の妻にするほどに。
 こうしたもめごとがエスカレートする中、祐経はとうとう家臣に命じて祐親を闇討ちにかけ、狙いから逸れた矢は祐親の嫡男(万劫御前の実兄・河津祐泰)の命を絶ったのだった。

 工藤祐経は、もともと弓や剣の腕に覚えがある人物ではなかったらしい。たとえば頼朝から「酒宴の席で一条忠顕を暗殺せよ」と命じられるも遂行できず、本来フォローのために同伴していた天野遠景(天野氏も工藤氏も祖は同じなので、遠縁の親戚にあたる)が役目を果たしたという話があるぐらいだ。これは率直に言って祐経が「暗殺に向かない性質」であることの傍証ともいえる。むしろ重盛の元で京の文化に浴して、諸々の作法に通じている点を頼朝に買われた男なのだろう。「あと、頼朝が政子のことで愚痴をこぼしたくなったとしたら、聴き手には祐経が最適だったろうな」と、これはP。
 それゆえ祐経がこういう事件を起こした背後には、なにをどうしても動かしがたい決断があったと考えられるのだが……。それは頼朝と八重姫(万劫御前の実姉)の子が、平家を恐れた祐親によって殺されたことに起因する義憤だったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。ともあれこうして工藤祐経に父を殺された遺児たちは、母の再婚先に連れて行かれて養父・曽我祐信の元で過ごした。――彼らがすなわち、曽我兄弟である。

 成長した曽我兄弟が、富士の巻狩りを機会と定めて(頼朝暗殺に失敗した一方で)工藤祐経を討つことに成功すると、今度は祐経の遺児である犬房丸が、肩身の狭い身の上になる。犬房丸はいわば忠臣蔵で敵役扱いされた吉良一族そのままのポジションともいえるだろう。曽我兄弟に限らず犬房丸もまた、伝承の内に外に、生き続けた人物だったのである。

「ところで、曽我兄弟の元服をしたのは北条時政なんだ。北条にしてみれば『頼朝の寵臣』と呼ばれるほどになった工藤祐経は、比企と同レベルで邪魔だった」
「公暁を使って実朝を暗殺するのと、全く同じ手法で仕込んでいたと」
「断言はできないが、おそらくそういうことだな。いい手駒だっただろう。ところが、必ずしもよくない手駒というのもあったようだ。
 たとえば厨川工藤氏の祖とされる工藤景光も、祐経と同じくこの巻狩りに参加していてな。弓の名人のくせしてわざと鹿を射損なって、『不吉なので狩りは中止した方がよろしいかと。私も体調が悪くなってきたので休みます』と頼朝に進言したという」
「……それは聴いたことはあるけど、史実なの? 仮に史実だったとして、どういう意図に基づく警告だったかということも問題だと思うけれど」
「今となってはわからないよな。頼朝暗殺さえ防げればよかったのか、祐経もできれば助けたかったのか。一応ふたりは六代前に甲斐工藤と伊豆工藤に分れた、まあ遠い親戚にはあたるわけでさ」

 しかし、あるいは――と、Pは続ける。

「考えようによっては、こうも取れるかもしれない。祐経は自身が大人しく曽我兄弟に討たれることを条件に、なんとしても頼朝を逃がすよう、景光と取引したのではないか、と。
 もちろん、ふたりの間に北条は立っていなかったはずだ。こういった独断の積み重ねが、仇討事件の報せを聞いて頼朝も討たれたかと取り乱す政子の姿に繋がる。この直前、政子は実の子の頼家が狩りで大手柄を立てても冷たくあしらっているんだが……。頼朝の置かれた状況を思えばそれどころではないし、世代交代がうまくいく吉兆はそのまま頼朝暗殺の行方を占う凶兆でもあったと考えられなくはない。
 この事件はその後、範頼の失言・失脚はもちろん、時政と政子・義時姉弟の心理的対立の一因となって、ドミノ倒しのように影響の余波を広げていった」
「……まさか。……聞いたこともないわ、そんな話。どこからもってきた説なの?」
「時政と政子・義時の不仲を説明するには、牧氏事件だけで十分だと思われている節はあるからな。加えてこれは出所の確かな話でもなく、あえていうならおれ自身の脳みそが整合性ある答えをでっちあげたにすぎない。武士の情けというやつがあるなら、そういうこともありうるかなって程度の話だ」

 そして彼――景光はこの時の病がもとで、祐経の後を追うようにして世を去ってしまう。それが口封じだったかは身内にもわからないまま、彼の子孫たちは北条得宗家に仕え続けるのだった。

「ここらで東北に話を戻そう。父を喪った犬房丸は、青森の外ヶ浜に赴任するよう命じられた。そこは現在の浅虫温泉あたり――陸奥湾に臨んで一見のどかに見えなくもないが、実は例の大河兼任が幕府との戦場に選んだ場所のひとつでもあった。つまり、幕府は外ヶ浜を攻め落とすノウハウを既に持っていることになる。
 加えて、外ヶ浜は津軽曽我氏の所領――平賀郡や鼻和郡からそう離れていない。いうまでもないことだが、そこには曽我兄弟の実母もいるんだぜ。おれの目に映る状況としては、『揉め事が起きるのを待って処断しよう』って感じだ」
「……徹底的もいいところね」
「うん。結局のところ北条は、比企氏・畠山氏・和田氏と立て続けに有力御家人を始末した結果の人材不足を補う都合や、承久の乱に備える必要性から、矢面に立たせやすそうな犬房丸――そん時はもう元服して祐時だな――を呼び戻したわけだが、一族が丸ごと朝敵として滅ぼされることを恐れてか、病の床に伏した身内を看病させるためか、とにかく祐時には青森に残した息子たちがいたという」
「すると名久井工藤も黒石工藤も、犬房丸の子孫ということ?」
「らしいね。両者の違いは犬房丸の長男筋か次男筋かというよりも、外ヶ浜から後に津軽黒石に向かったか八戸名久井に向かったかという点で考えた方がよさそうだ。
 そして黒石工藤の貞行は、祐時が承久の乱で戦って北条に恩を売ろうとしたのと同じように、安東氏の乱で戦った。景光の裔の中には厨川に赴任しなかった者もいて、そちらの貞祐という男が北条と繋がっていたから、協力の要請が来たんだな。
 安東氏――こちらはさっき浪岡氏が成立するあたりの話でも出てきた名前だが、安倍貞任の遺児の興した家が北条の御内人になって、以後も勢力を維持したものだという。こういう説明よりは、後の秋田氏といったほうがわかりやすいか。まあ、当時は八戸以外の青森沿岸部にものすごい影響力を持っていたそうだ。
 この一族のお家争いがおきたタイミングで、北条高時の家宰・長崎高資は賄賂を受け取っておきながら、仲裁に大失敗した。安東氏のお家は二派に分れて喧々諤々ということになってしまったが、高時はたいして気にも留めず闘犬だの田楽だのに夢中だったとか。まあ頼家と同レベルで筆誅くらってる感がないわけではないが、特に対処がなかったことも事実ではある。貞行はその尻拭いを手伝ったことになるな。ご苦労さんな話だ」

 北条氏の家宰である長崎氏が、相続問題に一枚噛んでおきながらまともな仲裁をしなかった例は、安東氏に限らない。根城南部氏の師行・政長兄弟にしても、父祖からの土地を横領されて訴訟したが、相手方が長崎氏に賄賂をねじこんだせいで、甲斐の所領を一部手放すことになったという(彼らが新田義貞の挙に応じて鎌倉を滅ぼしに出かけた理由の半分ぐらいは、むしろそこにあったのではないかという説が有力らしい)。

「それで貞行がいい仕事をして、北条氏は機嫌を直してくれた?」
「諸手を挙げて『よくやった!』というほどではないな。『左様か』程度だろう。そもそも安東氏の乱が起きた経緯を見ればわかる通り、鎌倉末期の北条は地方のいざこざに興味がない。当然のことながら、犬房丸の血筋と津軽曽我氏宗家との関係についても対処しないままだ。だからこそ黒石工藤の貞行は、南朝についた」
「……ああ、そういう流れね」
「鎌倉幕府が滅びた後に東北で勢力を伸ばした南朝方は、恭順を誓わない北条残党を片っ端から丸裸にするつもりで、それは貞行にも都合がよかった。大光寺合戦はそのプランの実行例で、南部師行と工藤貞行は、この戦場でお互いを認め合ったと言えるだろう。
 師行はどこまでも顕家に随い、最後は高師直と戦って石津で散った。貞行もそこで討死したといわれているが……」
「いわれているが……って。なんなの、まさか」
「ああ、生きのびた。顕家も師行も、それを望んだからだ。工藤貞行は、どうしても生きなければならなかった


 私は思わず数歩、彼との距離をとった。
 誰も知るはずがない――そんなことを知る術は、少なくとも現代に生きている私たちに、ありはしないのだ。

「なぜ知っているの、それを。……まさか、貴方は……」
「冗談とは受け取らないんだな。流石だよ。だがその話は、最後の〆にとっておこうじゃないか」

 なに、逃げも隠れもしない――と彼は言う。

「続けてもいいかい?」
「……ええ。どうぞ」


(後編に続く)